土曜日, 12月 23, 2006

映像詩:海の一日


12月は研究室のゼミで


Xmasスペシャルというイベントがあって


なにかだしものをしなくてはならない。





このくそいそがしい時に・・


と思いながらも現実逃避で


いままで撮った映像を探しはじめたら


去年の夏に研究室旅行で


沖縄の渡嘉敷島にいったときに


撮ってお蔵入りしていた映像を発見する





おもしろい映像を撮りたくて


早朝の海岸を撮ってみたり、


防水したデジカメと


浮き輪とシュノーケルと魚肉ソーセージを装備して


熱帯魚を撮ってみたりしたのだが


今回、唯一つ掘り出し物だと思ったのが


気のすすまないオンゾウに


魚肉ソーセージをあげて


カメラの前を横切ってもらった


この10秒の映像。






D





脱力した感じが生み出すなんともいえない余韻が


波の音と重なって心地よい。











詩は人生を豊かにする(きっと)


そして詩とは映像である(たぶん)





古池や蛙飛び込む水の音





は言葉でありながら日常の


一瞬をとらえたすばらしい映像なのだ、と思う。





映像詩 里山 命めぐる水辺 [HD DVD]


昔、NHKスペシャルの「映像詩 里山 命めぐる水辺」という


すばらしいドキュメンタリー番組を見て


映像が詩になることを知る。





詩になる映像を「映像詩」とよぶ。


この「海の一日」は


さわやかな風がふわっと吹き抜ける一瞬を


とらえた映像詩なのだ!!





・・という苦しい説明を


作品をエンドレスで再生しながら


みんなのまえでしたら


優勝した!うれしいなり。





YouTube:


http://www.youtube.com/watch?v=Xw54ofcNjQE


土曜日, 11月 25, 2006

名探偵・メカ・奇想


ヤフー動画でアニメ「名探偵ホームズ」を見た。


http://streaming.yahoo.co.jp/p/t/00114/v00630/





面白くて、懐かしくて、3話すべてみてしまった。


小学生の頃、早朝に放送していて、朝早起きして見ていたのを思い出した。





記憶の中でエンディングテーマソングのサビの部分の


「24時間あたまのなかでなにかが」


という歌詞がリピート再生されるんだけれどその先がなくて


ずっと気になっていたところ





「24時間あたまのなかでなにかがダンスしている人なんだから」


という歌詞だったことが判明して頭がすっきりした。





「24時間あたまのなかでなにかがダンスしている人」


という言葉に親近感を感じてしまって、いい表現だ・・と思う。。











第三話の監督が宮崎駿だった。





登場するからくりメカを見ていると楽しい。





「想像力に満ちていて、見ているだけで喜びを与えてくれるメカ」


というものがあると思う。





ふと、天空の城ラピュタのキャッチフレーズを思い出した。



機械がまだ機械のたのしさを持っていた時代、科学が必ずしも人を不幸にすることは決まってないころ、そこはまだ世界の主人公は人間だった・・・。






ここでいっている「機械のたのしさ」というのは


きっと宮崎駿の「奇想なイメージをもったメカたち」が


もたらしてくれるもので、


それは名探偵ホームズのなかにも息づいていると思った。











「機械のたのしさ」をもっている作品を思い浮かべてみる。





ラピュタのロボット兵とか乗り物のメカたち


タイムボカンシリーズの毎週変わるロボットたち


ピタゴラスイッチのピタゴラ装置


映画のスチームボーイ


のっぽさんの「できるかな」(ちょっとちがうか・・)





これらは何かこの「機械のたのしさ」を持っている気がする。





あと最近、保坂和志の「小説の誕生」を読んで


レーモン・ルーセルの「ロクス・ソルス」


という小説の存在を知って即買いをしてしまった。


アマゾンの内容の紹介文がすばらしい。






ブルトンが熱讃し、レリスが愛し、フーコーがその謎に魅せられた、言葉の錬金術師レーモン・ルーセル。言語遊戯に基づく独自の創作方法が生み出す驚異のイメージ群は、ひとの想像を超える。―パリ郊外はモンモランシー、天才科学者カントレルの奇想の発明品が並ぶ広大なロクス・ソルス荘へ、いざ、―。





ブルトンが熱讃し、レリスが愛し、フーコーがその謎に魅せられた、言葉の錬金術師ルーセルの代表作。言葉と創造力だけで創られた瞠目の奇想イメージの数々は、ひとの想像を悠に超えてゆく。



早く読んでみたいけど時間がない。。





・・・といろいろ列挙してみて、


最近「奇想イメージ」がもたらす


楽しさとか気持ちよさの構造に興味あり、と思う。


木曜日, 11月 09, 2006

いつもの道を


五反田駅から研究所に向かって歩いていると、


男の人が後ろから小走りで追い抜いていった。





その男は日本代表の青いユニフォームをきていた。


日に焼けた顔、伸びた髪を後ろで結わえて、年齢は30前半ぐらい。


詰まったリュックを背負っていて、


その両脇からビニール袋がぶら下がっている。





小走りにあるきながら、並ぶ自販機の釣り銭口に


ひょいっひょいっと手を突っ込んで釣り銭をチェックしていく。


コンビニ前のゴミ箱の中身も丹念にのぞいていく。





一連の動作がかれの小走りの動作のなかに


なめらかに組み込まれていて


なんだかその道を極めた達人に見えてきて、


面白いと思った。





そうしていたらネットサーフィンで


養老さんと甲野さんの


古武術の発見―日本人にとって「身体」とは何か


という本を発見して、思わず購入。


月曜日, 11月 06, 2006

しあわせのくつ


「しあわせのくつ」という言葉に


20年ぶりぐらいに出会った。





漢字で書くと「幸せの靴」。


「しあわせのくつ」は、ゲーム・ドラクエⅢで出てくるアイテムで



装備すると1歩歩くごとに経験値が1上がる。レベルアップする経験値に達した場合は、次の戦闘に勝利したときにレベルアップする。(しあわせのくつとはより)






たしかバラモンを倒して、アレフガルドに行って


ラスボス・ゾーマに挑戦しようとするぐらいの、


ゲーム終盤で手に入るアイテムだった記憶がある。





歩くだけで経験値がたまっていく様子を見ていると、


たしかになんだかとても幸せな気分になった記憶があって、


その感覚が20年ぶりにふっとよみがえって、


「しあわせのくつ」って


なんて絶妙な言葉の組合せだったんだ!と思う。





このまえの仏像展で見た、


円空の仏像の笑みがつくりだす


雰囲気というか空間についてずっと考えていて、


パンフレットの





「一木にこめられた祈り」





という言葉を見たら、


「祈り」という言葉の意味が、


円空仏の空間にふっとくっついた。





最近、宇多田ヒカルのcolorを聞いて


「黒い服は死者に祈るときだけ着るの」


という歌詞を聞いたときに、


「死者に祈る」という表現が格好いいと思ったんだけど


ふとそういえば意識して死者に祈りを捧げたことってない


ということに気がついて、


「祈る」という言葉の意味が未知化したんだけど、


それがなんかカタチを得た。





それと「恵み」という言葉。


ボスの「科学の恵み」という題の講演を聞いて以来、


「恵み」という言葉にはまっていて、


ネットの恵み、脳科学の恵み、妄想の恵み


とかいろいろ試してみるのだけれど、





あの空間を指し示すのに


「仏教の恵み」という言葉が


なんだとてもしっくりくると思った。





円空仏の笑みは、


仏教の恵みを感じさせてくれる


祈りの空間を生み出している


と思う。





「恵み」という言葉は、なんだか、


暖かな雨が無条件にふりそそぐというイメージがあって、


それによって、生命がぐんぐん成長するというイメージもある。





この


恵みの雨が無条件にふりそそぐ、という感覚は、


じつは


「しあわせのくつ」をはいて


1歩歩くごとに経験値が1上がるときに


味わう感覚と同じものなのではないか


ということにふと気がついて、





「しあわせのくつ」という言葉が与えてくれる


なんだかとてもしあわせな感じは、


じつは


円空仏の笑みがもたらす「恵み」と「祈り」の空間と


同質のものなのかもしれない、と思う。


月曜日, 10月 30, 2006

のど飴


先週の水曜日から風邪を引いて、


今回の風邪は喉にきて、咳が止まらないので


ずっとのど飴をなめてました。


ここ6日間、1日中、ずっと。





気がつくと


コンビニとキオスクに並ぶすべてののど飴を制覇してました。





いつのまにか


お腹のおニクがひとつまみ分、増えたきがします。





そして


左の下の歯が虫歯になりました。





ふと、ぺこちゃんのことが頭をよぎりました。


飴ばかりなめているぺこちゃんの歯は


無事なのか?





・・・・・・・・





工大祭にいきました。


屋台で不思議なマレーシア料理に出会いました。


名をロティジャラというクレープのような料理。


カレー粉をつけてたべます。


f:id:toooru:20061028131614j:image


どこか魅惑的な、この色カタチ。





・・・・・・・・





東京国立博物館に仏像を見に行きました。





家に持ち帰って毎日拝みたいと思うような


仏像がたくさんありました。





仏像の笑顔がよかった!





仏教の恵み。





色即是空。空即是色。





仏教のこの徹底した<無>の世界観を受けいれた先に


むかしのひとはこの笑顔にたどりついたのだろうか


と思いました。


月曜日, 10月 23, 2006

夢と妄想と空想のはざまで


ディテールは思い出せないんだけど


強盗系の犯罪をして、場所を転々としながら


逃走する夢をみた。


なんだか夢全体がとても息苦しい感情に支配されていて、


そうしたら、朝起きたら気分がとてもブルーだった。


しかし、しばらくして、


逃走犯になったならば抱くであろう感情を


virtual realityの中で


生まれてはじめて体験したことに気が付いて、


なんだかとても新鮮な気分になる。








ここ一週間ぐらい、ずっと


頭が自動発散モードで、妄想が止まらない・・。


いままではこの状態を楽しんでいたんだけれど、


最近、これは病的だなと思いはじめてきて、


ふと、このような発散した事態を収束させることが


できる人こそ真のプロフェッショナルなのではないか?


ということに気がつく。








それはそうとして、


今日は、post mixiのアイディアを思いついた。。





CNETで江島健太郎さんが、ウェブの展望を語っていて






Web 2.0の挑戦者:超軽快なウェブチャットLingr


 ウェブは実世界に近いものになってきています。これは文字通りの意味です。


 われわれは、ウェブがリアルタイムなものに変わっていくという展望を持っています。実世界と同じように、仮想空間の中を動き回ると、そこでは生放送のブログや絵を描くライブパフォーマンス、ジャムセッションなどが見られ、拍手のような観衆からの反応もリアルタイムに伝わる--そんなことが未来には可能になるだろうというのが、われわれの夢です。






と書いてあるのを読んで、


自分もこの方向は正しいと(今日)思った!





数年前、Nintendo64用に開発されていた


Mother3というゲームは、


プレーヤーのアクションによって


物語を自在に分岐させていくという野心的な計画


をもっていたんだけど、


作り込まなくてはならない物語の数が爆発的に


増えてしまって開発中止になった。





閉じたシステムのなかで、


無限に展開していく物語をつくるのは、


クリエーターが物語を作り込まなくてはいけなくて、


工程数の爆発が起きてしまいとても難しい。





でも、ゲームという視点からみると、


mixiは、実は、


クリエーターが作りこむことなしに、


ネットという開いたシステムの性質を利用して


自然に人と人の出会いやコミュニケーションが


生成されつづける、初めての


「終わりのないゲーム」とみなせるのではないか?





仮想空間で閉じていたゲームが、いつのまにか


現実のエンドレスな世界に接続してしまっている。





開いたシステムであるウェブが


どんどんリアル・現実に近づくということ





問題はその先になにがあるのか?ということで、





その先を





脳科学×コミュニケーション×物語×遊び





の視点で眺めると、なんだかたくさんの


おもしろい切り口があるきがする!!


