金曜日, 12月 31, 2004

大晦日



 朝から雪がしんしんと降っていて夕方頃やんだ。田舎のおばあちゃんと兄夫婦が家にきている。姪は食いっぷりが実にいい。お腹はいつもポンポコリンである。

 今年もはや大晦日。今年をふりかえるとするか。今年を一言でいうならば修行の年であったと思う。セーフベースが吹っ飛んで、どうしたらいいかわからずもがきにもがいた年でもあった。はっきり分かっていたことは前進しなくては道はひらけないということだけで、でも前進など意識してできるものではなくて、苦しい年だった。オール電子化計画とか、思いついたアイディアはすぐ人と議論するとか、論文をひたすら読むとか、本をたくさん読むとか、ワラをも掴むような気持ちでいろいろやっているうちにひとつだけなんとなく頭の中に立ち上がったものがあって、それは、脳の内部の活動にたいするリアリティであったと思う。五感からの入力自体、またはそれに近い脳の活動ではなくて、もう少し脳の内部でおこなわれる活動。数学者になる人は数学的世界にリアリティを感じるらしく、哲学者になる人はきっと哲学的な世界にリアリティを感じるのだと思うけれど、自分のリアリティもそれに類似したものなのかもしれない。この感覚は大事にしていきたいと思う。

水曜日, 12月 29, 2004

detachment from reality

 ここ1ヶ月ぐらい猛烈な現実逃避中である。それも興味の対象がコロコロと変わる。「新ネットワーク思考」を読んで創造性についてすごく考えた。メタファー・ネットワークで創造性を捉えられぬものか?つぎに「恋人選びの心」を読んで笑いについて考えた。言葉の意味についていろいろと考える。そしてここ1週間ぐらい養老さんの「人間科学」と「考えるヒト」を読んで、現象学や<私>の問題について考えていた。脳が扱っている情報を捉えなおしたいと思ふ。次に読もうと思っているのはベルクソンの「物質と記憶」であるが、いい加減、本腰をいれて研究にとりくまないとまずいなぁと思ふ今日この頃。

金曜日, 12月 24, 2004

二郎ラーメン



新宿の二郎へ行った。
普通のラーメンをたべる。
野菜がキャベツじゃなくてもやしだった。
本店よりも量がすくないきがする。

水曜日, 12月 22, 2004

なかもと


蒙古たんめん

セキネ、サヅカさんと新宿のなかもとへいった。
「蒙古たんめん」を食べた。
赤い麻婆豆腐がラーメンの上にのっている。
麺は太くてこしがあった。
セキネに辛いですよ~と脅されていたわりには辛くなかった。
次回は一番辛い「北極」に挑戦しよう。

Movie No.4

 恒例の研究室のクリスマスパーティがあった。なにか作品を披露することがノルマで今年も動画をつくった。研究を中断して作っていたら丸3日間もかかった!アイディアは一瞬で思いついたのだが、そのイメージに近づけようといろいろとクオリティを上げようとしていたらだらだらと時間がかかった。
 12月の昼間の空には雲がなかった。欲しかったのは夏のもくもくした雲の映像だったのだが、雲一つない晴天が続いた。しょうがないのでネット上に落ちている素材をつかった。落ちている動画がプレミアで読み込めなくてそれを読もうといろいろとやっている作業が一番時間がかかった。

 本当はヴィジュアル・ドラッグっぽいものを作りたかったのだけれど、時間がかかるわりにはきっとありきたりのCGにしかならない気がしたので断念。なので今年のオマケイの作品を見て、こんな手があったのか!と衝撃をうけた。
 
 今年の作品は去年の作品の延長線上にある。去年の動画から自分なりに抽出した原理としては、幸せな顔はそれ自体に価値があるということだと思う。これは、去年、森美術館で、Mette TronvollというアーティストのIsortoq Unartoq(ドイツ語か?)という作品をみて、それは温泉のようなところにつかっている人をひたすら長撮りをしている映像なのだけれど、
http://www.schaden.com/book/TroMetIso00051.html
とても印象に残っていて、それは結局、温泉につかっていてリラックスしているときの表情がとてもよかったということだけなのだけれど、それは何度もみたいと思わせる動画をつくるための1つの要素で、Isortoq Unartoqの作品の中に出てくる女の子の表情が、去年自分がつくった動画のジロー、セキネ、オンゾーが海に潜るときの表情と同じだなーということに気がついたときに、そうか幸せそうな顔には人を惹きつける力があるのかと思った。

