土曜日, 3月 31, 2007

受胎告知とお花見


お花見をしに上野公園へ。





時間があったのでまずダ・ヴィンチの「受胎告知」を見る。


混んでいたけれど、二列目の壁ぎわに生じたよどみにまぎれて


30分ぐらい居座ってずっと眺める。





初めて見たとき、まず素朴に「おおおー」と思う。


なにが「おおおー」なんだと考え始めると


まず天使カブリエルの服のシワシワの質感がすごいことに気づく。


真ん中に置いてある置物の装飾の質感もすごいことに気づく。





カップルで来ている人々は必ず二人で感想を言い合う傾向があって


「○○がすごいねー」と言って去っていく。


「天使の肌がきれー」とか、「服がすごいねー」という感想が多かった気がする。





耳を澄ましていると


「マリア様の表情って悲しんでいるのかなー、喜んでいるのかなー、


どちらかというと喜んでいるよね」


と言っているのを聞いてはじめて表情をまじまじと見る。


悲しいとか嬉しいとかではなくて、運命を受けいれた顔のように見えた。


(と同じことが後で美術館の外のテレビの解説を見たら言われていた)





さらに耳を澄ましていると、


「光がすごいねー」という感想が聞こえてきて


そこで初めて空間全体に存在している光の明暗の質感に気づく。





なにか新しい視点に気づくたびに、絵全体を見直して、


そのたびにいろいろな気づきがあって


見方がガラガラっと変わる感覚が面白いと思った。





天使の服のシワシワを見ながら、現実よりもリアルに見えるこの感じは


なんなのだろう?と考えていたら、ふと、


保坂さんの「書きあぐねている人のための小説入門」の以下の記述を思い出した。






保坂和志 「書きあぐねている人のための小説入門」より抜粋


 哲学は、社会的価値観や日常的思考様式を包括している。小説(広く「芸術」と言うべきだろうが、いまはあえて「小説」とします)も、社会や日常に対して哲学と同じ位置にあり、科学も同じ位置にある。つまり、哲学、科学、小説の3つによって包含されているのが社会・日常であって、その逆はない。


 だから小説は日常的思考様式そのままで書かれるものではないし、読まれるべきものでもない。日常が小説のいい悪いを決めるのではなく、小説が光源となって日常を照らし、ふだん使われている美意識や論理のあり方をつくり出していく。






芸術の役割とは、作品が光源となって日常を照らして


普段まったく気づいていなかったことに気づかせてくれることで


本当はありとあらゆるものはダ・ヴィンチの視覚を借りれば


天使の服のシワシワと同じぐらい活き活きとしたリアルな質感に満ちていて、


そのことをダ・ヴィンチの絵は教えてくれる・・・・





と思ったら外に出たときの桜の見え方が変わった気がした!


光の加減とか、その質感に注意が向くようになった。


(ウエダ君によるとそういう見方を学ぶことが、デッサンの目的らしい。。)





その後、ダ・ヴィンチの生涯の活動の展示を見る。


力学とは?遠近感とは?光とは?人体とは?調和とは?均衡とは?感情とは?・・


とダ・ヴィンチがもった様々な問題意識を分解して展示していて


おもしろかった!





養老さんが「考える」とは、


対象を「バラバラにしてつなげる」ことだと言っていて


ダ・ヴィンチはありとあらゆるものをバラバラにしたのだと思った。


光とはなにか?輪郭とはなにか?筋肉とはなにか?・・


「自然」と「人間」を徹底的にバラバラにして、


それぞれを科学者の思考によって突き詰めて


絵のなかで、それらを統合した。





そして養老さんによるとなぜかいったんバラバラにするというプロセスを経由して


統合したほうが、はじめから作品をつくるよりも、力強くなるらしい。






スマナサーラ 養老孟司 「希望のしくみ」より抜粋


 一つひとつの過程を「素の過程」と言います。素の過程は、数はたいしてないんです。だからきちんと分けて、それから合成してやることです。すると最初から混ぜるより、はるかに力が強くなります。なぜだが知らないけど、有効になるんです。たぶんそれは、訓練のいちばん基本だと思う。斜めにやるほうばっかり訓練しても、たかが知れているんですよ。まず、きちんと分けることが大切なんです。なにしろもともと斜めにできていないんだから。