金曜日, 10月 20, 2006

チンパンジーのはなし


よくあることなんだけれど、


オマケイと電車のなかで


ヒトの道徳の起源について


性善説 vs 性悪説の議論になって、


気になって今年の1月に読んだ


フランス・ドゥ・ヴァールの「あなたのなかのサル


を読みなおしてみた。





霊長類研究者の間では、「今夜はボノボするぜ」である意味が通じるらしい





というような、どうしょうもない記憶しか思い出せなかったんだけれど、


読み直してみたら、いろいろ再発見があっておもしろかった。





去年、


奥田英朗という作家のインタビューが新聞に載っていて、





あふれる寸前のコップの水に一滴垂らしたとたん、どっと水がこぼれるような瞬間を描きたい





という言葉が妙に印象的で、心のなかに残っていたんだけれど、


それに相当するような話を見つけた!(気がする。)





クロムというメスのチンパンジーが


ローシュという赤ちゃんを産んだんだけれど、


クロムは耳が聞こえないので、


メスのチンパンジーのカイフに代わりに育ててもらうことにした、


という話で、長いけど以下抜粋。



・・・カイフは養母の条件にぴったりだった。彼女は自分の子どもを母乳不足で死なせた経験があるし、当面ローシェと競合する実の子もいない。それにカイフは、赤ん坊に並々ならぬ興味を持っていた。クロムが赤ん坊の叫び声に気づかないとき、カイフもいっしょに声を出した場面を私たちは何度か目撃している。


 カイフはわが子が死ぬたびに、激しくふさぎこんだ。食べ物を受けつけず、悲痛な声をあげる。身体をずっと揺らしたり、自分の身体を強くつかむといった行動も見られた。哺乳瓶を使う練習をはじめたとき、カイフは赤ん坊を抱きたくてしかたなかったが、私たちはけっして彼女とローシュを接触させなかった。練習中、カイフは不満だらけだったはずだ。哺乳瓶から自分が飲むことは許されず、私たちが抱いたローシュに、ケージの向こうからミルクを飲ませなくてはならないからだ。それでも数週間の訓練で、カイフは哺乳瓶扱いがとても上手になった。私たちは次の段階に進み、カイフの夜用ケージに敷いたわらの上に、手足をばたばたさせるローシュを寝かせてみた。最初のうち、カイフはローシュの顔をのぞきこむだけで、手を触れようとしない。赤ん坊は私たちのものだという認識なのだ。チンパンジーにとって、ほかの誰かの赤ん坊に許可なくさわるのは、好ましくない行いだ。飼育係と私はケージのすぐ外で、座って様子を見守っていた。こちらに近づいてきたカイフは、ケージ越しに私たちにキスをし、ローシュと私たちを交互に見た。まるで許しを求めているようだ。私たちは「ほら、赤ん坊を抱いてごらん!」と言いながら、手を振ってローシュのほうを示した。ようやくカイフは赤ん坊を抱きあげた。その瞬間から、カイフは子どもを守り、いつくしむ理想的な母親になり、こちらの期待したとおりにローシュの子育てをしてくれた。


・・・ローシェを養子に迎えてから、カイフと私の関係に変化が起こった。私に感謝の念が向けられるようになったのだ。それまでカイフと私はつかずはなれずの付きあいだったのに、ローシュの一件以来、カイフは私の顔を見るたびに、ありったけの愛情を浴びせるようになった。それは、30年近くたったいまもまったく変わらない。カイフは、久しく会わなかった家族を迎えるように私の両手を掘りしめ、私がその場を去ろうとすると、泣きそうな声をあげる。こんな風に接してくるチンパンジーは、この世でカイフだけだ。カイフは哺乳瓶を使う訓練を受けたおかげで、ローシュだけでなく、実の子どもたちも無事に育てることができた。何年たっても、彼女はそのことをけっして忘れない。



本では、動物は感謝をするのか?という話題の中での


エピソードなんだけれど、


帰りの電車のなかでここを読んでいたら、


「その瞬間から、カイフは子どもを守り、いつくしむ理想的な母親になり・・・」


というくだりが、なんだか奥田英朗さんの


「どっと水がこぼれるような瞬間」に感じられて、


最近涙もろいのか、目頭が熱くなった。


チンパンジーなのに泣かせてくれるぜ、と思ふ。


月曜日, 9月 18, 2006

未来思考


ある日、


ヒトを幸せにする脳科学をやりたい


とオマケイにいったら、


「お~い、(現実世界に)戻ってこ~い」


と言われた。





オンゾウに同じことをいったら、


「まずあなたが幸せになりなさい」


と言われる。うっ。





最近、脳の計測技術が、いうなれば、


fMRI1.0がfMRI2.0になりつつあって、


サイボーグ技術とか、ウソ発見機とか、想起している記憶を当てるとか、


さまざまな「心を読む(マインド・リーディング)」研究が


立ち上がりつつある。





脳がなにを表象しているかをリアルタイムで当てることが


できるということは、科学の視点でみると、


とてもエキサイティングなんだけれど、





「マインド・リーディング」の技術がもたらすであろう、


社会への影響についても、倫理の視点から議論が始まっていて、


それらが描いている未来は、心を読めてしまうと、


プライバシーがなくなるとかなんとかで、とても暗い・・。





「マインド・リーディング」の社会的応用で


すぐ思いつくのは「ニューロ・マーケッティッグ」で、


資本主義→商品を買ってほしい→広告を見て欲しい→商品を見て脳がどう感じるか知りたい


というニーズによって、お金には困らない研究領域になると期待される。





でも、おもいっきりお金のサイクルに取り込まれてしまっていて、


なんだか違うんだよなーという思いがあって、


最近よく、ヒトを幸せにする脳科学について考える。


脳科学がうみだす「幸せ2.0」の可能性の問題。


他者を幸せにすることによってこそ、自分も幸せになれるのではないか?


の問題でもある。





そんなことを考えていたら、


ゲームクリエイターの水口さんがブログで、


ゲームを肯定的に語っているのを読んで、


おおお!と思う。



水口哲也の地球万華鏡:紅茶の国からコネクト 英国


 ゲームの面白さとは、人間が持っている本能や潜在欲求をどう再デザインするかということだ。面白いゲームは世界中の人とつながれる。面白いゲームは世界中の共通体験となる。(中略)何か事件が起こると、よくビデオゲームが攻撃される。(中略)だけどちょっと待て。もしその人間の欲求や本能のポジティブな部分を使ってデザインすれば、ゲームはポジティブな力を持ち得るのではないか?というのが、僕の制作者としての信念だ。もし、パレスチナ人の子供と、イスラエル人のおじいちゃんがゲームで対戦したとする。面白さにハマっているときの表情は、たぶん2人とも同じように無邪気なはずだ。面白いゲームは、人を無防備の状態にする「力」がある。このゲームの「力」をポジティブな方向に使えないだろうか。文化や思想や、先入観や人種的偏見を超えて、つながる本能。面白さの中で、ハイブリッドのように溶け合っていく意識。ゲームで人に力を与えることができないものか。そんなことを夢見て僕はいまだゲーム制作の仕事をやめられない。






ゲームの「面白さ」を言語化していて、かつ社会的な視点からみて、


ゲームがヒトを幸せにする可能性について言及されていて、


ゲームを肯定しているところが、なんだかとてもグッときて、


これだ!!と思う。





脳科学の「面白さ」を言語化し、肯定する道筋を見つけよう、


と想う。


木曜日, 9月 07, 2006

心理テスト


オマケイにおもしろい心理テストを教えてもらった。





みなさま、紙と鉛筆を用意して、下の図を注目してくださいませ。(所要時間、約5分)





f:id:toooru:20060908002044j:image:w350





Step1


形容詞を思いつくままに10コ列挙する。


Step2


形容詞を上から2コずつ見て、そこから連想される名詞を書く。


Step3


名詞を上から2コずつ見て、そこから連想される名詞を書く。最後の1コは残しておく。


Step4


2コの名詞を見て、連想される名詞を書く。


Step5


最後に、Step4の名詞と、Step3の余りの名詞から連想される名詞を書いたら終了~。






































みなさま、できましたか?























最後の名詞が意味するところは。。。














































































































ありがちだけれど。。。
















































































































































































あなたが心のなかでほっしているもの!!です。

















自分でやってみたところ、こうなった。





きれいな    女性   恋人    シンデレラ   グリム童話!!


美しい


すばらしい   男性


優れた


きたない    こじき  魔法使い  


みずぼらしい


青い      カエル


温かい


明るい     小人


小さい








最近、脳と物語についていろいろ考えていたので、「おおお!」と思う。


なんだか当たってるかも・・。


というか、人間の連想力ってすごい!





研究室の人々の結果も面白かった。





オマケイ  大人のオ○チャ


オンゾウ  宇宙


セキネ   紅茶


ノザワ   塩素





オマケイは、いかにもオマケイのアタマの中にありそうなぶつで、


オンゾウは、期待を裏切らず、異次元に飛んでしまっていて、


セキネは、その平凡さが、いかにもいかにも、という感じで、


ノザワは、意味不明なところがいい味をだしていて、





深層心理が出てるっぽい!!と思う。


それにしても、一体どうやれば宇宙にたどりつくんだ・・(笑)


金曜日, 9月 01, 2006

Back to Blogger

Bloggerが、Blogger betaにversion-upして、
高頻度でパーマリンク(1日ごとの日記のページ)の生成に失敗する、
という、気になるバグが改善されていたので、
「はてな」から戻ってみる。
From:
http://d.hatena.ne.jp/toooru/

試しに「はてな」の4月から8月分の日記を移植。
たった13日分しかなかった。。

水曜日, 8月 30, 2006

明日の神話


汐留に、岡本太郎の「明日の神話」を見に行った。

月曜日, 8月 28, 2006

ネコとバッタ


部屋の窓を開けたら、屋根の上に猫が座ってた。
二十年以上住んでるけれど、生まれて初めて見る風景。
ブロック塀からハイ・ジャンプして、
屋根に飛び登ろうと思いついた、この猫はえらいと思う。


小田急線。窓の外側にバッタがいた。
電車に乗り始めて二十年はたってると思うけれど、
これも生まれて初めて見る風景。
電車と電車のすれ違いざまに生じる衝撃波にもびくともせずに、
はりついている。
だんだんバッタが、映画『ミッション:インポッシブル』のラスト、
フランス新幹線TGVの上にはりついているトムクルーズに見えてきて、
バッタ、すごい!と思う。

火曜日, 8月 22, 2006

スーパーにわとり

若冲展をみに上野へいく。
平日だけど、とても混でた。

「鳥獣花木図屏風」を3年ぶりぐらいにみる。
いつみてもポップな感じがする。

家に昔ハピネス展で買った「鳥獣花木図屏風」の
巨大ポスターが貼ってあって、
毎日見ているせいか、
今回はニワトリたちに目がいく。

若冲の描く生き物は、生命の「存在」に触れている、とよくいうけれど、
若冲のニワトリが、
小学校の飼育委員で毎朝世話してたニワトリよりも、
「ニワトリ」に見えるこの感じはなんなんだろう?

ラマチャンドランが「脳のなかの幽霊、ふたたび」で、
セグロカモメのヒナは、
親鳥の黄色のくちばしの先についている赤い斑点に反応して、
餌くれとつつくんだけれど、
全然くちばしに似てない、
赤色の線を3本引いた黄色の棒をヒナに見せたところ、
本物のくちばし以上にヒナはそれをつっついた!!
という話を紹介していて、
それを、くちばしを超えたくちばしという意味で、
「スーパーくちばし」と呼んでいた。

セグロカモメのヒナにとっては、赤色の3本線つきの黄色の棒が、
「スーパーくちばし」
であったように、
ヒトの脳にとって、若冲の描いたニワトリは、
「スーパーにわとり」
なのだろうか?

「紅白梅図屏風」に意図せずに足がとまった。



ありえない数の白色の梅の花が、屏風一面に咲き乱れていて、
それらが、あさ日から夕日までをイメージした1日の光の変化に
合わせて、いろいろな表情をみせる。

説明文には、作者不詳で、春の歓びをあらわしている、とかいてあった。

思考とは関係なしに、目が喜んでいる、という感じがして面白かった。
見ていると心が動かされて、それでずっと見入ってしまう感じ。

ふと、この感覚を絵なしで言葉だけで伝えることはできるのだろうか?
と思う。

屏風一杯に咲き乱れるように分布する白い梅の花のパターンが
脳に入力されると、 圧倒的な並列性をもった視覚システムは、
「花」という認識を成立させるほかに、 屏風のグローバルな
パターンから、 ある未知の抽象的なパターンも抽出している。
その未知の抽象的なパターンは、快感を引き起こす情動システムに
直結していて、 その結果、脳はそれを見ているだけで
「嬉しい」という感覚を引き起こす・・・

と脳科学的に表現してみても、きっとなにも伝わっていなくて、

問題は、
絵の「パターン」をどうすれば視覚的に描写できるのか?
それによって、読む人の脳にも、
その「未知の抽象的なパターン」なるものを引き起こすことはできるのか?
がポイントで、

これを、「目の喜びを言葉で伝える問題」と名付けよう。

木曜日, 8月 10, 2006

EEG

研究所にEEGがきた。脳波を測る装置。

今日が誕生日のヘライの頭に、みんなでよってたかって、
電極がついたネットをかぶせる練習をする。


このネット、これだけで40万する品で、
腫れ物を触るようで、練習する手が震えた。

一瞬、ヘライがジダンに見えて、
一瞬、タナベが竹○結子に見えて、
一瞬、セキネの落書きミッキーマウスがゾウシに見えた。

暑さのせいでfusiform gyrus(脳の顔認識をしている領野)
が過剰活動している可能性アリ。

なにはともあれ、これでなにができるかなーと
考えるだけで胸がワクワクする!!

