月曜日, 12月 31, 2007

一年を振り返って。


今年は一年が過ぎるのがとても速かった。

ぞっとするほど速かった気がする。

書きたいことはいろいろあったきがするけれど

書きたい衝動があったときに書かないとだめなことばかりで

それでも今年一年間を振り返ってみると

思考という名のオーケストラのなかで

通奏低音のようにずっとなっていたのが「価値」の問題。


価値とは相対的なもの。

そして人は成長の過程で特定の価値観を

意識的・無意識的に取り込んで

その価値観によりそって生きていく。

それで、自分の脳はいま

3つの価値観に反応していると思う。


1社会的価値観

お金とか社会的地位によって測られる価値


2業界的価値観

研究者ならば論文の数(インパクトファクターが高ければなおよし)

によって測られる価値

3真理的価値観

生命とは何か、意識とは何か、世界と何か、人間とは何か・・

などなどのいわゆるハードプロブレムに対する

貢献度によって測られる価値


この3つの価値を共存させること

そうするにはどうすればいいのか?がいまの自分にとって最大の問いで

3→2→1の順番でことが進むのが

一番自然なvalue chainだと思い

あたまをずっとフル回転させているわけれだけれど

どうもずっと空回りしているっぽい。

一方では、ある敷居値を超えれば相転移のごとく

一気に何かが進展するような気もするのだけれど

日の目をみるときはくるんですかね。



というわけで

どん底のときに思い出したい3つの言葉を書いて

2007年をおわる。


1どん底に落ちて八方塞がりになったら「底を掘れ!」 by 養老孟司

養老孟司 玄侑宗久 脳と魂


養老 その場その場で、それなりに満足してるっていうことですよ。まさに成就したんですかねえ。まあ、ダメならダメで「しょうがねえや、それで」って開き直れるんですよ。そういう生き方したほうが楽なのになあと思うんだけど、やっぱり多くの人は、「こうしたらああなる」「ああすればこうなる」で自分を窮屈にしてるんだ。だからね、どん底に落ちて八方塞がりになったら、「底を掘れ!」っていうのが大好きなんです。どん底に落ちたら、そこから先は上がる一方だなんて甘いこと言うんじゃねえ。「掘れ!」ってね。


2「自分の心細さとか不安だけを信じる」 by 保坂和志  

http://122.200.201.84/interview/archives/no136.html


3「バラバラの点であっても将来それが何らかのかたちで必ず繋がっていくと信じなくてはならない」 by スティーブ・ジョブス

スティーブ・ジョブス氏のスタンフォード大学卒業祝賀スピーチ

http://sago.livedoor.biz/archives/50251034.html

 もちろん大学にいた頃の私には、まだそんな先々のことまで読んで点と点を繋げてみることなんてできませんでしたよ。だけど10年後振り返ってみると、これほどまたハッキリクッキリ見えることもないわけで、そこなんだよね。もう一度言います。未来に先回りして点と点を繋げて見ることはできない、君たちにできるのは過去を振り返って繋げることだけなんだ。だからこそバラバラの点であっても将来それが何らかのかたちで必ず繋がっていくと信じなくてはならない。自分の根性、運命、人生、カルマ…何でもいい、とにかく信じること。点と点が自分の歩んでいく道の途上のどこかで必ずひとつに繋がっていく、そう信じることで君たちは確信を持って己の心の赴くまま生きていくことができる。結果、人と違う道を行くことになってもそれは同じ。信じることで全てのことは、間違いなく変わるんです。



