木曜日, 2月 22, 2007

卒展


芸大の卒展を見に行く。


久しぶりの上野。上野公園は平日でも人が多い。





場所は東京都立美術館で、卒展に来るといつも


その展示されている作品の量に圧倒される。





二年前初めてその量を見たときは、並列コンピュータによる表象空間の


全探索というメタファーが湧いてきて、日記



・・ヒトが感じることのできる表象空間の可能性を脳を並列に並べて一斉にサーチしている感じがして壮観だった。



と書いた。





ボスならば、サンゴの産卵とか、hopeful monsterと言うかもしれない。


今年もなにか面白いメタファーが見つからないかなぁと


考えていたけれど思いつかず。





そして、地下の彫刻科の展示でイウラさんの作品をみた。


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他にも阿修羅像をモチーフにした絵が2枚ぐらいあったけれど


イウラさんの阿修羅像に一番、存在感(質感?)を感じた。





一つ一つの手が、思わず自分の手を合わせてみたくなるような


(そうすることを求めているような)なぜか惹きつられて


しまうオーラを発していて、そのような手が6本もあって、


かつ、それらがとっている舞いのポーズがまたよくて


恍惚モードの顔と合わさって、拝みたくなる雰囲気を発していた。





養老さんがなにかで「手は第2の顔である」といっていたのを思い出した。


ボディ・ランゲージにおけるジェスチャーの手は


表情以上に感情を語ることを知る。





彫刻の作品たちを見ていると、普段使っていない脳の回路が


活性化している感じがして空間が活気づくような高揚感が感じられてきて


普段、どれくらい人工的なオブジェクトしか目にしてないか


ということが自覚できて新鮮だった。





イウラさんからいろいろ彫刻の面白い話を聞く。





腐った人を表現した像があって


頭からにょきにょきなにかが生えていて


足からもなにかイモ虫のようなものがにょきっと顔を出している。





最終審査が終わった直後に、「ジョジョの奇妙な冒険」の


2,3,5部を一気読みして、5部の主人公のスタンドは


物に生命を与えることができて、物から突然草木が


にょきにょき生えたりするシーンがすごい!と思っていたのだけれど、


その像を見ていたら、それが突然思い出された。





それをいったら、イウラさん曰く、「ジョジョの奇妙な冒険」のファンは


結構いて、その奇想の数々は芸大生にも影響を与えているらしい。





最近、草木が繁茂するイメージが好きなんだけど、


彫刻で草木を表現しようとすると、草の葉っぱは薄いので大変らしい。





剣道をしている木像があった。


最近、武術研究家の甲野さんの本を読んでいて、昔の武術の達人は、


今では考えられない動きができたらしいのだけれど


ふとそのような達人を木像で表現することは可能なのかと思った。


昔の剣の達人同士が向かい合っているとき、その二人の間の空間には、


実は無数のイメージ上の剣の軌道が行き交っているらしいのだけれど


そのような緊張の空間が表現できたらすごいかも、とかと思った。





木彫(?)の巨大な幼虫がいた。ふと保坂さんの下の言葉を思い出して






保坂和志 小説の誕生より抜粋


「書いてみるしかない」「それがどういうものか、書いたものを読んでみないわからない」というのが小説であって、高さ10センチの大仏の置き物と高さ10メートルの大仏とでは見たときに受けるものが全然違う(この文章では「全然違う」という想像はついても、実際に見たときの気持ちがどういうものかということまではわからない)という、その違いを作り出しているものが、小説でも絵でも音楽でも、すべての表現の根底となる。






幼虫を大きくしたらなにか質的な変化が起こるかもしれない


と思って作ったのだけれど、なにも起きなかった作品に


俺には見えたのだけれど、イウラさんは、これはディテールが


甘いと言っていて、たしかにそう言われて見てると表面が粗くて


もっと幼虫のシワシワを彫り込めば、もっと気持ち悪いものに


なって印象が変わったのかも知れないと思った。





粗くいくか、写実的にディテールまでつくりこむか


というのは表現の在り方として独立にあって


そういえば、高村光太郎の「鯰」は粗いけれどいい味が出ていると思う。





イウラさんに伊藤若冲が描く生き物の生命感は


彫刻で表現することってできるの?と聞いたら


若冲の絵は、たとえば鶏の絵を見ると


実物を徹底的に観察することによってしか得られない


細部の表現と、デザイン・抽象化が


絶妙にバランスしているとのこと。なるほど・・。





あと、人体の彫刻はやり尽くした感があるらしい。


それで、話は飛ぶけれど、最近松岡正剛さんの


形の冒険」と「ゾウの耳はなぜ大きい?」のレビューを読んでから


「形に対する思考」というのがとても面白いということを知って


養老さんの「形を読む」も読みかけていて


養老さんによると、形には


機械的意味、機能的意味、発生的意味、進化的意味


の四つの意味があるという。


NHKのプロフェッショナルでフェラーリをデザインした奥山さんが


機能を実現するデザインはたくさん候補があって


その中で美しいものを選んでくると言っていた。


デザインと美は両立するもので、デザインは機能で美しくなる、


デザインは機能によってどんどん美しくなる!!