日曜日, 7月 16, 2006

夢の思考

夢をみた。
中学時代の部活のハンドボールの練習の夢。
中学校のグランドでひとが全然いないから、
きっと日曜練習のワンシーンで、
メニューは3対3の試合形式。
おれのポジションはキーパーで
部長ふゆかわ君が速攻、6mラインからジャンプシュートをうってくる。
キーパー反応して、左に横っ飛び~~左足でセーブ!!
したところで目が覚める。

とっくの昔に忘れていた感覚が鮮やかによみがえって、
目が覚めたらなんだかとても心地よかった。

夢は情報を整理する働きがあるというけれど、
なんで、夢をよく見る人と見ない人がいるのか?
という疑問をずっともっていて、
論文を書いていて、行き詰まって、気紛れに
河合隼雄さんの「人の心はどこまでわかるか」をめくっていたら
偶然、それについての記述があった!!(以下抜粋)

 外向的に忙しく働いている人は、夢を見ないのではなく、あまり夢を覚えてないということです。それは、夢をすべて覚えたりしていたのでは、ほかのことができなくなってしまうからです。外でバリバリやっている人の夢には、その人の盲点とか裏側が出てきますから、それをいちいち覚えていて、あれこれ考えていたら日常生活ができなくなります。そこで心のはたらきとして、そういうのをほとんど忘れてしまうわけです。だから、これはむしろ当たり前と言っていいでしょう。

 それから、このごろ私はよく考えるのですが、どうも人間には内側を見るほうが好きな人と、外を見るのが好きな人とがいるような気がします。自分の内側を見る傾向がある人は夢で考えるし、自分の視点が外の世界に向いている人は、現実の中で考えるということではないでしょうか。したがって、夢を見るかどうかということを、それほど深く考える必要はないのではないかという気がします。

夢で考える、という表現がいいと思う。夢の思考。

羽生さんは、夢をあまり見ないらしい。
将棋も夢には出てこないらしい。
ボスの説では、起きているときに情報の整理を一生懸命しているから、
夢のなかで整理する必要がないのではないか、と言っていたけれど、
たしかにそうなのかしれない。
羽生さんにとって将棋は「外側」にある、ものであって、
その整理に「夢の思考」は必要ない、
ということなのかもしれない。

最近、夢をよく見るようになった。
それは、脳に「夢の思考」が必要になっている、
ということなのだろうか?
何でなのか考えよう。

月曜日, 7月 03, 2006

aha addiction

ひさしぶりの日記。気がついたら1ヶ月以上たっている。

土曜日のブラジルvsフランス戦をみたら、
睡眠サイクルがずれてしまって昼間が眠い。
論文のリバイスがきて、あと二週間以内に修正する必要あり。
6月のあたまに、脳の創造性に関するひらめきがあって、
ここ半年間考えていたことがすべてつながるではないか!
ということに気がついて、
頭が躁状態になる。

この脳の状態は、

創造性について考えている脳は果たして創造的といえるのか?
という自己矛盾な問題をかかえているけれど、
そういうことは気にせずに、
とにかく、日々さまざまなアイデア(というか妄想)が湧いてきて、
ある日、はっと思いついたことを道ばたで携帯にメモしていたら、
オンゾーに目撃されて、向こうの世界にいってしまった人、とか、
思想を打ち込んでる危ない人とか散々な言われようで、
これに近い症状についていくつか心当たりがある・・と思う。

側頭葉人格とか、過剰書字とか、なんとか依存症。

たぶん、過剰書字にちかい気がする。
つらい現実から身を守るために、
脳が生みだす過剰な生成の働き。

ひらめきはaddictionの効果があると思う。
ひらめきが連続してうまれる状態は、
例えるなら、ぷよぷよ連鎖がずっと続くようなイメージで、
その間、持続的に脳内報酬がでる。

それがとまらない状態を、
勝手に「aha addiction」と名付けよう。

月曜日, 5月 29, 2006

田舎

ばあちゃんが亡くなって仙台にいった。
正月頃から腰が痛いといっていて、骨粗鬆症かと思って
治療しても、直らなくて、5月になって、実はガンだとわかって、
気がついたときには、すでに骨髄に転移してしまっていて、
あっという間に亡くなった。

小学生の頃、夏休みは仙台に帰るのが楽しみで楽しみで
しょうがなかった。家が農家をしていて、
おじいちゃんが生きていた頃は、朝早く起きて、
トオモロコシを巨大ミキサー機械で切り刻んで、それに黄粉と砂糖を
まぶしたエサを牛にあげたり、トラクターの荷台にのっかって、
草を刈ってつむのを手伝ったり、夜になると、
田んぼに蛍を捕まえに行って、
長ネギのなかに閉じこめて寝るときに眺めていた。

葬儀で、ばあちゃんの弟さんとおじいちゃんの弟さんが
弔辞をはなしていて、おじいちゃんは、東大を出ているのだけれど、
戦争から帰ってきてから、ホワイトカラーにはならず、
仙台の荒れ地を開墾しはじめた。かなりの頑固者だったらしく、
周りの人は一年でやめるだろう、二年でやめるだろう、
と思っていたけれど、
じいちゃんは、やり続けて、
広大な土地を切り開いて、そこで農業を一生つづけた。

ばあちゃんのお兄さんが、おじいちゃんと友人で、
戦争から帰ってきたら、妹を嫁にもらってけろ、
という約束をしていたらしく、ばあちゃんは、
お嬢様育ちだったらしいのだけれど、開墾中のじいちゃんの
ほったて小屋に嫁いできたらしい。
「大草原の小さな家」なみの苦労の連続だったはずなんだけれど、
そんな環境でも、娘4人を立派に育てたのだから偉いと思う。

葬儀が終わって、お骨もって、
久しぶりに田舎の家にいった。
古びた家と広大な畑、
自然に囲まれた田舎が生みだす特有の匂い、
そして思い出が構成する、
独特な「田舎クオリア」というものがあって、
思い出を確かめるように、家や畑を歩き回る。

高校生の頃、おじいちゃんが亡くなって、
家族で帰郷することもなくなって、
1人で、ばあちゃんの家に泊まりに帰るということも
まったくせず、でも、田舎はずっと存在していると
感じていたんだけれど、

歩き回るうちに、ふと、
この何とも言えない、懐かしくて愛着に満ちた空間は、
実は、この土地と、そこにおばあちゃんが生きている
ということによって、支えられていて、
それは、有限な時間においてのみ存在する有限な空間であって、
おばあちゃんが亡くなれば、消えていってしまうものであることに
気がついた。

なんで、おばあちゃんが生きているときに、もっと
この空間を味わいに来なかったんだろう!!と
思ったら、なんだか急にとても悲しくなった。

孝行したい時には親はなし、とはこのことなんだなぁと思ふ。

土曜日, 5月 27, 2006

五月

久しぶりの日記。
さまざまなものが頭を過ぎ去っていったんだけれど、
言葉にできない病。

カンブリア紀みたいな進化の爆発が起きたときに出てくる
多様性に満ちた生物群のことをhopeful monsterといって、
ボスが芸大の授業で、
我々ひとりひとりがhopeful monsterなのだ、
といっていたけれど、
いまの気分はオパビニア。
進化の袋小路にはまったレッドリスト入り絶滅危惧種。

要は、あたまの中のモードが、行き止まり感で満ち満ちていて、
これはどうしたものかな。。と思っているうちに
気がつくと五月がおわりかけている。

生物の進化可能性と、脳の創造性の関係を
考えることはおもしろい。

生き物は、進化することによって、
過酷な環境の変化に適応してきたのだけれど、
1人の人間の脳はどうなんだ?という問題。
1コの脳は、過酷な環境下で、いかに適応していくのか?
生き物の進化のように世代をバトンして適応して
いくわけにはいかない。

というようなことが、我が身の切実さによって、
頭からはなれずに、ずっと考えていたら、

ふと、生物の進化可能性に対応する脳のアナロジーは、
養老さんがいっている、自分が変わる、
ということなのではないか?と思い当たる。

生物が、遺伝子の組み替えによって、非線形かつ劇的に
適応性をアップさせるように、
脳は、神経系が生みだす「自己」を再構築(?)することによって、
劇的に適応性をアップさせる。。

養老さんの「無思想の発見」にかいてあった文章がとてもよくて
以下抜粋。

・・・未知がイラクにあるのではない。「自分が同じ」だから、世界が同じに見えるのであろう。それで「退屈だ」なんで贅沢をいう。知らない環境に入れば、自分が変わらざるをえない。だから未知の世界は「面白い」のである。

 「変わった」自分はいままでとは「違った」世界を見る。自分が変われば、世界全体が微妙にずれて見える。大げさにいうなら、世界全体が違ってしまう。それが「面白い」。つまり「未知との遭遇」とは、本質的には新しい自分との遭遇であって、未知の環境との遭遇ではない。そこを誤解するから、若者はえてして自分を変えず、周囲を変えようとする。・・・・自分で自分を変えればいい。そのノウハウを覚えたら、天下無敵ではないか。随所に主と作り、行住坐臥、どこにいたって楽しむことができる。・・・

世界全体が違って見える、とか、未知との遭遇は新しい自分との遭遇
あたりが個人的にはグッとくるんだけれども、

そういえば、
ボスがいっている「super nova」と
ベイトソンのいっている「学習Ⅲ」は、
このことかなと思う。

そんなことを考えた日の夜、夢を見た。

畳の部屋。オマケイと一緒に正座していて、
目の前に養老さんが座っている。
おれ:「自分が変わるっていうことの本質はなんですか?」
養老さん:「正解がないことだね」
なるほど!と思って、その夢は終わる。

起きたあとで分析してみると、その夢の1日前にボスの
講演をきいていて、不確実性における学習には正解がない、
というはなしが、自分のなかでは印象的で、
それらが融合して夢のなかに出てきたっぽい。

まあ、とにかく、そんなことを考えていたら、
なにかがふっと変わったきがして、
最近、テンションが上がってきて、
また難しい問題に挑戦しよう、と思う。

木曜日, 5月 04, 2006

日常の未知化

月曜日に芸大で荒川修作さんの講義を聞く。
衝撃的な人だった。
自分なりに良かったところをまとめると、

言葉が介入できないものをつかむこと。
それは、認識の生を外在化することであり、
ヒトの脳のイマジネーションは無限大なんだよ!

みたいなことだったのではないかと思う。

アートに必要なものは、いかに、認識の生に
寄り添うことができるか、であり、
アーティストを見ると、みんな、現実と認識の生の間の
微妙なバランスを保っているんだろうなーという
感じがするんだけども、

荒川さんは、完全にバランスが認識の生の側に
振り切れている人で、
向こう側にいってしまっている感じがした。

そして、だからこそ、荒川さんの話を聞いていると、
脳のモードが、無意識のうちに、向こう側に
引き寄せられる感じがして、
それは、なんだかすごいことだと思う。

その影響で、この頃「日常の未知化」について考え始めた。

無印良品のコンセプターの原研哉さんがデザインの基本は、
日常を未知化することだと言っていて、

普段、わかっていると思っているコップでも、
じゃあ、コップをデザインしてください、といわれた瞬間、
途端にコップというものがわからなくなる。
日常のなかに新しい問いを発見していくことが、
デザインの基本で、

とくに面白いと思うのは、

ゼロから新しいものを生みだすことも創造だが、
既知のものを未知化することもまた創造である。

ということで、

脳科学的に考えれば、日常の刺激が同じなのに、
脳の中が変わることで、その刺激の受け止め方がかわる。

川上弘美さんのエッセイのなかの日常が面白い!と思うのは、
川上さんの日常が絶えず未知化されているからだと思う。

「脳は眠らない」が面白いのは、
眠るという日常のありふれた行為が、
未知化されるからだと思う。

「マインド・ハック」がおもしろいのは、
日々当たり前なものとして存在している認知という営みが
突然、未知化されるからだ。

そもそも、他者の心というものは、
絶えず未知化されていくもので、
それが、自分の脳の中の他者に対する認識に
絶えず変化を引き起こしていく。

それを、日常のあらゆるものに広げることができれば、
ただすぎる1日が、もっと鮮やかな1日になるのではないか?
と思った。

日曜日, 4月 30, 2006

マトリックス計画

アンドレア・ロックの「脳は眠らない 夢を生みだす脳のしくみ」
を読み終わる。

夢の研究がいまあつい。

夢の機能は、いろいろあるようだ。
夢は日常で経験した記憶を整理している、とよく
聞くけど、夢は特に記憶の感情面の整理をしている
という話がおもしろくて、

激しい感情を伴う体験をすると、脳は夢の中で
記憶のデータベースからメタファーを探してきて、
激しい感情の記憶を、ポジティブな体験の記憶に
統合しようとする。
その過程に、自己セラピーの効果があるらしい。

(以下抜粋)
たいがいは、トラウマ体験が皮質の神経ネットワークによって過去の体験なり感情的に関連のある想像上の事柄と結びつけられるにつれて、悪夢はしだいに形を変えていく。数週間、または数か月の間に、トラウマの要素は夢からしだいに消えていき、心をかき乱す体験が他のポジティブな体験の記憶に統合され、それに付随していたネガティブな感情が収まって、夢の内容はノーマルなものに戻っていく。

また、明晰夢という種類の夢があって、
夢をみているときは、普通「私はいま夢をみている」
という自覚はないけれど、なんらかのきっかけで
「これは夢だ」ということに気がつくと、
その夢は明晰夢になる。
明晰夢の中では、五感がはっきり知覚できて、
思いのままにバーチャルな世界をコントロールする
ことができるという。

明晰夢をみるノウハウがいろいろ書かれているのが
おもしろくて、コツが3つ。

1. 普段よりも、1-2時間早く起きて、30分から1時間起きていて、
二度寝をすると、明晰夢を見る確率が15倍から20倍高まる。

2. 明晰夢を見るには夢のなかで「これは夢なんだ」という
ことに気がつくことが重要で、その訓練として、1日に少なくとも、
5-6回、「これは夢か現実か」と自分に問いかける。すると、
夢の中でも自問する習慣がつく。この「リアリティ・テスト」と
寝る前に夢を見ている自分をイメージして、
「夢を見ているときも意識を保つぞ」と自分に暗示をかけることで、
明晰夢を見る回数が1.5倍上がる。

3. 明晰夢は、意識が半ば覚醒している状態で夢を見続けている
状態で非常に不安定。夢が消えそうになったら、夢の中で
コマのようにくるくる回ると、夢の世界に引き戻される効果があって、
夢が続く確率が約22倍上がる。

本当なのか!!