ダ・ヴィンチの受胎告知をいつまでも見ていたいと思う気持ちの背後には


要素を徹底的に突き詰めたあとで統合することによってしか生まれない


圧倒的な多様性とか豊かさがあるのだと思った。





保坂さんの「書きあぐねている人のための小説入門」によると


保坂さんも、さまざまなことをバラバラにして、それらを突き詰めて


小説のなかでそれらを統合しているらしくて


これも「バラバラにしてつなげる」ってことなのではないか!?と思ふ。






保坂和志 「書きあぐねている人のための小説入門」より抜粋


 小説のインデックスに「テーマ」という欄があったとして、そこに何かもっともらしいキーワードを書き込むことはしなくても、日頃考えていること(たとえば「世界とは何か?」「生命とは何か?」ということ)は山ほどあるわけで、それらが全部、小説のなかに入ってくるというか、書きながらそれらの中からいろいろなものを選んでいけるので、選択肢を一挙に広げることができる。












その後、花見へ。


ウエダ君が朝の十時から場所取りをしていてくれたらしい。


とにかくすごい人の数で、桜並木の通りは、いつも渋滞していた。


でも桜が満開できれいなので、5,6回その通りを歩く。


時折、強い風が吹いて、大量の花びらが空から雪みたいに舞いながら降ってきて


その幻想的な眺めをずっと見ていたい、と思った。


日曜日, 3月 25, 2007

エンタメをサイエンスする


まとめて日記。





17日(土)&18日(日)


研究室旅行で湯河原へ。


おもしろい旅だった。


この面白さはなんなのかと考えてみると


なかなか言葉にするのは難しいのだけれど


三石海岸にいき江ノ島にもいき


場所がとてもよかったということもあるけれど、


それ以上にみんなとする会話がおもしろかった。


人々によって生み出される「場」が良いと思った。





ボスにウェブと脳科学をつなげる道筋を考えてみたらと


言われて、まじめに考え始める。











19(月)


機械学会のシンポジウムが東工大であって、


日立の小泉さんとボスの講演を聴きにいった。





ウェブと脳科学をつなげるには


ボスのいう「抽象的な報酬構造」というキーワードが


鍵な気がする。





そもそも


エンターテイメント業界において


クリエイターと呼ばれている人々は


ずっと「抽象的な報酬構造」を生み出す要素に


ついて考えてきたわけで


個々のクリエイターの脳内で、


恣意的かつ経験的に見いだされる要素たちと、


その要素たちが織りなす複雑なパターンが


「抽象的な報酬構造」であり、


エンターテイメントの面白さを生み出す。





また


エンターテイメントの生成プロセスには、


過去と未来の間には圧倒的な非対称性が内在していて


すでにできあがったものについては


いくらでも分析して、これが面白さの原因だと、


もっともらしい理由がつけられるけれど、


次になにがヒットするかはわからない。未来はいつも霧がかかっている。


要はつくってみないと面白いかどうかはわからなくて、


科学的に普遍的な法則があって、それによって


かならず未来を予測することができる、


というような性質のものではない。





でも


クリエイターの業界に8割バッターがいるということは


そのような人たちはより普遍的な報酬構造の要素を


見つけているかもしれないことを意味していて


つまり近似的であってもより多くの人の心の琴線を揺さぶる


ことができる強力な面白さの要素というものが存在している可能性があって


結局、それを見つけることができた人がクリエイターと呼ばれ


それが、個々のクリエイターの作品のアイデンティティとか個性というものを


構成する。





もし


それらを脳科学の文脈のなかで取りだせたとしたら


それは科学的にエンターテイメントを扱えたことになるのか?





ジェフリー・ミラーの「恋人選びの心」にこんな記述があった。



 もしも私のような進化心理学者が、正確にどんな刺激パターンが人間の脳を最適に刺激するのかを予測できるならば、すぐにでもハリウッドに移住して、娯楽産業コンサルタントとして高い給料をもらうことができるに違いない。しかし、私たち進化心理学者も、普通の映画プロデューサー以上にうまく予測することはできない。なぜなら、祖先の時代に普通にあった出来事に対して、普通の人がどのように反応するかについて一般的な知識はあったとしても、ある新しい刺激に対して人間の脳が正確にどのように反応するかを予測することはできないからだ。現代の人間の文化は、このすべての可能な刺激空間を探索し、私たちの脳を快楽的にくすぐらせる方法を発見しようとしている、巨大な共同作業といってよいだろう。






エンタメをサイエンスするというのは、一見なんだか問いが


間違っているように見えるのだけれど


発想をひっくり返せば、逆にブレイクスルーすべき壁はまさにここにある!


と言えるのではないか??という気もする!