と言っていたのがとても印象的だったのだけれど、


生き物を彫刻で表現するときに、


進化的に機能込みで進化してきた形に対して


脳がいい!と反応するならば、


彫刻で機能込みで形というものを考えていくと


どうなるのであろうか、とかと思った。





東京都立美術館の展示を全部見て、


そのあと芸大でユウナちゃんの油絵と


ウエダ君の未完のアニメとハッスーの作品をみた。





ウエダ君と中央棟の廊下でポテトチップを食べながら


セカンド・ライフの中でデザインの活動をしたら


おもしろいのではないかという話をした。





その後、くたくたの状態で研究所にいったら


セキネがいた。セキネとウダウダと話して帰宅した。


木曜日, 2月 15, 2007

空のなかにあるもの


昨日のバレンタインの出来事。


姪が家に来ていた。


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お義姉さんと姪からおチョコ様をもらった。


3歳の姪は、いまなんでも疑問に思うことを質問してくるモードで


お義姉さんはなんて答えたらいいのか考えるのが楽しいらしい。


それでお返しに保坂さんの「季節の記憶」をプレゼントした。





そういえばオンゾウからもおチョコ様をもらった。


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中身が詰まっているように見えて食べてみると中は空洞で、


空洞じゃん!と言ったら


オマケイが、そこにオンゾウの愛がつまってるんだよ


と言ったのを聞いて、ふわっと詩的な世界が広がった。





そして今日は博士最終審査の日。


審査員はホトケだった。


条件付きでパスできた!


とりあえず安堵。


天気がとてもよい一日で


気分もとてもpeacefulな一日で


オマケイ、オンゾウ、ノザワ、イシカワと


「てんてん」でてんぷらを食べた。


水曜日, 2月 14, 2007

twister


明日は博士審査の発表で、


現実逃避で昔mathematicaで作った


Penroseのtwisterを貼ってみる。


竹内薫さんの


ペンローズのねじれた四次元」に


数式が載っている。





脳における<私>とか「自己」の問題について思ったことの覚え書き。





1.


竜巻とか台風の中心にはかならず無風の


領域があって、それを数学的には「不動点」という。


台風を構成する空気は絶えず入れ替わっているのに、台風の中心は存在しつづける。





<私>=「要素がたえず変化している脳というシステムの中でなぜか変わらないもの」


とするならば


<私>とは「脳というネットワークに生じる不動点のようなもの」なのか?





2.


<私>という「不動点」に摂動を与えたときの脳活動の変化を計測することは可能か?



養老孟司 玄侑宗久 「脳と魂」より抜粋


養老:変わると思いますよ。システムっていうのは、逆に言えば、肝心なところ突かれるとガラッと変わる性質を持ってますから。システムの構成要素はしょっちゅう入れ替わるわけですよね。だけど一応それが変わらないように見えるっていうのがシステムの安定性なんですよ。それがガラッと変わっても、システムは本来安定性を持ってますから、別の安定平衡点をとることも出来るんです。






3.


そういえばオートポイエーシス理論が定義している「自己」は脳に適用できるのか?



ウンベルト・マトゥラーナ&フランシスコ・ヴァレラ 『オートポイエーシス』


 第2に、オートポイエーシスが自己言及しているということは、実は、あえていうなら同義反復によってシステムを作動させているということなのである。ということは、産出プロセスのネットワークが構成素を産出し、構成要素が産出するのは産出プロセスのネットワークなのである。つまり自己が自己を生んでいる。まさに自己創出システムなのである。こういう見方は、自己があって組織化が進むシステム理論とは異なっている。オートポイエーシスの自己は作用主体ではなく、システムの作動そのものを自己としているシステムなのだ。






4.


そもそも脳というコネクションで見ればフラットなネットワークに


なぜ「主体」と「客体」という非対称性が生じるのか?


(→「ボスの脳内現象」をもう一度読むか・・)








Penroseの「Road to the reality」を買った。


1000ページある。


輪講しようそうしよう♪