月曜日, 12月 24, 2007

クリスマススペシャル覚え書き


先週の水曜日に研究室恒例のクリスマススペシャルがあって

今年のiPod touchは石川がさらっていった。

今年の石川の優勝作品はこれ。

Radical Qualia Fundamentalism

http://jp.youtube.com/watch?v=BKqWZXqrWAk


6年も参加してはっきりみえた法則は

同じことをしても勝てない

ということで、これは

マンネリ化すると飽きられるという

エンターテイメントの本質に由来することなのか

それとも毎年、若い人がそれまでになかったことに

挑戦するからなのかはわからないけれど

景品がいいから、モチベーションが喚起され

みなそれなりの脳力を投資してくるがゆえに

新陳代謝が生まれているという面はあると思う。


もうひとつわかっている法則は

投資した作業時間と作品のインパクトは比例しない

ということなんだけれど

これがなぜなのかはなかなか深い問題だと思う。

映画だってお金がかかっていても

おもいっきり駄作であることはよくあることで

エンターテイメント、おそるべし、だと思う。


ことしの作品はこれ。

interface


D

今までを振り返って思うことは、自分は

見ていて気持ちのいい動画とはどういうものなのか

ということに興味があって

これはもうアニメとかゲームの世界ではずっとずっと

追求されていることで

そして最近では、WiiとかiPhoneみたいに

より直感的な運動が織り込まれた

映像の気持ち良さというのが追求されている。


アニメは、かっこよくて思わず何度も見てしまう

シーンというのがあって

それは自分ではビジュアルドラッグだと思ってるんだけど

もしそのときの脳活動をはかることができれば

きっと、脳の報酬系が活動していると思われる。


そしてビジュアルドラッグたらしめている

理由というのを考えてみると

アニメは、中抜きという技術があって

実写ではありえないフレームとフレームのつながりが

アニメだと自由につくることができるから

映画だってフレームを切り張りすれば

現実にはありえない動きをつくれるのだろうけれど

アニメは脳内イメージをダイレクトに

絵にしていくというのが基本なので

(作画力さえあれば)どんな脳内イメージも

表現できるがゆえに、アニメは脳内にある

動きと脳内報酬を関係づける抽象的な

刺激-報酬のパラメーター空間を

なによりも自由に探索できる表現形態なのではないかと思う。

ゲームやパソコンのインターフェースは

そこに運動が加わってインタラクティブになるので

要素は増えているけれど、刺激-報酬の抽象的な

パラメーター空間を自由に探索できるという意味では

アニメと同じだと思う。


それで前置きが長くなったわけだけど

今年はいままでつくってきた動画たちをリミックスして

なんか見ていて楽しい、という映像を追求してみた。

個人的にパソコンのインターフェースは

思考における概念の運動に似てくるほど

脳は気持ちよく感じるという仮説があって

ようは夢みたいにほんらいつながりようのない

イベントがどんどんつながっていくというのが

究極のインターフェースになると思っていて

そんなようなものをイメージして

試行錯誤しながら動画を切り貼りしているうちに

いつのまにか上のような動画になったわけだ。

過去の作品の一覧:

2004: wherever window

http://i-mind.blogspot.com/2004_12_01_i-mind_archive.html#110380647167946948

http://jp.youtube.com/watch?v=OFF-pz-iHlY


2005: aha rat

http://i-mind.blogspot.com/2005_12_01_i-mind_archive.html#113501026848337663

http://jp.youtube.com/watch?v=AnKLmYWciVI


2006: 映像詩:海の一日

http://d.hatena.ne.jp/toooru/20061223

http://jp.youtube.com/watch?v=Xw54ofcNjQE:movie


水曜日, 12月 05, 2007

批評の脳活動


連続投稿のテスト


Di Dio C, Macaluso E, Rizzolatti G.

The golden beauty: brain response to classical and renaissance sculptures.

PLoS ONE. 2007 Nov 21;2(11):e1201.

をよむ。

著者たちは被験者に

もとは黄金比の彫刻のプロポーションをいろいろ変えた写真を

見てもらうことで客観的な美のパラメーターを、

実験条件で、美しいか醜いかを判断してもらう審美条件で

主観的な美のパラメーターをコントロールしている。

勝手な推測で、reverse enginering的な分析をすると

著者たちのいちばんのひらめきは

彫刻の黄金比を変えれば、客観的な美というものを

科学的に扱うことができるということに

気づいたことではないだろうか?