 それと、金沢21世紀美術館に展示されているジェームス・タレルのブルー・プラネット・スカイという作品をテレビでみたときに、四角く切り抜かれた天井からみた空の雲の動きがなんかとてもよいと思った。
http://www.mapion.co.jp/area/hokuriku/museum.html

 そういう伏線のもとで思いついたのが、研究室のメンバーが研究所の中でなぜか幸せそうな顔をして立っていて、その人たちは窓を持っていて、その窓の向こうには空と雲が流れているという映像だった。実際につくってみると、そういう顔をしてくれといってもなかなかできるものではないことを知る。

 あとタイトルの問題。タイトルをつけると、作品の印象が全然かわってしまう。なにも先入観をもたないで、ただ不思議な雰囲気を感じるということがどうも俺の得たイメージに一番近くて、タイトルをつけるとそれがなくなってしまうことに気がついた。なのでタイトルはつけなかった。

 クリスマスパーティは、一夜漬けでつくったセキネが優勝した。お笑い系の作品でとにかくおもしろかった。くやしいなり。ここ3年、優勝したのはすべて笑いをとった作品ですな。アートにはいろいろなベクトルがあって一次元の尺度では評価などできないはずなのだけれど、笑いというベクトルはだれの心にも訴求力があって強力なベクトルなのだなーと思ふ。

土曜日, 12月 18, 2004

humour

 最近、「笑い」の研究を密かに始める(笑)。
 脳科学、創造性の問題、言語学、メタ認知の視点から、笑いの「構造」をとらえることができるのではないかと考えはじめた。
 
 有名なジョークがある。[脳と心の地形図 リタ・カーター(著) から抜粋]

 一頭のカンガルーがバーに入ってきてスツールに腰かけ、ビールを注文した。バーテンダーはびっくりしながらも、ビールを出してやった。「いくらだい?」とカンガルーがたずねる。気を取りなおしたバーテンダーは、カンガルーがどれくらい賢いか試してやろうと、法外なお金を請求した。カンガルーはおとなしく支払う。やっぱり人間さまのほうが一枚上手だと安心したバーテンダーは、つい口をすべらせてしまった。「このお店にカンガルーはめったに来ないから・・。」

 このジョークの落ちは次の3つのうちどれだろう。
(a)カンガルーは銃を出してバーテンダーを撃ち殺した。
(b)隣の椅子に座っていた男が、自分は腹話術師でカンガルーがビールを飲むように仕込んだのだとうち明けた。
(c)「そりゃそうだ。ビールがこの値段じゃね」とカンガルーは言った。
 
 答えは当然(c)である。でも右脳に障害を持つ人は、当たり前ずぎておもしろくも何ともない(b)を選び、そして、左脳に障害がある人は、脈絡のない結末である(a)を選択するという。

 (a)(b)(c)はどれも文は理解できる。でもこの文の中で笑いを生むのは(c)だけであるという事実がとても不思議だ!もしこれが選択肢が提示されなかったらはたして(c)のような落ちを思いつくことはできるのだろうか?そこにありとあらゆる問題がひそんでいる気がする。(a)のような答えは精神がとっても逝ってしまっているなーという感じがするのだけれども、(b)のような答えしか思いつかない人は結構いるのではなかろうか。これは、女の子と一緒に花火を見に行ったときに、なにか話さなくはと焦って思わず「あの赤い色はリチウムなんだよ・・・」と説明を始めてしまう思考回路ととても似ている気がする。

