火曜日, 2月 19, 2008

学問の方法


なんというかブログをまったく書かないでいると


それがふつうになってしまうもので


それではいかんと思いたってブログを再開。





実体論から関係論へ


というスローガンを立てて


脳・組織・ウェブ・人間関係・金融などなどの


複雑ネットワークに属するものを


すべて関係論に視点から再構築してみようと


考えていたら一ヶ月以上過ぎてしまった。





非常に粗い議論だけれど


これらすべてに共通していることは開放系であるということ。


開放系で一番おもしろいと思う性質は、


「部分」は「全体」をコントロールすることはできない


というところで、そのなかで


コントロールできない「全体」からうまく協力を


引き出せた「部分」だけが進化できる。





たとえば


経済のグローバル化とは、要は国々が相互に強く連結して


開放系になってしまったということで、その結果、


お金が世界中を自由に駆けめぐり


外からお金が入ってきてまた出ていくので、


もはや日銀がどんなに頑張ってみても日本国内のお金の流れを


コントロールすることはできないという。


そしてグローバル化した世界では、いかに外国から投資を呼び込み


お金を呼びこめるかが、その国が栄えるかどうかを決める。





ヒトとチンパンジーを隔てる大きな能力の差は共感能力にあるという。


共感の能力の進化も、開放系という文脈で解釈すると面白くて


共感能力というのは、ヒト同士の結びつきをものすごく強めるので


ヒト同士の関係性のネットワークを特別な開放系にする。


そのなかでは、ヒト同士の中でいかに優位な関係性をつくれるか


という能力に対して、進化の選択圧が働いたと思われる。


でもそれは、他人を力づくでコントロールするという能力ではなく、


むしろ本質的にコントロールできない他者といかに協力関係を築けるか


という能力であったはずで、その結果ヒトは最強の協力種となった。





脳に目を向ければ、どんなローカルな領野の計算結果も


脳全体をコントロールすることはできない。


むしろ、自分の活動が、いかに他の領野の活動を誘起できたか?


協調できたか?という側面が、新皮質が正常に


自己組織化するための本質的な拘束条件となる。





そして


今度は逆に脳にだけに存在する拘束条件について考えてみた。


なぜ脳にだけ意識が宿るのか?


それは脳にだけしか存在しない拘束条件があるからで


それは(数ステップのロジックをすっとばして結論を言うと)


sensorimotor couplingがあることだと思った。


sensorimotor couplingが


脳に意識が宿り、時間が生成されるための基点であり錨となる。





それで、ALVA NOEの"ACTION IN PERCEPTION"を読んで、


今はベルクソンの「物質と記憶」(岡部聡夫訳)を読んでいる。


二回目の挑戦だけど、ようやくベルクソンの言いたいことがわかった!


なんていうか100年前に書かれているのに、


個人的にはまったく古くないと思う。


これを読んでいてたら、ようやく、コモンセンス(常識)から


学問をするということの意味がわかったきがした。


小林秀雄も本居宣長もベルクソンも


養老さんも保坂さんも池上さんもボスも


要は、コモンセンスから学問をしているところが共通なのだと思った。


それがどういうことなのかということは説明が長くなるのでまたいつか。