黄金比に着目することで、

単一のパラメーターで美をコントロールすることができる。

主な結果は

黄金比の彫刻とそうでない彫刻をみているときの脳活動の差が

客観的な美を感じているときの脳活動で

そのときは、さまざまな脳部位とともに右の島という脳部位が活動していた。

島は"feeling of emotion"、すなわち

感情を感じているときに活動することがいままでに知られている。

一方、審美的な判断をしているときは

ただ見ているときと比較すると、右の扁桃核が活動していて、

これはそれまでの経験によって形成された自分なりの価値を

計算していると考えられる。


もっとわかりやすい解説はここを参照のこと。

「美には生物学的な根拠」彫刻作品と脳の働きを実験

http://wiredvision.jp/news/200711/2007112623.html


個人的に面白いと思ったのは

ただ美術館に行ったつもりで"simply enjoy"な気分で見てもらうモードのときと

審美的な判断をしてもらうというモードでは

脳の活動のモードが異なるところ。

この結果は

作品をただ鑑賞するのと

批評を書くことを念頭において作品を鑑賞するのとでは

脳のモードが異なるという問題につながるのではないかと思った。

自分のことなんだけれど

自分がすきな作品は、自分のなかで理由なんか見つけなくても

好きだと確信できるけれどそれを他人にも共有してもらおうとして

その作品について批評しようとすると

途端に難しくなると最近感じている。

なにがいいのかを説明するのは結構難しい。

むかしゲームの雑誌でこんなインタビューが載っていた。


ー任天堂が任天堂であるところは「遊ぶ人はどう思うんだろう」って一歩突き進んで考えるところだと思うんです。

出石 できたものにケチつけることは誰でもできるんです。じゃあ、面白くするにはどうしたらいいって考えた時にちゃんと指示できる人は任天堂でも数えるほどしかいない。ユーザーさんは”クソゲー”って投げてもいいんですよ。でも僕らはこれでお給料貰っている訳ですから、商品に仕上げなければいけない。今まで自分が培ってきたもので、誰でも一本はソフト作れると思います。何人かにはウケるかも知れないけれど、ミリオン続けようとしたら、それは特別な人です。ダメだったらどうすればいいって言える人は少ないです。そのトップは宮本でしょう。あの人は理論家っていうか、何で面白いかを説明できるんですよね。いかなる理由で面白いのか、どうすれば面白くなるのかを。

ーそれは素質なんですか環境なんですか。

出石 環境もあるでしょうが、素質プラス努力かなぁ。センスとか感性とか鍛える事が難しいものも必要ですが、それに加えて、宮本はいつも一生懸命考えています。どういう風にして自分のもっているモノ、考えている事をみんなに伝えようかと。

「ダメだったらどうすればいいって言える人は少ない」

「何で面白いかを説明できるんですよね。」

「いかなる理由で面白いのか、どうすれば面白くなるのか」

というところがグッときて、

良いモノのどこがいいのか言えること、と

悪いモノのどこを直せば良くなるか言えること

は同じ能力なんだ!と思った。

そして良いところを言語化するというのは

自分が好きな異性のどこが好きなのか、その理由を説明することが

難しいのと同じくらいの難しい問題なのだと個人的に思っていて

たとえば小林秀雄がこんなことを書いている。


小林秀雄 考えるヒント

p200


そこから素直に発言してみると、批評とは人をほめる特殊な技術だ、と言えそうだ。


p201


 ある対象を批判するとは、それを正しく評価する事であり、正しく評価するとは、その在るがままの性質を、積極的に肯定する事であり、そのためには、対象の他のもとのとは違う性質を明瞭化しなければならず、また、そのためには、分析あるいは限定という手段は必至のものだ。カントの批判は、そういう働きをしている。


対象の良い性質を指し示す方法として

過去の記憶からそれと似たものを引き出し並置して

「○○に似ている」

というとか、比喩をつかって、

「まるで○○みたいな」

といって指し示したり、

または似ているけれど異なる性質を強調して、

「○○とはここが異なる」

という方法が挙げられる。

もっと分析的にここの曲線がいんだよ、とか

この構造が良さを生み出すんだ、とか

このメロディラインがいいとかと言う方法もある

けれど、そういうことができるのは

過去に接した類似した良いモノのサンプルの中から

その良さを生み出すための共通な法則を

すでに抽出できている場合に限られる気がする。

衝撃を受ける作品というのは

いままで出会ったことのないからこそ

その衝撃が生まれるわけで

そこには非線形なジャンプがある気がする。

そういうときに対象のいいところをどうすれば指し示す

ことができるのか?ということがいまの問題なんだど


でもそういう場合でもやっぱり

過去の記憶からなにかを引き出して並置させて

論じるしかないという気がする。

でもそうすると、比較できるものはないのだから

いくら似たものを挙げて並べていったとしても、

対象をとらえることはできないのではないか?