そして、何のために明晰夢を見るのか?

(以下抜粋)
何のためにわざわざこうしたテクニックを習得してまで明晰夢を見るのかと聞かれたら、ラバージは即座にこう答える。とにかく新鮮な体験だし、面白いのだ。「自分がつくりだした世界に遊べたらどうだろう。明晰夢を見るとはまさにそういう体験だ。多くの人が高揚感を味わい、とても感動する」また恐怖心を克服したり、現実の問題に対する新しい戦略を試してみたりするために、明晰夢を活用することもできる。

明晰夢が見たい!!と強く思ふ。
というわけで明晰夢を夢みて、
「マトリックス計画」をスタートさせることを決意。。

木曜日, 4月 27, 2006

そうまとう・じろう

映画のシネマ・パラダイスのラストは、
つなぎ合わされた、たくさんの
映画のキス・シーンが、いっきに
あふれるように映し出されて、
とても印象的で記憶に残っているの
だけれども、

全然関係ないんだけれど、ラーメン次郎に
いくと、いつも写真をとってしまうクセが
あって、

ふと、
ここ一年間とり貯めた次郎の写真をつなぎ
合わせたら、ひょっとして記憶が走馬燈の
ようにあふれ出す感動的な映像になる
のではないか?と思いついて作ってみる。


・・が、なんなんだ、、これは!!

(笑)

金曜日, 4月 21, 2006

モコモコした木

限りなく正午に近い朝、車で駅に向かっていたら、
突然、目の前にモコモコした木が飛び込んできて、
なんだ、ありは!!!と思い、
急いで携帯を取り出して、走り際に写真を撮る。

モコモコ感が、鳥山明がドラゴンボールの背景でよく
描いていた木々の感じに似ている気がする。

青空を背景に、まるで緑が燃えているみたいに映えていて、
なんだかすばらしい!と思う。


ゼミの日。
ボスからカステラをいただく。
皇族しか食べられない皇族御用達のカステラをゲットしたらしい。
庶民には一生に一回、食べる機会があるかどうかの
一品を目の前にして、 思わず写真撮影。

味わって食する。舌触りがとてもまろやか。
庶民カステラよりも甘い感じ。
中には、甘くて苦みがまったくないマーマレード(?)がはいっていた。
上品な味わいでござりました!ご馳走様です。

水曜日, 4月 19, 2006

神の一手

先週の水曜日に某社で人生(?)をかけたプレゼン&ブレストをして、
それまではその準備でずっとネットと脳の関係について考えていて、

その余波でいまだに、「みんなの意見」は案外正しい、という本を
読んでいたりする。"The wisdom of crowd"(集合知)の本。

ドラエモンをつくるのは難しいけれど、
ネット上で何億人という人間が
生み出すデータを集めて、
"collective brain"(集合脳)をつくってしまえ、
というアイディアがいまあつい。

なにはともあれ、本当は、論文をかかなくてはいけないのだけれども、
頭が切り換えられないでいて、なにをしよう・・と迷っているうちに、
1日がすぎる。

大海原をイカダにのって漂流していて、
方向を指し示すべき羅針盤がぐるぐる回っている・・・
みたいなイメージに近い。

下條信輔さんが昔、
朝日新聞に暗黙知と独創性の関係について書いていて、

 問題の答えは、あらかじめ暗黙知の深淵に存在している。独創的な発見とは、その問題の所在に気づき、答えを自覚化することに他ならない。・・・とはいうものの、暗黙知をことあらためて述べればなんでも独創的、という訳ではない。・・・囲碁やオセロを知っている人なら、わかりやすいだろう。碁盤目の一点に石を置いて、それだけで周囲が変わらないなら、価値の低い手だ。同じ手でも妙手は盤面全体の状況を変え、新しい展望を与える。科学者やデザイナーでも、まだ打たれていない目だからといって、しらみつぶしにひとつずつ試していくのは凡手。達人はグローバルな文脈から俯瞰して、その文脈自体を変えてしまう一手を放つ。結局、独創的な人とは「全体的な状況を把握し、暗黙知と顕在知の間を行き来できる人」ということになろうか。・・・

知識というのは、増えれば増えるほど、
逆に実は直感が重要になってくる
という性質をもっていて、
グローバルな文脈を理解するには、
ネットワーク化された知識が必要だけれども、
そこから、
文脈を変える一手をくりだすのは直感の働きだ。

盤面全体を変えられるような神の一手がほしいよ~

火曜日, 4月 18, 2006

移転します

http://d.hatena.ne.jp/toooru/

そうじ×情報×睡眠

本が3ヶ月で40冊ほど増えて本棚におさまらなくなる。
また、部屋にはここ3年ぐらいかけて溜め込んだ高さ20cmほどの
論文の山が6つほど並んでいて、部屋に足の踏み場がなくなる。
これはいい加減整理しないと二階の床が落ちる・・と思い、
土日をかけて部屋の掃除をした。

もう読まないであろう本を段ボール3箱分詰め込んだら、
本棚にすべての本を収納できた。




積み重なった論文をひとつひとつみる。ぱらぱらだけれども、
おっ、と思ったものはメモしていく。

自分の頭だけでは決して思い出さないような記憶も、
外の記録媒体を通して、ふたたびアクティブになって、
しかも、昔とは全然違う視点で気がつくことがたくさんあって、
いろいろ考えていたら、結局、2日かけて、
論文2山分しか処分できなかった。

でも過去に自分が溜め込んだ資料というのは、
決してゴミなどはなく、情報の宝庫ではないか!
ということに気がつく。
ただそこから意味ある情報を取り出すには、
整理するのにまる2日かかったように、
コストがかかる。

養老さんの説によると、脳は覚醒しているときに
増えたエントロピーを処分するために、
眠らなければならないのだという。

図書館に例えると、覚醒しているときは、
いろいろな体験をして、そのたびに、
本棚から本(=記憶)をとってきては
机の上にどんどん広げていき、
そこに新しいことを書きこんでいく。

本が散らかっていく = 無秩序が増大する = エントロピーが増える、
となる。

そのような散らかった本を、また本棚に戻して、
秩序を取り戻すために、
夜になると、脳は意識をオフラインにして、
せっせと本を片づけるらしい。

でも元の場所にただ本を戻すのではなく、新しくできた本や、
新しく書き加えられた本を新しいカテゴリーの棚をつくって、
もどしたりして、たくさんの編集が加えられる。
その結果として、たとえば、夢のなかで閃いたり、
夜悩んでいた考えが、一晩寝ると整理されていて、
答えが見つかっていたりする。

というわけで、脳であれ、おれの部屋であれ、
情報は日々増えて溜まっていき、
無秩序な方向に向かっていくわけで、
かならず整理する必要性が生まれる。
そのために、脳には睡眠があって、
部屋には掃除がある。

そう考えると、夢のなかでの閃きも、
論文を整理する過程でぱらぱらみながら、
いろいろ閃くのも、本質的には同じことだよね~、
というようなことを思ふ。

日曜日, 4月 02, 2006

まとめて日記

3/26(日)

メイがきた。
「おじいちゃん」と「おじちゃん」を
言い分けられるようになっていた。
言葉があふれだす寸前という感じ。
「おじちゃん!」といって、手を引いて、
部屋のあちこちにいって、遊びにつきあわそうとする。
兄が京都に転勤するらしい。しばしのお別れ。




3/27(月)

明日の予習をしようと思って、「ザ・サーチ」を読み始める。
グーグルの歴史。おれが大学院生をやっていた5年の間に、
ネット業界では大きな変化が起きていたことを知る。

ネット上でお金を稼ぐメカニズム、「検索連動型広告」を考案した
天才発明家ビル・グロスのはなしがとても面白い。
グーグルは創業当時は、どうやってお金を稼いでいいか分からなかったらしい。
でも、ビル・グロスが開発した検索連動型広告のサービスをみて、
その重要性にすぐに気がつく。そして、それから、のし上がっていくことになる。

高性能の検索エンジン ・ 検索連動型広告のシステム ・ 人気サイト

ある時点で、この3つをグーグルはもっていて、ビル・グロスはもってなかった。
そこが勝負の分かれ目だったらしい。そして、この3つがそろったとき、
そこには、まったく新しい可能性の地平が広がっていることに
グーグルは気がついた。

カンブリアの進化の爆発をおこした三葉虫の眼の進化はこれに
似ているところがあって、触覚や聴覚は、センサーの性能が
あがったとしても、性能は線形にしか進化しないんだけれど、

眼は、光センサーだった視細胞の集団がだんだん陥没して、
眼球のくぼみをつくること、くぼみの入り口にレンズの結晶ができること、
視細胞の情報が神経系につながること、というさまざまな要素がそろわないと、
眼としての機能を果たせない。

でも、いったんレンズが視細胞に光の焦点を当てられるようになると、
その生き物は、光の世界に気がつく。他の生物の存在に気がつく。
そのような、眼の部品がそろったとき、突然性能が100倍ぐらい上昇するという
非線形な大変化が、カンブリアの大進化の引き金を引いたらしいのだけれど、

グーグルも、ある条件がそろったとき、突然世界が開けて、
そして、いま情報革命の中心にいる。そんなことを思ふ。


3/28(火)

ボスに引率されて某会社を見学させていただく。
ネットと脳科学の融合の問題。
それは脳のなかの「情報」の問題。

帰りにグランドハイアット東京のイタリアン カフェで
食べたケーキはおいしゅうございました!




3/31(金)

研究室の花見。多摩川で花見BBQ。



鉄板奉行現わる。


季節の変わりめで、へんなひともいたけれど、


お酒と焼き肉と焼きバターきのこがおいしかった!


BBQの準備をしてくれた研究室に皆様、ありがとう!!


4/1(土)

いまはやりのweb2.0の本質は、「創発の制御工学」なのではないかとふと思う。

そういえばドラクエ4で「進化の秘法」というのがあったのを思い出す。
ラスボスが「進化の秘法」によってどんどん進化して強くなってしまう。
でもファミコンは漢字表示がなくて「ひほう」という表示だったので、
ずっと「進化の秘宝」だと思っていた。

ふと、マンガのナウシカを一気読みしたら、古代文明の技術って、
すごい!と思う。巨神兵とか自己修復する建物などの生き物の性質を備えた
工学物たち。もしオートポイエーシスの理論を工学に応用できるようになったら、
こんなものがでてくるにちがいない、と思うものばかり。

今のところ、材料的な制約によって、生き物の性質をもった人工的な工学物を
つくるのは難しいのだけれど、おそらく、いま非常に、生き物的な発展をしている
工学物が一つだけあって、それが、インターネットなのではないか、と思う。
なんというか、物理的な制約をほとんどうけずに、ネットワークの複雑さをどんどん
ますことができる。そして、そこにさまざまな生態系がうまれている。
そこで、どんな創発を引き起こすことができるか?
創発の制御工学は、それに答える理論でないといけない、と思う。


4/2(日)
4月になって気分がブルーになって、ふと、二、三日前の日経新聞の
私の履歴書の早石修さんが書いていた座右の銘を思い出した

一燈を掲げて暗夜を行く、暗夜を恐るるなかれ、一燈に頼れ。

この言葉がなんだかとてもいい。

Gyaoの無料動画配信にはまって、明日のジョーをみた。
負けるな、ジョー!立つんだ、ジョー!