23日(金)


ゼミ。3月で卒業するオンゾウとオオクボの最終講義を聴く。


あまり実感が湧かないのだけれども二人は卒業していく。


寂しいことではあるけれど、


道を定めた二人の晴れ晴れとした姿をみると


悦ばしいことでもあるのだなぁと思った。











24日(土)


西口敏宏さんの「遠距離交際と近所づきあいー成功する組織ネットワーク戦略」


を読み始める。これはおもしろい本だ!!


金曜日, 3月 16, 2007

日常をバラバラにする


ガルシア=マルケスの「百年の孤独」を読み終わる。


一族のなかで自分の妄想に夢中になる人々が必ずいて、


それにあきれている周りの人がいて、


親からみると俺はこれに近いのではないかと思うと


なんだか憂鬱になったが、読み終わるとなんだか深い感慨につつまれた。


記憶の強度が絶えず要求される小説で、


登場人物がつぎつぎに生まれては死んでうつろっていく。


高3のとき世界史をとっていて


なんでドラゴンボールの歴史はすべてありありと思い出せるのに


世界史は記憶できないのだろうと疑問におもっていたのだけれど、


「百年の孤独」はいつも親や祖父の名前が子どもに受け継がれていって


こいつはだれだ!?と忘れかけた登場人物を思いだそうとするたびに


その人の物語が思い出されて、その過去の歴史を絶えず


頭のなかで確かめていく状態が高3のときドラゴンボールの


歴史をすべて思い出せた感触に似ていた。





そんな気分で朝を迎えるとボスから電話がきて


「おまえ、就職活動してる?」


「してないです」


「はてなとかどう?」


と聞かれて、あー、それもありかなと思う。





そう思った理由は、きっと火・水と早稲田の生物物理のシンポジウムに出て


生物物理の人々が全然生命の複雑さと向き合ってないという感覚をもって


結局、いまもっとも生命の複雑さとまともに向き合ってるのは


アートとウェブなのではないかと思ったからかもしれない。





ボスに自由というのは理想のように見えるけれど実は生産的でなく、


逆説的に見えるけれど自ら拘束を見つけることが実は重要なことなのだと


いわれて、(ようは就活しろということなのだけれど)


「百年の孤独」を読んで憂鬱になって、確かにそうかもと思ふ。





最終審査が終わってからの一ヶ月間、


なんの拘束もなくひたすら読みたい本を読んだ。





保坂和志 小島信夫 小説修行


(途)カフカ 審判


日高敏隆 帰ってきたファーブル


小川洋子 物語の役割


竹田青嗣 ニーチェ入門


保坂和志 カンバゼーションピース


(途)河合隼雄 対話集 こころの声を聴く


(途)保坂和志 この人の閾


保坂和志 <私>という演算


保坂和志 小説の自由


ガルシア=マルケス 百年の孤独





一年前に保坂さんの「小説の自由」を拾い読みしたのだけれど


カフカの「城」を読んでからもう一度じっくりよんだら


かつてない高揚感を得た!!


保坂さんの「小説の自由」のここがグッときた。






 そんなことではなくて、小説を書いていればそのあいだだけ開かれることがあるから書くのだ。「開かれる」「見える」「感じられる」……人によって言葉はそれぞれだろうが、小説を書いているときにだけ開かれるものがある。


 私が「ペリー・スミスがペリー・スミスとして生きる」と感じるとき、私は自分が小説を書いているときに開かれるものをイメージしている。こういう風に小説について小説でない文章を書いているときもそれが全然開かれないわけではないけれど、小説を書いているときの方がずっと開かれる。


 私は小説という表現形式を使って、その何かが開かれる感じを経験することに馴れすぎてしまっているのだけれど、小説から離れて、空を見ているときとか猫といるときとか夜布団に入って暗い空間を見ているときとか、いろいろなときに、それの弱いものは頭をよぎっていく。小説から離れているときのそれがまったくなかったら小説を書くことはできないだろう。


・・・・


 小説、音楽、絵画、彫刻、写真、芝居、映画‥‥‥これらすべての表現形態は、手段として、文字とか音とか色とか線とか具体的なものしか使えないのだけれど、それを作る側にも受けとめる側にも具体性をこえたものが開かれ、それが開かれなければ何も生まれない。


 その抽象性だけを強調してしまうと、安易な宗教性に陥ってしまうだろうし、作る側は作品にただ〝念をこめる″わけでは全然なくて、具体的な作業をつづけてひたすら具体的な物を作るわけだけれど、その具体物によって具体性をこえたものを開こうとしている。そこはやっばりどうしても言葉では伝わらないのだ。