とここまで

審美判断のときの扁桃核の活動と

批評をしようとしているときの脳のモード

はなにか関係があると思って書いてきてのだけれど

この論文は美しい/醜いという審美的判断には言語は必要なくて

でも、批評の場合は、その審美的判断の根拠を

さらに言語化するプロセスが加わるから

じつは問題はもっと複雑で、脳が批評モードのときは

審美的な判断のプロセスと、それと似た体験の記憶を

高速かつ直感的にサーチしているプロセスと、さらに言語によって

そこにかたちを与えようとするプロセスが複雑にまざっているに違いない

と思った。


というわけで、審美的な判断と批評は、同じようで、異なるところがかなりあると

いうことに、ここまで書いてみて気がついた。

意味不明な結論ですいません。。

MRIの写真

fMRIのデータを解析しているオンゾウから

自分のMRIの写真をもらってプロフィールの写真を変更した。

イケてる

というよりかは

イッてる

感が否めないけれど

でもなんか一目で

脳に関するブログだとわかるところが

個人的にはいいと思う。


f:id:toooru:20071206002153j:image


オンゾウに解析したfMRIのデータをみせてもらう。

Sさんとは全然脳活動の傾向が異なるのだけれど

Tとおれの脳活動は同じ傾向が出ていて

こんなに似た部位が活動するものなんだぁと感心する。


火曜日, 12月 04, 2007

Firefox


ブラウザのなかで英語の辞書を使いたくて

ブラウザをIE6からfirefoxに変える。

FirefoxとIEとの違いって、タグで新しいページを

開けることだけだとずっと思っていたけれど

ユーザーが機能を自由に拡張できるアドインの便利さにびっくりする。

firefoxがリリースされて数年たっているのに

いままで一度もfirefoxを試そうと思わなかったのは

なぜなのだろう?と思う。


とりあえず辞書関係でいれたアドイン。

Mouseover Dictionary

http://www.forest.impress.co.jp/article/2006/10/26/mouseoverdictionary.html


英辞郎のデータがあれば、ウェブページ上にカーソルを当てるだけで

英和の訳が見られる。

Answers.com for Firefox (for Windows, Mac and Linux)

http://www.answers.com/main/firefox_plugins.jsp

Altキーを押しながら単語をクリックすると

英英辞書が開くアドイン。

ついでに

Greasemonkey+GoogleAutoPager

http://la.ma.la/blog/diary_200506231749.htm

グーグルの検索ページで下にスクロールしていくと

自動的に次ぎのページを継ぎ足してくれるアドイン


あと、はてなのブックマークをはじめた。

http://b.hatena.ne.jp/toooru/

面白いと思ったのは

*usersというところをクリックすると

自分がブックマークしたページに対する

他の人のコメントの一覧が見られるのだけれど

見てみるとポジティブなコメントだけでなく

つまんないなどのネガティブなコメントも結構多いこと。

つまんないならブックマークすんな!と思ったりもする。

RSS ReaderとしてGoogle Readerを使いはじめた。

いままではHeadline-Reader Liteという

RSS Readerをつかっていたのだけれど

Google Readerの良さに気づく。

海外に脳科学を専攻している人のブログが

たくさんあることに気がついて

論文の情報源になりそうなものは片っ端から登録している。

おすすめはこれ。

http://www.mindhacks.com/

このブログからたどっていくといろいろなサイトに出会える。

日本語でこういうブログ・サイトをつくれたら需要がありそう。

そして、いままでIE6をつかっていたことが腹立たしくなってきて

それが連鎖して

Outlook Expressのスパムメールに対する無力ぶりにあいそがつきて

徐々にだけどメール環境をすべてgmailに移行することを決意。

hotmailをgmailで読み込むことはできないようなので

hotmailに来るメールをどうやってgmailに移行するかが目下の課題。


あと携帯をauのinfobar2に買い換えようとしたら

携帯の値段が上がっている!

26000円は高いなー。さらに一年以内に換えると18000円のペナルティーつき。

来年もしiPhoneが出たら速攻でかえるつもりなので

それまで待つべきか。。

火曜日, 11月 27, 2007

無我の脳活動


Goldberg II, Harel M, Malach R.

When the brain loses its self: prefrontal inactivation during sensorimotor processing.

Neuron. 2006 Apr 20;50(2):329-39.