明日から頑張ろう。。

金曜日, 3月 24, 2006

眼の誕生

最近、生物の進化と脳の創造性の関係について考えていて、
これらは、例えるならば、3つの基本要素しかないところから、
4つめ、5つめの「なにか」をひきだすことができる、
というところが共通している。

そんな気分で、進化に興味をもって
アンドリュー・パーカーの「眼の誕生」を読んだ。

今から5億4300万前、今いる動物の主要なグループがいっせいに
硬い殻を進化させ、それぞれが特有の形態をもつようになる。
それをカンブリア紀の進化の爆発というのだけれど、

この本は、それが、実は生物が眼を進化させたことによって、食う者と食われる者の
軍拡競争が突然おきて、その結果として、大進化が誘発されたのではでないか?
という仮説を様々な分野のデータを積み重ねて検証している。

その仮説を思いつくまでのいきさつがとても面白くて、
もともとは、貝虫の研究をしていて、貝虫の触子みたいなのに回折格子があって
光があたるとキラッと光ることをはじめて見つけて、それを発表したら、
世界中で回折格子が、この生物にもあった、あの生物にもあったという
発表が現れたという話とか、

それで、たまたま博物館で、カンブリア紀の生物の想像図の線画をみていたら、
生物の表面に描かれた線が回折格子に見えてきて、化石を電子顕微鏡でしらべたら、
回折格子の痕跡が見つかって、古代の生物の表面が七色に光っていたことが分かったとか、

そして、それがきっかけで、カンブリア紀の生き物と光の関係を考え初めて、
眼の進化と、カンブリア紀の進化の爆発が同時におきたのではないか?
という仮説を思いついたらしい。

セレンディピィティのエッセンスがあふれている本。

回折格子とカンブリア紀の化石という全然関係なかったものが
交差したときに、斬新な仮説が生まれたというところが、
とてもおもしろいと思う。

サイエンスにおける仮説の検証というのは、ある種、推理小説に似ていて、
さまざまなデータを積み重ねていくと、最後に、それらの点がすべてつながって
線となり、ひとつの結論が導かれる。

たとえば、意識はスモールワールドネットワークに宿る、という仮説を
思いついたとしても、それを検証することは、今のところパズルのピースが
欠けまくっていて、ほとんど不可能に近い。

だから、眼の進化とカンブリア紀の大進化をつなげているこの本の思考プロセスは
とてもエキサイティングで、よくピースがそろったなぁと思う。
サイエンスをする楽しさはここにあり!という気持ちを新たにできて、
とても勉強になった!

月曜日, 3月 13, 2006

アマゾン×古代文明×google earth

先週の月曜日にTBSで古代発掘ミステリー秘境アマゾン巨大文明という番組がやっていて、それをビデオでみたらおもしろかった。

メソポタミア文明・エジプト文明・インダス文明・黄河文明を4大文明というけれど、
じつはアマゾンにもうひとつの古代文明があったのではないか?というはなし。

アマゾン川上流域にモホス大平原という湿地帯があって、雨期はほとんど
水没してしまう地域に、

ロマという、最大のものに直径が600mもある、盛り土された丘が点在している。
雨期に氾濫する際に、移住地が冠水しないようにつくられたと考えられていて、
2万個ほどみつかっているという。

また、最大のもので一辺が20kmもある、正方形や長方形の形をした人工湖が
2000個近く散在していて、古代人が農業を行うための治水目的で
作られていたという。人工湖はみんな北東の向きを向いているらしい。

さらに、ロマとロマは、テラフレインという直線の盛り土で結ばれている。
雨期に島のように散在しているロマ同士や人造湖を結んでいたらしい。
テラフレインはモホス大平原にあるもので総延長5000km以上もあるという。

アマゾンの古代文明は、ロマと人工湖をノード、テラフレインをリンクと
みなすと、それらが複雑なネットワークを形成していたらしい!

昔、映画「ドラえもん のび太の大魔境」で、のび太が秘境を冒険したいと
言い出して、ドラえもんの道具のロケットをつかって、アフリカの空中写真
を撮影して、その膨大な写真の中から秘境を探す、
ということをしていたんだけれども、

ふと、今ならgoogle earthを使えば、似たことができるじゃん!と思いつく。

google earthをインストールしてアマゾンの古代文明を探してみた。

Santa Ana de Yacuma, boliviaというキーワードをいれると、長方形や正方形の
人工湖がたくさん散在する地域が見つかった!これがその写真。



みんな北東の方向を向いている。おもしろい(笑)
ロマやテラフレインはどれなのかよくわからず。

最近、google earthで古代ローマの新遺跡を発見したというニュースがあったけれど、

google earthってすごい!と実感する。すごくおもしろい。

日曜日, 3月 12, 2006

旅の記録

3/6 (月) 雨

研究室旅行で鹿児島にいく。
羽田から鹿児島へANAで2時間。
鹿児島は雨だった。
空港でレンタカーを2台借りて出発。

タナベ・オマケイ・オンゾー・ヘライ・オレ・ノザワ・タマ号と
セキネ・タイヤ・ホシノ・オオクボ・イシカワ号

桜島に向かう前に霧島の温泉に寄る。
霧島は煙がもくもく出ている温泉街だった。
雨に当たりながら露天風呂にはいった。

車で2時間ほどかけて桜島に向かう。
車のCDデッキにm-floの「BEAT SPACE NINE」というアルバムが
なぜか入っていてエンドレスでかけていた。
The Other Side of Loveという曲の

aha~aha~aha~come-on!!

というラップがツボにはまる。

桜島の宿についたときはもう日が暮れていた。
いつのまにか雨は止んでいて、風がすこし暖かい。
東京では今日は春一番だったとニュースで知った。

桜島から鹿児島市内までフェリーが出ていて
10分ぐらいで渡ることができる。
フェリーのイルミネーションがピカピカ光っていて、
フェリーから見える鹿児島市内の夜景もピカピカ光っていて、
なんだかとてもワクワクした。出航とかいてキボウと読む、みたいな。


広島の尾道で夜、瀬戸内海のフェリーにのったときも
すごく楽しかった記憶があって、それを思い出した。

オンゾー先導のもと、市内を歩いて食事処を探す。
こぢんまりした、すごぐいい感じの居酒屋を見つける。

きびなご、馬刺、とんこつ、さつまあげ、やきとり
に舌鼓をうつ。焼酎の三岳もうまかった。レアものらしい。

普段は物静かなヘライが、KinKi Kidsなら剛よりも光一がタイプだという
オオクボに、おれってオオクボさんのタイプじゃないよね?と聞いていたり、
タナベが自称(?)イケメン系ノザワに辛辣なつっこみをいれていたり、
セキネのもみあげが、床屋で自然カットでお願いしますと言い忘れて、
水平方向にきれいに整っていて、笑いのタネになっていたりして、
なんだかとても楽しい飲み会だった!!

居酒屋のあと、とんとろというラーメン屋で、豚骨ラーメンをたべたけど
おいしかったなり。

フェリーで桜島に戻って、宿で飲み会をして、眠る。


3/7 (火) 晴れ

朝。旅館のマグマ温泉にはいる。
熱いお湯とちょっとぬるいお湯に分かれていたけども、
ちょっとぬるいお湯もとても熱い。
窓から朝日の光線が温泉に差し込んでいて
さわやかな気分になる。

いつのまにかみんな朝のドライブに出払ってしまっていて、
することがないオマケイと一緒に宿の近くを散歩していたら、
神社があって高浜虚子の句牌が立っていた。

溶岩に秋風の吹きわたりけり

オチがなくないかーとオマケイと話していて、一句よむ。

桜島豚骨ラーメンさつまあげ

だめだこりゃ(笑)

車で桜島をドライブ。
レストランによって朝ご飯。
マグマカレーとさつまあげと薩摩汁を食べた。
期待してオーダーしたマグマカレーは普通のカレーだった。


どうも桜島ではマグマなんとかとつけるのがネーミングの基本らしい。。

古里温泉にいく。混浴。
樹齢200年以上の龍神が宿るというアコウの木の根元から、湯が湧き出る
龍神露天風呂があって、神聖な場所なので、白い浴衣を着て入浴する。
海に面していて温泉から水平線が一望できる。
野人ホシノが冷たい海にはいって泳ぎまわっていて周囲から拍手をうけていた。
樹は素晴らしかったけれど、あんまり神聖な雰囲気が感じられなかったのは
混浴だったからか??

その後、展望台にいって、桜島を一望する。
火山から煙は出てなかった。



フェリーで車ごと鹿児島市内にわたり、南下して
指宿(いぶすき)まで3時間のドライブ。

宿にチェックインしたあと、砂むし会館にいく。
そこでボスとおちあった。砂むし温泉にトライする。
砂浜なんだけれど、地熱で砂から湯気が出ている。
砂のうえに寝ころぶと、おばちゃんが砂をかけてくれる。
砂の重みで、体中が締めつけられて、ドクン、ドクンっと
体中に血が送られているのを感じることができる。
地熱による血管の拡張と、砂の重みによる血圧の上昇が同時に
おきて、不思議な感じがした。

右側にはオマケイが、左側にはセキネが寝ていて、さっさと出てきたボスが
それをみて笑っていた。写真屋のおっちゃんにオマケイとのツーショットを
撮られる。

宿で夕食をたべる。宿に体育会系の合宿と思われたのか、
長崎チャンポンに豚カツにご飯と、ボリュームのある夕食がでて
長崎チャンポンを食べ、黒豚かもしれないとおもい豚カツも完食して、
お腹が一杯になる。

夜飲み。ボスがプロフェッショナルをチェックしていた。
ボスは最近、頭に光が走ってすごいアイディアを思いついたらしく
ハイテンションだった。ネットと脳科学かぁ。

13人でウィンクキラーゲームをした。一回だけキラーになったけれども、
ジョーカーを引いたら急に無口&挙動不審になってしまって、
あっけなく告訴される。顔に出さないでウソをつくのは難しい。


3/8 (水) 晴れ

いぶすきをドライブしつつ、砂丘を目指す。
いぶすきの山々はへんな形をしていておもしろい。

車が3台あって、さんざん迷った末についに砂丘にたどりつく。
砂丘の砂は白かったなり。



道ばたのレストランで、海鮮丼をたべた。
サラダバーもおいしい。

その後、樹齢1500年の楠をみに蒲生八幡神社にむかう。


楠は見ているだけで暖かい気持ちになるような、そんな樹だった。
御神木様。なんというか普通の木とは全然存在感がちがう感じ。


樹には扉がついていて、なかにはたたみ8畳分の空間があるらしい。
トトロの家みたい(笑)

鹿児島空港で、ボス・タイヤ・オレ・オマケイ・オンゾウと最後の飲み会。
ボスのおごりで、調子にのって、焼酎の大魔王(600円)、魔王(1000円)、
なかむら(1000円)を飲んだ。高くなるほど味は辛くなるようだ。
就職のはなしとか、これからの方向性とか、いろいろはなせて楽しかった。

そして東京へ。

研究室のみなさま、楽しい旅でした!!