この「開かれる」感覚が、竹田青嗣さんの「ニーチェ入門」の


「生命感情」と響き合って、あー、そうなのかと思う。






 ニーチェが言わんとするのはこういうことだ。一切の価値の源泉は「カヘの意志」だが、人間においてそれはとくに、「性欲、陶酔、残酷」という三つの言葉に象徴される。生はつねにこの言葉に象徴されるような「生命感情」をもとめる。それらは人間の生の起源であり、源泉であり、根拠なのであると。おそらくここに、「人間は何のために生きるのか」という問いに対するニーチェの最も深い答えが隠されている。


 たとえば、芸術や恋愛や性欲などにおける「陶酔や恍惚」は、それらがひとつの本質として繋がっていることを象徴的に教えるものだ。つまりニーチェは、「肉体」、「性の力」、「陶酔」、「恋愛」、「恍惚」、「支配欲」といった諸感情の中心を貫いているのは、「力への意志」という強靭な本質にほかならないと言っているのである。


 人間はたしかに、これらの諸感情の中で最も強い「生命感情」、生の充実感と生の肯定感を抱くような存在だといえるだろう。そしてニーチェは、生の「価値」の根本的な根拠はまさしくここにあって他のどんな場所にも存在しないと言うのだ。なぜなら、もともと「価値」とは「力ヘの意志」が世界に投げ与えたものであって、世界の隠された場所から人間に投げ与えられたものではないからである。






なんだか飛躍するけれど


結局、重ね合わせが重要なのだと思う。


保坂さんに最近やたらはまっているのは


脳科学・認知科学と芸術が高い次元で


融合していると感じるからだ。


それらを重ね合わせるための直感的かつ緻密な「思考のプロセス」そのものに


すごくリアリティと魅力を感じる。





保坂和志 「<私>という演算」より抜粋



いまや文学は人間の認識に働きかけたり人間の認識を描き出したり解析したりするものの一つでしかない。ぼくはそういう立場で小説を書きはじめたのだった。






養老さんとスマナサーラさんの対談本、「希望のしくみ」のなかで


養老さんが「思考」するとは対象を「バラバラ」にして「つなげる」ことだと


書いてあっていたく感動した。これも以下抜粋。






養老 甲野さんと昔から付き合っているのは、甲野さんの言っているからだの動かし方の話と、僕がものを考えるときとがまったく同じだからです。ものを考えるとき、皆さんはバラバラなものをつなぐと思っていないんです。だから僕が話をすると、昔はよく「先生、つながってません」と言われた(笑)。やっぱり、下がるのと、回るのを別にやってるからね。だけど、別々なのが本当なんですよ。


 一つひとつの過程を「素の過程」と言います。素の過程は、数はたいしてないんです。だからきちんと分けて、それから合成してやることです。すると最初から混ぜるより、はるかに力が強くなります。なぜだが知らないけど、有効になるんです。たぶんそれは、訓練のいちばん基本だと思う。斜めにやるほうばっかり訓練しても、たかが知れているんですよ。まず、きちんと分けることが大切なんです。なにしろもともと斜めにできていないんだから。


スマナサーラ いまおっしゃったようなことは、たくさんありますね。まず緻密に分解するんです。バラバラにする。すべて、からだの感覚、思考まで、分解することが大切です。


養老 そのすべてが合理的に役に立つとは限らないんだけど、たぶん、われわれは自分自身をもっとバラバラにしなきゃいけないんです。だけどいまの社会は、ある意味でそれをバラバラにしないように、しないようにしている。


ーわれわれは、オートマティックになっているんですね。


養老 そうそう。それを僕は「丸める」って言ったんですよ。


スマナサーラ 「丸める」は、オートマティックということなんですね。それは誰でもやろうとしていることで、そこからほぐしていけばいいんです。だから、このヴィパッサナー瞑想で第一に何を悟るかというと、分解能力なんです。これがいちばん最初の段階で、まだ上に7つぐらいあります。


ー丸めるから「ああすれば、こうなる」になるんであって、バラバラに分解すると、その場その場で精いっぱいになる気がしますね。


 それが、生き生きと生きている、ということなんですか?


養老 バラバラにしたものを組んでいくことがね。あるとき、それができるようになっちゃうんだ。






思うに


いま一番おもしろい問題は「人間」や「日常」を「バラバラ」にして「つなげる」ことなのではないか?