火曜日, 12月 07, 2004

ニワシドリ

 ジェフリー・ミラーという人が書いた「恋人選びの心 性淘汰と人間性の進化」を電車の中で読んでいた。進化心理学のマジメな本である。ニワシドリという鳥の雄は求愛のときに巣を作るらしい。

http://www.nhk.or.jp/daishizen/fbangumi/azumaya.html

 電車の中で下のニワシドリの文章に出会ってラッシュであるのにかかわらず吹き出してしまった。ぷぷぷっと笑いがこみ上げてきて止まらなくなって、それ以上読み進められなくなって読むのを断念。以下、ジェフリー・ミラー「恋人選びの心 性淘汰と人間性の進化」から抜粋。

 ニワシドリは、動物が作る中では人間の美術にもっとも近いものを作り上げる。彼らの美術は、雌の選り好みによって進化した性淘汰の産物である。雄は、繁殖の上では遺伝子しか貢献せず、彼らの美術は、求愛以外では生存上も子育て上も何の貢献もしていない。あずまやの大きさ、左右対称の形、鮮やかな色彩は、雌の感覚のバイアスを反映しているのかもしれない。しかし、あずまやは作るのにコストがかかるので、それは、よい適応度指標でもある。巨大なあずまやを建設し、飾りを集め、色があせたら交換し、ライバルによる盗みや荒らしから防衛し、歌ったり踊ったりして雌をそこまで連れて来るには、時間もエネルギーも技術も必要である。繁殖期の間、雄は毎日、一日中、自分のあずまやの整備にかかりっきりである。

 もしも「美術フォーラム」誌のためにアオアズマヤドリ(ニワシドリ)の雄にインタビューすることができたらなら、彼らはこう答えるに違いない。「色彩とフォルム、それ自体のために色彩とフォルムを操りたい。それで自己表現をしたいというどうしょうもない衝動を、とても言葉で説明することはできません。色彩の豊かさで飽和した視野を、堂々とした、しかもミニマリストの舞台設定の中に閉じこめたいという荒れ狂う渇望を、最初に感じ始めたのがいつだったかは覚えていませんが、この情熱に身をゆだねているとき、私は何か自分が、自分を超越したものと結びついているように感じます。木のてっぺんに美しいランが咲いているのを見ると、どうしてもそれを自分のものにしなければならないと感じるのです。自分の作品の中で1つの貝殻の置き所が悪いとき、それを直さずにはいられないのです。フウチョウは美しい羽を生やしているかもしれませんが、そこには何も審美的な心の働きは感じられません。そこにあるのは肉体の野卑な本能だけです・・・・

 ニワシドリってすごい!(というかこの本の著者は天才だ!(笑))と思って帰ってから昔、録画したアッテンボローの鳥シリーズを見直したらチャイロニワシドリが紹介されているのを発見した。チャイロニワシドリの巣は生存上の役に立たないし、子育てをそこでするわけでもない。そこは自分の芸術のセンスを雌に見せるためのギャラリーで、ある個体は赤い花を積み上げたり、玉虫色の虫の羽を積み上げて展示していた。別の個体は、黄色い花を集めて積み上げたり、木の実をきれいに散らばせていた。

月曜日, 12月 06, 2004

いろいろ

 NHKスペシャルのローマ帝国をみた。3週すべてみた。ローマ人は偉大な文化をつくったことを知る。見ているとローマの都市の生活レベルは今とほとんど遜色ない気がした。上水道と下水道が完備し、お風呂があり、コロシアムがあり、酒場があり。さらにパンが支給されコロシアムもただで見られる。脳の視点からみれば様々な欲を満足させるサービスの質は現代とほとんど変わらない気がした。二千年前に人類の文明のピークがあったという事実がとても新鮮に思えた。でもなんでローマ帝国は滅んでしまったのだろう?なんでローマ時代の次にルネッサンスはこなかったのだろう?塩野さんの「ローマ人の物語」が急に読みたくなった。

 新日曜美術館をみたら金沢21世紀美術館にとてもいきたくなった。Sarah Szeという現代アーティストの作品が生物をイメージさせる均衡の上に成り立つ複雑な構造物をしていてとてもよかった。作品の名前がまた格好いい。"The Art of Losing (喪失の美学)”。Cool!!
http://www.kanazawa21.jp/opening_exhibition/