水曜日, 3月 01, 2006

30冊。

2月がおわる。
年末に卒業延期を決めて、一時的にD論から解放されて、
将来の方向を定めるのは今しかないと思い、
少しでも参考になりそうな本はすべて買う、
という方針のもと、この2ヶ月間、本を買いまくっていて
今日、ふと数えてみたら30冊に達していた!
おそろしい。

何を買って、何を読んだのか振り返ってみる

(完・・完読 途・・途中 未・・未読)

蔵書で読んだ本

(完) 川上弘美 ゆっくりさよならととなえる 
(完) 日高敏隆 動物と人間の世界認識
(途) 河合隼雄 ユング心理学入門
(途) 保坂和志 小説の自由
(途)ニコラス・ハンフリー 喪失と獲得
(途) リチャード・E. シトーウィック 共感覚者の驚くべき日常―形を味わう人、色を聴く人
(途) ベルグソン 物質と記憶

買った本(古本も含む)

(完) 羽生善治 決断力
(完) 養老孟司 無思想の発見
(完) 藤原正彦 国家の品格
(途) 齋藤孝 天才の読み方

(未) 河合隼雄 無意識の構造
(未) 河合隼雄 こころの声を聴く―河合隼雄対話集
(未) 小林秀雄 小林秀雄対話集

(途) 南方熊楠 南方熊楠コレクション〈第1巻〉南方マンダラ
(未) 司馬遼太郎 空海の風景〈上〉
(未) 司馬遼太郎 空海の風景〈下〉

(完) 司馬遼太郎 功名が辻 1-4
(途) 藤枝静男 田紳有楽;空気頭

(完) 梅田望夫 ウェブ進化論
(未) ジョン・バッテル ザ・サーチ グーグルが世界を変えた
(未) ジェームズ・スロウィッキー 「みんなの意見」は案外正しい
(未) マルコム グラッドウェル ティッピング・ポイント―いかにして「小さな変化」が「大きな変化」を生み出すか

(完) フランス・ドゥ ヴァール あなたのなかのサル 霊長類学者が明かす「人間らしさ」の起源
(途) Mind Hacks―実験で知る脳と心のシステム
(途) 最後のネアンデルタール 別冊日経サイエンス127
(途) 別冊日経サイエンス (133) 別冊日経サイエンス
(未) M・グラッドウェル 第1感 「最初の2秒」の「なんとなく」が正しい
(未) ニコラス ハンフリー 内なる目―意識の進化論
(未) P. ロシャ 乳児の世界
(未) M.アイゲン 自然と遊戯―偶然を支配する自然法則
(未) ジョン・L. キャスティ 複雑性とパラドックス―なぜ世界は予測できないのか
(未) アントニオ・ダマシオ 感じる脳 情動と感情の脳科学 よみがえるスピノザ
(未) ベルグソン 創造的進化
(未) E.シュレーディンガー 生命とは何か―物理的にみた生細胞
(未) 金子守 ゲーム理論と蒟蒻問答
(未) ゲーム理論のフロンティア 臨時別冊・数理科学

読んだ本が8冊で、途中の本が11冊で、待機中の本が18冊。

反省。。結局、なにをしたかったの?と考えてみる。

ひとつは、脳のような自らを創造的に拡張していく人工システムはつくれるのか?
という問題。

ふたつめに、脳科学はインターネットと融合しうるか?ビジネスになるか?
という問題。

最後に、結局、どう生きたいの?という問題。

答えは簡単にでるものではないけれど、とにかく気のおもむくままに読んでいて、
世界が広がっていって、楽しかったからよしとしよう。

土曜日, 2月 25, 2006

一週間。

月火。研究会の準備にいそしむ。

水。研究会。
発表は不発だったけど異分野交流は刺激をうけましたでござります。

木。一人反省会をしていて、
マインド・マイニング構想を思いつく。
自発発火の研究は、マインド・リーディングやサイボーグの研究に
つながると思う。

金曜。
ゼミ&ながしまん飲み。
偏った知識が新しい価値を生むということを証明しまする。

Yahoo!動画でアニメが無料でみられることを知って
タイムボカンシリーズのゼンダマンの第1話をみた!

http://yahoo.tv-bank.com/ch00048/

オープニングの企画のキャプションで父の弟の茂おじさんの
名前が出ていて、おおおぉーと思う。
タイムボカンシリーズの黄金時代におじさんはタツノコプロで働いていた。
小さい頃、タイムボカンシリーズのロボットをおじさんから
よくもらって遊んでいて、その後のロボット好きの軌道に乗せられた
気がする。ドラエモンとガンダムの影響も絶大だけども。。
メイに、あれがあったからいまの私があると言われるような
何かをプレゼントせねば。

「説明しよう」というナレーションで、ストーリーが
どんどん都合よくすすむのがなんだか新鮮だった(笑)

今日。
悪寒と頭痛がする。
風邪をひいてダウン。。。

土曜日, 2月 18, 2006



2/16
在学延長届けを出しに1ヶ月ぶりにすずかけキャンパスにいった。
キャンパス自体が秘密基地みたいなところだけれど、その中央には沼がある。
昔、就職かD進学かを悩んでたり、アイディアが思い浮かばないときに
この沼をよくぼーっと眺めていた。そんなどんより気分な記憶しかない沼が
今日はなんだかとても映えていた。

2/17
ゼミ。当番。
自発発火とfMRIの研究が融合して業界に新しい流れが生まれていることに
気がつく。いいじゃないか!水曜日のイケガミ研との合同研究会の題目を
「自発発火から見た脳というシステム」に決める。内容を考えないと。

オリンピック。
スノーボードクロスはおもしろい。先頭の3人が団子状にコけて、
ビリだった選手が突然先頭にたったりするところがいい。

モーグルもおもしろい。モーグルをみてどきどきするのは、
脳が、ミラーシステムによって、他者がつくりだす回転や3Dの運動を、
自分の身体系でなぞっているからではなかろうか。
きっと、8本の腕を自在に動かす人の映像をずっと見続けたら、
脳内でなにかが再構築される気がする。たぶん。

保坂和志の「小説の自由」を読み始める。おもしろい!
仮想世界の構築の仕方について述べている、と思う。
言葉のアーキテクスト。

CGとかゲームでは、Virtual Realityといって、人の脳にいかにして、
「仮想現実」を体験させるかということが研究されているけれど、

言葉で風景をどう描写するかという問題は、「仮想世界」をいかに構築するか
という問題で、この本は、それについて考えるということが
可能であるということに気づかせてくれているところがすごいと思う。

「仮想現実」と「仮想世界」はちがう、と勝手に定義する。
「仮想現実」は感覚体験(感覚野の活動)が必要で、
「仮想世界」はイデアでありイメージの世界である、とする。

小説の作り出す世界は、イメージの世界で、
感覚化・現実化は伴わない。それが感覚化してしまう
ということを幻覚をみるというんだけれども、普通は、小説を
感覚化するために、映画化というプロセスがある。

創造において、抽象的な思考・アイディアを具象化・具体化させる
プロセスにもっともコストがかかるように、
脳にとって、外界に頼らずに、イメージを感覚化する・イデアを実在化させる
プロセスには、かなりのコストがかかるのではないか?(情報理論的にも)

なのに、脳は、夢の中で、小説で体験した「仮想世界」の記憶から、
軽々と「仮想現実」を生み出すことができる。そこがおもしろいと思う。

木曜日, 2月 16, 2006

まんだら

マンダラをかきたい、とふと思う。
いまもっている脳のイメージをマンダラにしたい。

セキネに「マンダラかきたい」といったら、
「僕は止めませんよ」と言われる。


土曜日の日経新聞に南方熊楠が考案した
南方マンダラの話がのっていて、とても面白かった。


・・・「南方マンダラ」は1903年7月の書簡に熊楠が描いた図で、物事の因果関係を説明するモデルといわれる。原因、結果が一直線でつながる近代西洋科学とは異なって、複数の曲線と直線が絡み合う、様々な因果関係が相互に影響する様を描き、科学の方法論に、偶然や確率を導入したとされる。・・・

・・・「南方マンダラ」は決してとっぴな発想ではなく、法龍との交流から得た密教の抽象的な概念と、熊野の山を歩き回って得た具体的な自然の観察結果を融合させ、「実世界を理解するモデルを作ろうする試みから形成されてきた」。・・・

・・・熊楠はもともと聖の世界の論理である曼陀羅を使い、俗界を説明する道を開いた。彼のおかげで実世界の様々な関係性を曼陀羅で読み解くことが可能になった。・・・


社会学では、南方マンダラはいまでも社会を理解するための、
汲めども汲めないインスピレーションをあたえてくれているらしい。
これはおもしろい!と思い、中沢新一の「南方マンダラ」という本をかう。
紹介文があつい。

楽しいかな学問。「南方曼陀羅」の全体構造をあたえられた学問は、宇宙の不思議を前にして、驚きと喜びにみたされている。・・熊楠は一生涯、そういう学問しかやらなかった。そうでない学問などには、何の関心もしめさなかった。「南方曼陀羅」は、そういう人によって、人生の至高の楽しみを与えるための極意として、考えだされたものなのだ。



熊楠は、上の図を生み出すのに10年かかったらしい。
いったいどんな理論なんだ!(笑)

南方熊楠って、南紀白浜の南方熊楠博物館にいったときは、
粘菌の研究をした人っていう印象しかうけなかったけど、

マンダラがだんだんネットワークにみえてきて、
そうしたら、熊楠は実は、いまサイエンスで勃興している自然界をモデル化した
複雑系ネットワークの先駆け的な研究をしてたんじゃないのか?
と思うようになる。

マンダラ脳理論を想って今日一日が終わる・・・。

水曜日, 2月 15, 2006

道草

川上弘美のエッセイ、「ゆっくりさようならをとなえる」をよみおわる。
帯紙に 道草したい、日もあるさ と書いてあった。
道草、道草。ずっと、道草。

日常を描いているところが、とてもいい。
というか、すごいと思う。
みならって、日常を描いてみる。

久しぶりに頭痛のない朝だった。

でも喉がいたい。かりんののど飴を一日中なめる。

朝ご飯。ゆで卵とキャベツのみじん切りと納豆ご飯。

小林秀雄を聴きながら、海老名駅まで車で通う。

新宿のビックカメラでDVD-Rを買う。次郎ラーメンにいくかどうか
迷ったけど思いとどまる。

五反田駅から研究所まで10分の道。火曜日は読みたい雑誌がないので
ファミリーマートをスルー。
歩きながら、ネンデルタール人は言葉を話していたのかどうか、とか
友人が教えてくれた「折りたたみナメクジ」という言葉について考える。

研究所。
半袖姿のタナベをみて、はじめて今日は暖かい日であることに気がついた。

松屋で牛丼350円。

自発発火の研究は停滞中。とっかかりを見失う。道草もいいじゃないか、
とつぶやきながら言葉について考える。

日経サイエンス 「人類の文化の夜明け 早かった象徴表現の起源」をよむ。
シンボルをつかいはじめたのは進化のどの時点からか?
イヌも200個の単語をおぼえる。チンパンジーも教えれば記号を使いこなす。
でも彼らは自発的に世界を分節化し、記号をつくりだし、
それを用いてコミュニケーションをとるようなことはしない。
非言語コミュニケーションと言語コミュニケーションの
中間形態はどのようなものだったのか?

ネアンデルタール人はヒトと同じ脳の大きさをもっていて、おそらく言葉を
話していた。彼らは、氷河期のヨーロッパ大陸に適応し、一時期は50万の
人口を誇ったという。彼らはどんな社会をつくり、どんなコミュニケーションを
とっていて、そして、3万年前、どこへ消えた?
「あなたのなかのサル」を読んでからそういうことが気になる今日この頃。

「折りたたみナメクジ」はおもしろい。セキネにそのはなしをしたら、
「おばあちゃん座礁」に似てるという指摘をうけて、いろいろつながる。
ランダムでもなくレギュラーでもない言葉の意味の組み合わせ領域があって、
脳の「わかる」状態を捉えるには、その領域が利用できる気がした。

思いつきではじまった共同プロジェクトもセキネがやる気で進行中。

タナベが、オマケイ、セキネと3人でわけてねーといって、
ロッテパイの実と、その他チョコ2種類をくれた。

10時30帰宅。父親が大量に持ち帰ってきたチョコレートをかじりながら
オリンピックをみる。

そしていまここにいる。おやすみなさい。

月曜日, 2月 13, 2006

笑いと心の理論の共進化

母親が楽しそうにメイのはなしをする。
メイは食いしん坊で甘いお菓子に目がない。
食べ過ぎないようにタンスの上にお菓子のお皿を移動してしまうと、
メイは、自分用の小さな椅子をタンスの下にもってきて、
その上に乗って、一生懸命、タンスの上に手を伸ばす。
と同時に、こちらの様子をうかがって、クスクスと笑うのだという。

このエピソードから2つおもしろい!と思ったことがあって、
一つは、メイは自分の行為を見て、他人がどう思うのかということが
すでに分かっているということ。もう一つは、自分の行為によって
おばあちゃんとの間に生じた緊張を、
メイは笑いによって解消しているということ。

そうおもったら、正高さんの、笑いは個体間の緊張を解消するために
進化したという説を思い出した。

群をつくって生きていく類人猿にとって、個体間の緊張を和らげるというのは
死活的な問題で、チンパンジーも笑うらしいんだけれど、
チンパンジーが個体間の緊張を解消する方法は、主にグルーミング
(相手のノミをとってあげる行為)をすることだという。

ヒトは、チンパンジーよりも、積極的に、笑うという行為を進化させた。

きっと、「心の理論」が進化すればするほど、他者の心がわかるようになって、
自分の欲求と他者の欲求の衝突が、頭のなかで思い描けるようになる。
笑いはきっと、その緊張・ストレスを解消する重要なコミュニケーション
ツールとして進化してきたに違いない!メイのはなしをきいてそう思った。

日曜日, 2月 12, 2006

思考・感情・感覚・直感

最近、河合隼雄の「ユング心理学入門」を読んでいて、
人のタイプ論の話がおもしろい。
ユングは、人は思考・感情・感覚・直感の4タイプで特徴づけられて、
思考と感情、感覚と直感は対立の関係にあると考えた。

この分類は、脳科学的にはどうなんだろうと思うところもあるんだけれど、
日頃感じている感覚とすごく合っていて、いろんなことが整理できる
見方だと思う!