そして、そのための脳科学のあり方が問われている(と勝手に思う)。


「日常」は平凡であるが、その平凡を支えている脳内過程は謎に満ちている。





保坂和志 「世界を肯定する哲学」より抜粋。



文学などでは、苦痛や危機や喜びといった特別な場面を材料に使って、「生きている」ことの自覚を促すけれど、それは「生きている」ことのいわば輪郭であって、その内側ではほとんど絶対的に漫然と生きている。






さいごに


保坂さんと小島信夫さんの往復書簡、「小説修行」にぐぐっとくる部分があった。






 私はそういう風にして「人間」とか「私」というものを、統合されたものではなく解体して考えることにしました。私のこの人間観をヒューマニズムにものすごく反する人間観と解釈する人がいっぱいいるだろうと思いますが、私は「人間」を肯定するためにこういう人間像を考えたのです。


 「私」とはこの世界に一定期間間借りしている現象なのです。私は何もしなくてもただ生きているだけで、この世界に流れた時間を集積していることになるのです。生物の歴史によって淘汰されたり洗練されたりした機能が人間の中で活動し、人間の歴史によって築かれた文化や技術や思考や感受性の集積が活動しているのが、まさに「私」なのです。






脳科学となにを掛け合わせるか?


それが問題だ。


火曜日, 3月 06, 2007

不在の知覚


五反田駅から研究所に歩いていく途中、


ふっと左手を見ると、サラ地があった。


ここに何かが建っていた感覚はあって


あるべきところに、あるべきものがない感じは


はっきりするのだけれど、あるべきものがなんだったのかは


まったく思い出せない経験をして、おもしろい!と思う。





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別の角度から。











それで、ふと「ウェブ進化論」に


グーグル・アースで家を調べて、数ヶ月前まではプールに色つきのシートが


かかっていたはずなんだけど、写真にはそれが写ってなかったことから


グーグル・アースの写真は数ヶ月ごとに最新の衛生写真に更新している


らしいことがわかったという話が書いてあったのを思い出して、


グーグル・アースで調べてみると、「あるべきもの」が映ってた!!





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一軒家だった(画面中央、ビルの隣り)。





これはおもしろいと思い、


オマケイ、セキネ、ヘライ、タナベにサラ地の写真を見せたけれど


だれも、そこに何があったのか思い出せなくて


そもそも、なくなっていたことに気づいていなくて


これは天然のchange blindnessかも!と思う。





change blindnessはいま認知科学業界でホットな話題で


間違い探しみたいに一部分だけ変化している二枚の写真


を交互に見せて、でもそのとき写真と写真の間に1秒間ぐらい黒い画面を挟むと


たとえ写真の中心部分が大きく変化していてもなかなか気がつかない、


という現象で





従来の仮説だと脳内には、外部世界を完全にコピーした表象が


保持されているのではないかと考えられていたけれど、


change blindnessの結果から、脳は外部世界の完全なコピーなど


保持しておらず、意識が注意を向けたときに部分部分の情報を


動的にup-dateするような、計算量とかメモリーを節約する戦略を


とっているのではないかと考えられはじめている、らしい。





change blindnessは、変化に気づくことがそもそも難しいわけだが、


今日のサラ地は、変化には気づいたが、その内容は思い出せないという点で


change blindnessとはちょっと違う気もする。





どちらかというと、旅行先で団体行動をしていて、


だれかがいない気がするのだけれど、だれがいないのか分からない・・


という感覚に似ている気がする。





高層ビルの写真を数秒間みせて何階建てかを当てるタスクをさせると


サヴァン症候群の人がもつような写真記憶がないと正解できない。


という意味で、普段我々は日常のなかで、風景の細かいディテールなど記憶していない。





毎日同じ道を歩いていると、脳がだんだん風景に注意を向けなくなるということは


脳が「この風景は知っている」と了解するポイントが存在することを意味していて、


その了解ポイントを支えているのは、どうも全体的なパターンの記憶のようで


しかし、脳は意識的にはその「全体的なパターン」の内容を


把握してはいないのではないか?


ただ、なにかが「ない」ときに、その変化を「全体的なパターン」をつかって


無意識的・直感的に検出することができる。





もしかしたら、ヒトの脳にとって、進化的には、


風景はディテールを把握するよりも、変化したものに注意を向けるほうが重要で、


だから全体的なパターンを把握するほうが都合がよかったのかもしれない。





とすると、他の動物はどうなんだろう?


ヒトの視覚記憶システムを例えばチンパンジーに当てはめることは可能なのか?


ジャングルを歩くチンパンジーは、ジャングルの風景を


サヴァン症候群の人のような写真記憶的に把握している可能性はないのか?


ヒトのように全体的なパターンで把握しているのか?


そもそもチンパンジーにchange blindnessは起こるのか?


etc...





と収拾がつかなくなったところでおしまい。。