ヴォルフガング・ティルマンスという写真家がいっている言葉もよかった。以下テレビから抜粋。

ある林の中からみた夕焼け
空を見たらコンコルドが飛んでいた
ふざけあっている友達
私たちの日常は一瞬にしてすぎさり
再び思い出すことのないささいな出来事の積み重ねです
しかし、そうした些細な出来事こそ人生の本質につながっているのではないか
ヴォルフガング・ティルマンスはそう問いかけます

自分の人生のどの部分が本当にかけがえのないものなのか
だれにも分かりません
私たちが日常とよぶ日々の暮らしこそ
実はもっとも大事なものなのかもしれません
それは私たちにとってたった1つの特別なものでありながら
記憶に残らないものなのです
どの瞬間が本当に価値があるものなのか
前もって知っておくことはできません
だからこそ人生のどの一瞬も
味わいつくそうとしているのです

金曜日, 12月 03, 2004

メモ帳の中のジャングル

 最近、メモ帳が破綻している。

 階層型のカテゴリーをつくって情報を保存しているのだけれども、頭の中はどちらかというと小世界ネットワークで、概念群がリンクによって結ばれている。なので、頭の中でメモ帳の階層を飛び越えていろいろな考えがリンクでつながったときに、実際のメモ帳で新しい階層をつくらなくてはならず、カテゴリーがどんどん増えていて、どんどん無秩序になっていく。ジャングル化してしまって、全体を見渡すことができなくなった。

 ある問題意識をもったときに、そのキーワードをいれると、動的にそれに関係する情報の集合をつくる方法がほしい。これはグーグルの検索にちかいけれどもちょっと違う気がする。一時的な集合なのではなくて、脳の創造性を真似て、その情報集合が可塑性をもち時間的にずっと動的再構成をつづけるようなものがほしい。「ネットワーク志向型情報生成法」でも考えようかな。

 そういえば昨日米長さんのNHK人間講座をみた。いいことをいっていた。

 わかるということは、宗教にしても、職人芸にしても、自分でやってみて会得するということが大事であって、それこそが骨の髄で得たもの、本当に会得したものであると言えます。現代においては多くの場合、ほとんどの情報が外部から入ってきている。デジタル機器をはじめ、紙媒体もそうですけれども、目とか耳をとおして多くの情報が外から入ってきて、脳を発達させるとか、活性化させるとか、あるいは意識改革を促すとか言われていますが、実は外から入ってきた他人の知恵を借りて、いかにも賢くなったような錯覚に陥っているだけのことです。(米長邦雄 「大局を観る」 テキストより抜粋)
 
 情報のきりはりばかりしてないで、生の体験をしないとなぁとよく思う。でも、これだけ頭の活性化を促すということは、いまやっている情報整理法はなにか脳の思考と大きく相互作用をする要因をもっていて、だからそれをもっと促進する方法を追求していけば何かおもしろいものが出てくるんじゃないかなーとなんとなく思う。

木曜日, 12月 02, 2004

ばぐ

ここ2日間、ブログのホームページが表示されなかった。
どうもブログのタイトルを日本語名にしてしまったのが原因だったようで、
「i-mind」に戻したら表示されるようになった。
それをまた「デカルトーる」に戻したら表示されるけれど、新しく投稿するとまた表示されなくなる。
どうしたものか。

アイディアのぷよぷよ連鎖

 アイディアのぷよぷよ連鎖と呼べるような状態があると思う。ある概念Aはある概念Bで説明できるのではないかとか、さまざまな概念群同士のリンクをはろうと頭がフリーランしている感じ。概念の編集のような感じか。

 はじめてそういう感覚をもったのはM2の10月頃だったと思う。たいてい帰りの電車の中で起こる。そして99%のアイディアはその後見直してみると使い物にならない。もしEEGで脳の活動を計測したとすると、おそらくグローバルな神経活動の同期現象が時間的に連続して観察されるにちがいないと思う。
 