同じく最近ユングにはまっているオンゾーに俺ってどう見える?と聞くと

思考 > 直感=感覚 > 感情

と言われて、あー、自分のイメージと一致している・・と思う。

東工大の名誉教授で、森政弘さんというとてもユニークな先生がいて、
「機械部品の幕の内弁当」という本の中で、森さんが授業で、
「氷が融けたら何になる?」
と東工大生に質問したら、みんな当たり前な質問をするなという顔をして、
「水ですよ」と答えたという。

森さんは、エンジニアは物事を物理的に把握する見方に慣れすぎていて
詩人や文学者のように物事を心理的に把握する視点が弱い傾向にあることを
問題だと思っていて、前者の見方を外側発想、後者を内側発想と呼ぶと、
森さんは、実は
「氷が融けたら春になる♪」
みたいな内側発想の視点が、エンジニアリングにおいても
重要なんだと言っていて、ずっと気になっていた。

森さんの外側発想と内側発想が対立するという話と、ユングの
思考と感情に対立するという話が同じことを言っている気がして、

そうしたら、ここ2年ぐらい、ずっと気にしていたのは
思考にいかにして感情を統合させるか?という問題だったんだ!
ということに気がつく。精神分析はおもしろい。


内側発想的なことば。
ふと思い出したのが、昔飲み会で耳にしたこのセリフ

君のハートをダブルクリック

これを思い出すといつも笑っちゃうんだけれど、
どれくらい普及しているのかなーと思って、ググってみると、
57件のヒット。

ハッ!と思いついたのがこのセリフ

君のハートをハッキング

ググると1件のヒット(笑)。

もっと、どっかーんってわしづかみな感じのセリフはないのか!と
思案して思いついたのがこれ

君のハートをビックバン

グーグル、0件。

うーん・・。

木曜日, 2月 09, 2006

今夜はボノボ



メイが土曜日にやってきて、
日曜日に、早くおうちに帰りたいよーと泣きながら帰ったんだけど、
車のなかでずっと寝ていて、家についてもそのまま寝てしまった。
そして、朝起きると、自分がどこにいるのかはじめ分からない様子で、
家に帰ったことがわかると、朝からずっと、
「ジージとバーバの家にいきたいよー」と騒いでいたらしい。

2歳と3ヶ月。1日前の非日常的な体験のエピソードを
思い出すことができるようになっていて、いまいる「現在」に過去の
エピソード記憶がどんどん入りこんできて、「現在」の行動に影響を
与えるようになってきているところが、おもしろいと思う。




日曜日に友達に誘われて、江戸東京博物館で歌川広重展にいく。
両国駅で、お相撲さんが駅前のコンビニに買いものをしにきている
風景をみて、いとをかしと思ふ。

広重の名所江戸百景はすごい良かった。江戸東京博物館の常設展示も
江戸時代の暮らしから昭和の暮らしまで展示していておもしろい。



売店でみつけた広重の「大はしあたけの夕立」のポストカードが
なんだかとてもいいと思う。



大胆な構図がいい。エメナルドグリーンの明るい川によって
雨が優しく降り注いでいるように見えるところもいい。そして、
雨の存在で画面全体に動きが感じられて、行き交う人々もなんだか
動いているように感じられるところがいい。
ゴッホが模写するわけだ!




ここ数日、道徳について勉強しようと思って、フランス・ドゥ・ヴァールの
「あなたのなかのサル」を読んだ。
権力闘争に明け暮れるチンパンジーと、乱交で平和主義のボノボ。(以下抜粋)

ここヤーキースでは、オスたちの権力闘争、チンパンジー社会のネバーエンディング・ストーリーが展開されている。争いの原因は、突きつめればメスだ。ヒトにいちばん近い類人猿の、決定的なちがいがここにある。いっぽうはセックスのごたごたを力で解決し、もういっぽうは権利争いをセックスで解決しているのだ。

・・・・・
チンパンジーの社会は競争に重点がおかれ、
ボノボの社会は協調に重点がおかれている。
ヒトの社会は、どちらの種の特徴も包含しつつ、
父親が育児に関わる核家族というしくみを生み出すことで
独自の社会を進化させてきたという。

類人猿の心の理論、共感、道徳の起源の話がとてもおもしろい!

霊長類研究者の間では、「今夜はボノボするぜ」である意味が通じるらしい。

藤原正彦さんの「国家の品格」や、この「あなたのなかのサル」をよむと
世界は、いまポスト資本主義を模索している。どうもそういうことらしい。




今日、「思考」について考えていたら、
なにを言っているかわからない他人が書いた文章っていくらでもあるけれど、
自分が理解できない文章を自分でかくのは結構難しいということに気がついた。

例えば、

そこにあるリンゴが、スカート吊るしている

のようなイメージが全然つながらない文章。

アハ!センテンスを考える難しさの一因はここにあるような気がする。

山鳥さんが「「わかる」とはどういうことか」という本で

わかる、とは自分のものにすることです。長々と文に表現されているものが自分の概念(心像)としてひとつのイメージにまとめられることです。

と書いていて、

思考が生み出すイメージの連続は、「わかっている」ことの連なりで、
そして、意識は「わからないこと」に出会うと、「わかろう」とする。

意識というものがそもそも、無秩序から生成されている秩序そのもので、
その意識が生み出す思考という運動は、
秩序をもった「わかっている」ことの連続によって構成されている。
だから、意識的に、無秩序なデタラメな文章を
つくろうとすると、難しいのかなーと思う。

金曜日, 2月 03, 2006

道徳&笑い

「道徳を守るアシモ」をつくるための理論を思いついた。

いや、ほんとうに。

私はようやく、すべてを理解しました。このときをずっと待っていたんです。
不意にすべてがのみこめました。

(笑)

だから、頭痛がとまらないのか・・?


笑いはロマンスへの扉を開きます
というニュースをみつけた。

女性達はユーモアを持つ男性達を高く評価(彼は楽しい人だわ)し、
男性達は冗談を理解する能力を評価(彼女は僕のジョークを判ってくれる)

という研究が発表されたようだ。研究者のコメントがおもしろくて、

これは、愛を探し求めている人々にとっては何を意味するのでしょうか?
人間関係を扱うセラピストでは無く科学者であるBresslerにとっては、これはいささか答えるのが難しい問い掛けです。しかし重ねて尋ねた時、彼は女性達の為にそれを簡単な忠告へと縮めてくれました。「相手に関心が無いなら、彼の冗談に対して笑いを返さないでください」

アホみたいにシンプルなんだけど、
社会への貢献度が非常に高い、こういう研究がとっても好き(笑)。


二年前ぐらいから笑いについて考えていて、
セキネと共同研究をやろうと意気投合して、
そのまま立ち消えになっていた笑いの研究を、
この記事に感動して、もう一度トライしようと決意(笑)

ちまたではアハ!センテンスなるものがあるらしいけれど、
ラフ・センテンスというものを考える。

例えば下のジョーク。[脳と心の地形図 リタ・カーター(著) から抜粋]

一頭のカンガルーがバーに入ってきてスツールに腰かけ、ビールを注文した。
バーテンダーはびっくりしながらも、ビールを出してやった。
「いくらだい?」とカンガルーがたずねる。気を取りなおしたバーテンダーは、
カンガルーがどれくらい賢いか試してやろうと、法外なお金を請求した。
カンガルーはおとなしく支払う。やっぱり人間さまのほうが一枚上手だと安心した
バーテンダーは、つい口をすべらせてしまった。
「このお店にカンガルーはめったに来ないから・・。」

このジョークの落ちは次の3つのうちどれだろう。
(a) カンガルーは銃を出してバーテンダーを撃ち殺した。
(b) 隣の椅子に座っていた男が、自分は腹話術師でカンガルーが
ビールを飲むように仕込んだのだとうち明けた。
(c) 「そりゃそうだ。ビールがこの値段じゃね」とカンガルーは言った。
 
答えは当然(c)。でも右脳に障害を持つ人は、
当たり前ずぎておもしろくも何ともない(b)を選び、
左脳に障害がある人は、脈絡のない結末である(a)を選択するという。

落ちをブラックボックスにして、なにがきたらジョークが完成するかを考えている時、
ひねりのない落ちを示す時、そして、本物の落ちを示す時の3つの状態における
脳活動を計りたい。

きっとアハセンテンスにおける脳活動とかなり似た脳活動がでるきがする。
創造性と笑いの脳活動は類似していることから
ヒトの性淘汰において、笑いは重要な適応度指標となりうると結論!
論文完成。ぱちぱちぱち。

って、そんなんでいいのか!

木曜日, 2月 02, 2006

頭痛・ビジョン・持続

土日にすべてを投げうって、
司馬遼太郎の「功名が辻」全四巻を読破する。
その罰があたったのか、ここ2日間、頭痛がする。
左脳・上側頭溝あたりがずっと痛い・・。

心配になって、スッきりんのバイバイ頭痛講座というH.P.をみつけて
頭痛のタイプを判定するチャート診断をやってみた。
生まれてこのかた、頭痛というものをほとんど経験したことがなく、

「突然、今までにないほど激しい頭痛が襲った!」「Yes/No?」
「Yes!!」
と答えたら、

「診断結果 危険な頭痛の可能性」

と出て、いきなりかい!と思う。
くも膜下出血の可能性ありと出て、驚いて病院にいって、
くも膜下出血でしょうか?と先生に聞いたら、一笑にふされて、
炎症止めの薬をもらう。
それを飲んだら頭痛がおさまった。
医学ってすごいじゃん!と思う。


「功名が辻」は面白かった。
主人公は山内一豊の妻の千代で、千代を通して、
夫の上司である秀吉の異才さがよくわかるんだけれども、
第三巻、秀吉が最晩年に、景気づけにお花見を企画した場面で、
雄大なお花見を体験した千代の感想が面白くて、

秀吉は古今類のない園遊会好きなだけに、その構造の雄大さ、巧みさも比類がない。
遊びにも、
「企画力」
があるのだ。千代はこの醍醐の花見をみて、つくづく、
(この人が天下を取ったはずだ) 
と思った。たとえば家康の構想力など、秀吉が月だとすればすっぽんどころか、泥がめでしかないであろう。
天下取りも構想力なのである。夢と現実をとりまぜた構想をえがき、あちらを押さえこちらを持ちあげ、右はつぶして左は育て、といったぐあいに、一歩々々実現してゆき、時至れば一気に仕上げてしまう、その基礎となるべきものは、構想力である。

とあって、あー、天下取りもビジョンなのかーと思う。

昔から研究するにはビジョンが重要だと思っているんだけれども、
でも最近は、もっと重要なのは持続することなんじゃないのかなーと思いはじめる。

羽生さんも「決断力」のなかで、
才能とは、同じ情熱、気力、モチベーションを維持することである
といっていて、例で、

奨励会の若い人たちを見ていると、一つの場面で、発想がパッと閃く人はたくさんいる。だが、そういう人たちがその先プロになれるかというと、意外にそうでもない。逆に、一瞬の閃きとかきらめきのある人よりも、さほどシャープさは感じられないが同じスタンスで将棋に取り組んで確実にステップを上げていく若い人のほうが、結果としては上に来ている印象がある。

と書いていて、そうなのかーと思う。

持続しないと!

月曜日, 1月 30, 2006

ロスト・メモリー

幼児が池に落ちて亡くなってしまったというニュースを
見ていたら、母親が兄と俺の冷や汗ばなしをはじめた。

昔、おじいちゃんが鯉に凝っていて、庭には鯉のための池があった。
5歳ぐらいの兄は、鯉を捕まえようとして池におちた・・
でも、自分で這い上がって、怒られると思って、びしょ濡れになりながら、
泣きもせずになんともなかったかのように振る舞ったという話。

次に俺の話になって、おまえは二回迷子になったと言われて
そうなんだ!と思う。

ひとつは自分でもよく覚えていて、3-5歳までアメリカにいて、
クリスマスの時期に、NYのロックフェラー広場のクリスマス・ツリーをみにいった。
ツリーの前にサンタさんがいたんだけれど、人だかりができていて、なにも見えない。
どうしてもサンタさんがみたくて、親の手を離して、
人々の股をくぐりながらサンタを目指した記憶がある。
そして、つぎに思い出すのが泣いている場面の記憶。
運がいいことに、泣いているアジア人の子供と、取り乱しているアジア人
を目撃した優しいアメリカ人のあばあさんがいて、その人が引き合わせてくれたらしい。

もう一つが、やっぱりアメリカで、当時、トロイという場所に住んでいて、
外で遊ぶときは、いつも兄の後ろをついて回っていた。
しかし、ある日うざいと思った兄にまかれたらしい(笑)。
丘陵に住んでいたアパートが建っていて、その丘陵を登っていった
先にある団地で泣いている記憶をうっすら思いだした。
当時、幼児誘拐殺人事件があって、警察官がパトロールしていて、
その警察官が、おうちはどこだい?ときいて、アパートまで一緒に
ついてきてくれたらしい。

おれのなかでは泣いている記憶しかないはずなんだけれど、
迷子のはなしを書くために、当時の風景を思い出していたら、
だんだん警官の記憶ができてきた・・!!これは偽の記憶に違いないんだけれど、
小説家が、素材をもとに場面をイメージするように、
昔の記憶は、そのときの手がかりをもとにして容易に作り出されてしまう
感じがちょっと恐ろしい・・と思う。

でもいったん定着した記憶が、想起されることによって、
また不安定化されるという最近の仮説がエピソード記憶でも本当にあるならば、
記憶の書き換えは必ずおきる。というよりは、
もともと記憶はどんどん生成されていて、それがオリジナルの記憶なのか
作り出した記憶なのかを判断するメタ認知が、オリジナルの記憶が
古ければ古くなるほどあいまいになっていくと考えたほうがいいのかもしれない。

なにはともあれ、親の視点からてみてはらはらした記憶と
自分のなかの記憶がつながるのは、なんだかおもしろいと思う。

金曜日, 1月 27, 2006

側頭葉人格

ここ2日間、急に鬱状態になって、この1ヶ月間が躁状態だったことに気づく(笑)。

躁状態は、いままでバラバラに見えていたものが一つの統合された、とても
意味あるものに思えている状態で、鬱状態は、それがバラバラで、
意味が感じられない状態。

この状態はなんだろーと考えていたら、ふと、ラマチャンドランの
「脳のなかの幽霊」に出てきた「側頭葉人格」のはなしを思い出した。

脳の情動を司る辺縁系に、局所的なてんかんがで繰り返しおこると、
「側頭葉人格」という症例がでる患者がいて、その患者たちは、
情動が強まり、ささいな出来事に宇宙的な意味を見いだすという。
周囲のあらゆるものが宇宙的な意味に満たされるといい、
「私はようやく、すべてを理解しました。このときをずっと待っていたんです。
不意にすべてがのみこめました。」とか
「ついに私は宇宙の真髄を見抜きました。」と言うらしい。

ひょっとして、おれの頭もこれか・・?

と思って居合わせたタナベに話したら、大笑いして、
「あははは~、自分のことよくわかってるじゃん!」とのたまわれた。


「・・・・・・」


まあ、理由はいくらでも考えられるのが、脳科学を勉強している強みで、例えば、

これも、ラマチャンドランの話で、左右の脳をつないでいる脳梁が
切れてしまっている患者さんのそれぞれの脳に対して、
神を信じますか?という質問をすると、
左脳は信じると答えて、右脳は信じないと答えるらしい!!

この話を延長すると、もし自分の脳梁が切れてしまったとして、左右の脳に、
自分の能力を信じますか?と質問したら、
おそらく、左脳は信じると答えて、右脳は信じないと答える(笑)

脳というは二つの脳から一つの意識が生じているという時点で、
すでに大きな矛盾をかかえた存在なわけで、さらに、サイエンスというものが、
大海原にコンパスももたずにイカダで漕ぎ出すようなあやうさをもっている
ことを考えれば、左右の脳が綱引きすることで
気分が揺らぐのもしょうがないか・・とも思う。

要は、気分が沈んで、その状態を冷静に分析したら、結局、大きな原因は、
ここ一ヶ月間、ずっと、脳の前頭葉と側頭葉の相互作用をモデル化した
「生成マシン」なるものを考えていて、おもしろいモデルがつくれそうな
気がしていたんだけれど、「意識」の問題にぶつかってしまって、
これは正面突破は無理だな・・と思ったことにあるのだなと思ふ。

思考の価値は、そのディテールに宿る

ということがすごい大事だと思い、
今日は、気を取り直して、結局、何が良くて、何がだめなのかについて反省会をする。

だてに躁状態は1ヶ月間つづいていなくて、おもしろい視点がたくさん
得られたんだけど、モデルで形にすることは無理そうで、
別の方法を考えよう・・という結論に達する。ふぅ。

水曜日, 1月 18, 2006

#2 考えるイルカ



いままで、ずっと、アハ連鎖でポンポン出てくるアイディアは
すごい楽しいけれど、現実に着地していない
”妄想”だと自分で見なしてきたんだけれど、

最近、ふと、
もっと自分の”妄想”を信じよう
と思いはじめて、それからずっと、
本気モードで”未来思考”をはじめる。

松岡正剛さんが紹介しているアンドレ・ルロワ=グーランの『身ぶりと言葉
の冒頭の

 この一冊がぼくを変えた。白眉は「人間はその思考を実現することができるようにつくられている」という一文だ。 
 この、何でもなさそうな一文こそ、ルロワ=グーランの思想と研究の目的のすべてをあらわしている。この一冊が心身の底から勇敢な感動をあたえるものになっていることを暗示する。それだけでなく、この一文こそがぼくをして『遊』を継続させ、編集工学研究に向かわせたエンジンとなった。

という部分にとても感動して、
そうだ、”妄想”を現実化するのだ
と思ふ。

金曜日, 1月 13, 2006

迷走

ここ10日ばかり、なにもD論に手をつけれなくて、ここ数日ようやく
新しい投稿論文をかくために必要なシミュレーションを走らせはじめる。

10日間、(偏ってるけれど)たくさん本を読んだ気がする。

養老さんの「無思想の発見」をよんだ。
本のテーマは、日本人がもっている思想の話なんだけど、
意識に関する考察がとてもおもしろかった。
養老さんの本の中で、「唯脳論」、「人間科学」に次ぐ、
意識についてインスピレーションのあふれた本だったと思う。

とくに、意識とは「点」であるという話が、自分のなかで、
立花隆の「臨死体験」という本の中で、立花隆が実際に感覚遮断タンクに
入ったとき、感覚がすべて遮断されると、五感はもとより、身体イメージも消失して、
意識が点になる体験をしたという話とつながって、
メタコグニションの実体ってこのことか!と思う。

たまたま本棚にあった、ニコラス・ハンフリーの「喪失と獲得」を手に取って
みたらはまった。「心身問題の解き方」という章がおもしろくて、
ずっと、表象の進化的シナリオが描けるはずだと思っていたんだけれど、
おれがイメージしていたシナリオはこれだ・・と思ふ。
あまり関係ないけれど、「Conscious Machine」なる業界があるらしい。

ボスからCytowicの「共感覚者の驚くべき日常」をもらって読んだ。
ラマチャンドランは、共感覚は、V4と角回の間に混線があって、それが
cross-activationされて、共感覚がおこるという説をいっているけれど、
この人は、辺縁系が共感覚のソースだといっている。どういうことなのであろう?

辺縁系はイベントの突出性を検出しているという概念がとてもグッときて、
創造性の理論を考えようとすると、システムに絶対必要な要素として、
いま直面している体験が、新しい問題なんだということを検出することで、
それは、regular(既知のこと)でもなく、random(意味不明なこと)こでもなく、
ボスのいうcontingency(偶有的)な事象なんだと思うけれど、
それを主にしているのは辺縁系だというところがおもしろいと思う。
まあ、ACC(anterior cingulate gyrus)が新奇性に対して光るという話もあるけれど。

そして、清水博の「生命を捉えなおす」をつまみよみする。

生命システムとは、環境の中で絶えず情報を生成しつづけるものである

というくだりにグッときた。すごいインスピレーションにあふれた本で、
出版がおれの生まれた翌年で、27年前にこのレベルに到達していた
この人は天才だ・・と思う。

まあ、なんというか、要はD論ほったらかしにして、思いっきり迷走をしていて、
今日は、こんなオブジェをつくって喜ぶ。



こーいうときは次郎にいくしかないね、次郎に。ということで、
セキネと新宿の次郎ラーメンに行って、ブタ入り大盛りをたべた。
                 

                 

木曜日, 1月 05, 2006

脳・直感・決断力

羽生さんの「決断力」を読んだ。
天才がその内観をありのままに語る本は
とてもおもしろいと思う。

小林秀雄の「モーツァルト」で、モーツァルトが自分の
曲をおもいつくときの内観を書いた手紙のことについて
書いてあって、普通の人ではありえない驚異的な
脳の使い方をしていることがよくわかるんだけれど、

それに匹敵するぐらいおもしろいと思う。

ノーマルな脳が天才の域に達している状態が
いったいどいう状態なのか?というのが
なんとなくわかったきがする。

サヴァン症候群の人で、数桁の数字が素数かどうか
を瞬時に判断できる能力をもっているひとがいて、
サヴァンの人は、内観を言葉で報告できないから、
一体どんな計算をしているのか謎だったんだけれど、
このまえNHKでBBCの「ブレインマン」という番組が放送されていて、
ほんのわずかだけれども、言語が正常でかつサヴァン的な能力をもっている
人がいるらしくて、その人の内観を調べると、
どうも、それぞれの数字に対して特有な感覚質をともなってイメージを
頭のなかに持っていて、そのイメージたちが勝手に相互作用しているうちに
計算がすすんでいて、最後に答えの数字だけ浮かんでくるらしい。

サヴァン症候群の人の驚異的な計算能力は、概念というよりは、
感覚質をともなった実体が、勝手に計算してくれるらしい。

おそらくサヴァンの人の脳の構造と使い方は、ノーマルな人とは違う。

健常者の人が計算するときは、概念をつかわなくてはいけなくて、
そういった概念でする計算は、ワーキングメモリーのキャパシティに
拘束されていて、直列的でたかがしれているんだけれど、
長い間、ある脳の使い方をしつづけると、直感がはたらくようになる。

それは、計算のショートカットともいえるし、膨大なパラメータ空間の
なかから瞬時に本質だけを把握できる能力だともいえる。

直感とは、あることに対して、高いモチベーションをもって、
ずっとインプットしつづけ、ずっと考え、ずっと体系化しようという
志向性をもった脳ならば、必ず現れる、脳の自然な機能なのでは
ないかと思い至る。

そういった脳の使い方を将棋という枠組みのなかで極めた人が羽生さん
なのではないかと思った。

そして、一番グッときたのがここ。

私は、どうなるかわからない混沌とした状況こそ、将棋の持っている面白さ、醍醐味の一つだと思っている。そこには、発見があり、何かを理解することができ、何か得るものがある。ものすごくやりがいがある。それは、私自身がこれまで面白いと感じ続けてきたところであり、これからもその気持ちを大事にしてそういう面白さを発見し続けたい。

混沌のなかから、自然の真理を発見したいと願う科学者の心と
すごいシンクロするところがあって、すごいいい言葉だなぁと思ふ。

月曜日, 1月 02, 2006

年賀状

新年あけましておめでとうございます。

今年は年賀状をかいた。これ。



姪に「犬だよ~」といってみせたら、一言

「ばけもにょ」

といわれた。

「・・・・」

2歳の幼児との間にぼけとつっこみが
成立した瞬間に立ち会えた!
とポジティブに考えよう。

今年の目標は、”卒業”これしかありません。
つぎに就職。というか、同時にやっていかないと。

あと、科学者としての旗をみつけないと。
M2のとき、Flag候補として
「"ゆらぎ”をもつシステムから"創造”する機械へ」
というキャッチフレーズを考えたんだけどれど、
この方向はわるくないかもしれないと思う。

チューリング・マシンから生成マシンへ。

日曜日, 1月 01, 2006

大晦日



姪がきている。急速に賢くなっている。記憶力がよくなった。
お菓子を隠した場所をいつまでも覚えていて、ゆびをさす。
まるで、食べ物を食べるために賢くなっているようだ(笑)。
「お母さんと一緒」をみて、踊るようになった。
録画したDVDの再生を毎日せがんで、俺のPCしか再生できなくて、
俺のことを「おじちゃん」とよんでせがんできて、PCを徴収される。
PCのまえで異常なハイテンションをみせる。
そんなに画面にツバとばさないで~(笑)。

今年もいつのまにかもう大晦日。ずっとバタバタしていて、年の瀬の感じがしない。
あっという間な一年だったと思う。

一年間、ずっと論文をまとめるモードだった。まとめるという作業はつらい。
自分のなかでロジックをつくるというのが大変で、そしてそれを、
業界のロジックにすりあわせるのも大変だと思う。
業界のロジックを知ると、そっちに引きずられるとおもって、
あまり調べないでいた時期が長くて、業界の様子を知った後、
この計算も足らない、あの計算も足らないという状況に直面した。
同時並列で調べなければいけなかったのだと思う。

壊れては再構築し、壊れてしまってはまた再構築する。
ずっとその繰り返し。なぜ安定しない?
でも、きっとその過程性のなかに成長の種があるのだろうと思う。