 今年の8月の朝うつなときの夕方にも、そういう感覚をつよくもって、元気になったことがあった。脳の自発的な活動それ自体が報酬を生みだすところが、自分の中で閉じていておもしろいと思う。
 この頃、アイディアのぷよぷよ連鎖がまえよりもよく起こるようになった(だからといって良質なアイディアが量産されているわけではない・・)。

 高校生のころDr.Nakamatsuの発想法に興味をもっていて、毎日プールに潜って発想しているという話を読んだ。1時間で30コぐらいアイディアを出すらしい。それで、当時、そうか!と思ってプールにいって潜ってみたけれども何もアイディアは出なかった。
 あの頃になくて今あるものは、膨大な知のネットワークとそこに新しいリンクをつくりだそうとする強い目的意識だろう。あれから8年の月日が流れたのか・・とふと思った。

水曜日, 12月 01, 2004

Title

 ブログ・タイトルを「デカルトーる」に変更。

 電子メモでいろいろタイトルの候補を書いていたテキストが目に入って、ふと、「デカルトーる」ってなんかよくないか?と思い始める。急によくみえてしまったというか、愛着が貼りついてしまった感じがした。

 この前、オマケイとタナベに聞いたときはセンスな~いと笑われて、やっぱりそうだよねぇと思った経緯があるのだけれども、後ろにタナベが座っていたので、ふたたび、「デカルトーる」って実はなんかいいと思わない?と聞いてみた。そうしたら、「ヤナガワさんらしさがでていると思う。i-mindよりオリジナリティがあると思う」と(珍しく)ポジティブなコメントをいただいた(笑)。それで、確かに「i-mind」よりもキャラがたっているというか、なんともいえない雰囲気を醸し出している気がするなーという思いが強くなって変更してしまいました。ふぅ。

火曜日, 11月 30, 2004

L&R

 中部大のミウラさんという方が研究所にいらしてミウラさんが考案した英語の革新的な勉強法についてトークをしてくれた。体操を通して英語の発音をマスターできてしまう。生まれて初めて正しいLとRの発音がわかった。すでに無意識になってしまったプロセスを運動や視覚のフィードバックによって意識の上にあげ、さらに矯正してくれる効果にかなり驚かされた。個人的にはピタゴラスイッチの体操のレパートリーに新しく加わることを期待(笑)。

 意識は表象で満たされている。ちょっとまえまで「表象」という言葉にいまいち実感がわかなかったのだが、山鳥さんの「わかるとはどういうことか」を読んで、いろいろな表象の「わかる」があることを知って、表象というのは外の世界に物として存在しているものだけではなく、印象とかそれに伴う情動の変化とかちょっとした違和感とかそういった”あいまい”な内なる感覚も空間に存在しているわけではないけれども確かな実体として意識の中に存在するもの、と考えるようになった。
 認知実験でもゲームでもアートでも求められているのは「新しい表象」を見つけることであると思う。まあ認知科学は表象の原理を研究する学問だがそれを考えるために必要な思考回路はかなり重なっていると思う。ゲームクリエータが快楽曲線をデザインしているという話
http://www.axisinc.co.jp/forum/mizuguchi-src.html
もあるし、実験心理学的な作品をつくるアーティストもいる。

 ミウラさんの体操は、確かな表象の変革があった。そしてそれは英語をマスターしたい人にとっては切実な問題である。だれもが当たり前すぎて意識していないこと、またはあきらめて忘れてしまっていることにも新しい表象の種はあるのだなーと知ったことがとても新鮮だった。

日曜日, 11月 28, 2004

仏像

 中国の仏教美術は鎌倉仏教美術よりも宗教性があるとフセさんが話していたとオンゾーから聞いていて、中国国宝展もあと残り2日だったので中国国宝展を見に上野へ行った。

 正直にいうと興福寺の仏像からうけた衝撃に比べるとなにかもの足りない感じがした。それはクラシックよりもテクノのほうがいいという次元の話なのか、ファミコンよりもPS2のほうがいいという次元の話なのかはよくわからない。なので、こういうときはふつう何も書けないのが常なのだが、文章修行のために今回はもう少し「言葉」を探してみよう。

 創造にはつねに拘束条件がついてくる。そして創造の価値とは、拘束条件という枠組みからどれくらいジャンプしたのか?というところにあると思う。仏教美術の場合、仏像をつくるというのがメインの拘束条件であろう。仏像が仏像であるためには多くの様式・型・約束事がある。興福寺の仏像がすばらしいと思ったのは、写実性の追求によって、そういった型を超えた生命力や精神性が仏像から感じられたからだと思う。そういう視点からみると中国国宝展はなにか物足りない感じがした。年代的に後からいいものが出てくるのは当たり前ではないかといわれればそうなのだが・・。

 しかし個人の主観的な宗教的体験という視点からみると違った考え方ができるとも思った。
 世の中には仏像を趣味で作っている人がたくさんいる。その人たちはどうして仏像をつくるのか?

「心に刻む」という本の中に仏像彫刻の真髄がかかれているらしい。http://www5c.biglobe.ne.jp/~tom-hal/newpage1.htm

”迷妄を忘れ ただ 芸術と宗教の統一であり ほとけとの対話あるのみ 心頭滅却 幽玄の境地 あるときは不均衡に悩み あるときは抽象化して ほとけの象徴を具現せん 魂の世は永遠なりと  わが魂もほとけの心に合して 刻み込む無限の歓喜 仏像とともに 久遠に 生き続ける命の喜び 実在感を持ちて迫り来る 思索と創造は人ののみに 与えられた 仏の恩恵ならん”

 どうも仏像をつくるという行為はそれ自体が宗教的な体験を生むらしい。そうすると中国国宝展に展示されていた仏像にはすべてその時代その時代の仏師という製作者がいるわけで、その仏師たちがそれぞれ独自の主観的な宗教的体験の結晶として彫りだしたのがこの仏像たちなのか・・と思いを馳せると、仏像をみる目がまた全然変わるなぁと思った。

土曜日, 11月 27, 2004

talby

携帯をついに変えた。
ソニーの携帯は30ヶ月つかっていたことを知った。

auは格好いいデザインの携帯はすべてWinにいってしまってCDMA 1.x.のデザインはいまいちだな・・と思いずっと買うのをためらっていた(Winは学割がない)。

それでニュースでtalbyを見てこれだ!と思い衝動買いをした。
とても格好いい。シンプルなつくりがいい。薄いのもいい。機能選択画面の動物君たちがする変なアクションもいい。
でも空間が歪んだように見える壁紙や、色鮮やかに回転する縞模様のスクリーンセイバーをみるとこれをデザインした人はドラッグがはいってるな・・と思ふ。

新天地

気分を変えるためにブログに移転することを決意。
最近めっきり日本語力が落ちている気がする。なにか書こう。

googleでいまの日記の名前を調べると、
モノクロ日記 811件
だった。なのでブログのための新しい名前をいろいろ考えた。

Yanagaweb
YanaBlog

うーん、微妙・・。やっぱり脳科学系でしょっと思い列挙

Network mind
brain web
mind's trajectory
mind's history
visual thinking

うーん、どれもぱっとしない。
Attractor mindは?と思いググると日本語圏どころか英語圏も一件もひっかからない。きっと自分が期待している力学系のアトラクターが無数に集まってココロを形成する・・といったような語感はないのであろうと思い却下。
そうだ、twisted mindってペンローズのtwisterチックでなんか格好良くない?と思い辞書でしらべたらひねくれ者という意味だった・・。

そんなこんなで英語は語感に対する直感が働かないからダメだ、さとーさんを見習って日本語でいこうと思いピタゴラスイッチにならって思いついた名前は・・

デカルトール

・・・・。自分にはネーミングの才能がないということがはっきりわかった瞬間であった。

とにかくmindを使いたいと思ふ。アラン・シュナイダーのホームページの

Center for the mind

のようにシンプルだけどもかっこいいのがいいなーと思って考えついたのが

i-mind

うーん・・。もういいや、これにしよう。