我を忘れてなにかに没頭しているときの脳活動と

自分を意識しているときの脳活動の間に

違いが見つかった、という論文。

被験者にサッカーボールやヨットや象の写真を見てもらい

映っているものが

好き/嫌いか、どちらでもないかを判断してもらう内省タスクと

動物か、その他かを判断してもらう分類タスク

をしてもらう。

あるものが好きか嫌いかは自分の感情を内省しないと

判断できないためメタ認知が必要になるけれど

動物かそうでないかを分類する作業にはメタ認知はいらない。


その結果

分類タスクをしているときの脳活動は、

内省タスクをしているときの脳活動と比べて

有意に左脳のSFG(left superior frontal gyrus)の活動が低下する。

写真だけでなく音で同じタスクをさせても同様の結果が出た。

なにも考えずにできる作業をしているときは

前頭葉の活動(ここではleft SFG)が低下しているという結果は

脳トレで単純な計算をしているときのほうが難しい問題を

解いているときよりも前頭葉の活動が活性化するという

はなしとは逆の結果となっていて面白い。


ハイデガーが意識について

熟練した大工がかなづちで釘をトンカントンカンと

打っているときは無我の状態なんだけど、釘を打ち損なって

修正しなくてはいけなくなると我にかえる

という例をあげて

運動する→環境が変化する→感覚入力を受ける

また運動する→・・というループが

予測通りに進行しているときは、意識は環境と一体化していて

消えているのだけれど

そこにゆらぎやノイズがはいって予測と感覚入力の間にズレが生じると

そのズレを修正するために意識が立ち現れる

という議論をしている。

だからこの論文の結果は、

sensory-motor couplingのズレがないときは

前頭葉は活動しないのだけれど

sensory-motor couplingにズレが生じると前頭葉が活動して

メタ認知が立ち上がり

脳のリソースを再配分してそのズレを修正しようとする

と解釈することができる。

メタ認知というのは

ある計算プロセスが走っている

そのプロセスを外から眺めるというイメージがあって

ハンフリーが「内なる目」という本のなかで

こんなわかりやすい絵を描いている。

f:id:toooru:20071128031821j:image


機能主義的にいうと

前頭葉は不測の事態が生じたときに

自分の行動を修正するために進化した

と説明することができる。


しかし、そんなことを言いたくてこのエントリーを

ここまで書いてきたのではない気がしてきて

自分が一番不思議な感じがするのは

メタ認知が立ち上がっていなくても意識はある。

外の世界を感じクオリアも感じている。

そして、そういう状態から引き剥がされたカタチで

その状態をモニターするメタ認知が生じる。

それを外から俯瞰すると上の絵のようになるわけだけれど

それは実際にわれわれが日々感じている

メタ認知体験とは異なっている気がしていて

自分の日々の生活は、論文について考えなくてはいけない

(メタ認知が立ち上がっている状態)と思っていながら

いつのまにか妄想モードに没入していて(メタ認知消失状態)、

ふと我に返って(メタ認知が立ち上がって)といかんいかんと思って

また論文について考える・・

という無限ループなんだけれど

そのプロセスは

直線があって、その直線から引き剥がされたかたちで、

外からその直線を俯瞰する自分がいる

というようなイメージではないのではないか?

直線の先端にずっと自分というのは固定されていて

メタ認知が立ち上がってなにかから

引き剥がされたような感じがしても

やっぱり自分はずっとその先端にいつづけている・・

そういうプロセスがずっとずっと起こっている。

というか、なんというか、

ハンフリーの絵みたいな新たなループが生まれるのではなくて

メタ認知の消失状態も起動状態も

トポロジカルには同じなんじゃないか?

それはどういうカタチをしているんだと言われると困るんだけれど

死にかけている私、メタ認知が起動すると

幽体離脱をおこして、それを見ている幽体離脱の私が

立ち上がる、というイメージではない

新しいイメージがつくれるのではないかと思った。

と考えてみたけれどこれはなんか違うきがしてきた。

自分が不思議なのは、日常の生活のなかでは

メタ認知の起動と消失の境界というのはずっとあいまいで

いまいちいちどっちだろう?なんて考えることなしに

思考というものは両者があいまいに絡み合いながら進行している

そういうありようが面白いのだと思う。


しかしループが付け加わるという概念はどこまで有効なのだろうか?

たとえばさらにもうひとつループがつけ足されたとき

そこから脳に生まれるであろう新しい機能を演繹することは可能なのだろうか?

たとえば人間以外の霊長類が一階建ての脳をもっていて

人間だけが二階建ての脳をもっているとする。

二階の住人は一階で起きていることを観察して

行動に反映させることができる。

チンパンジーはどうなんだ?とかいろいろ疑問はわくけれど

問題を簡単にするためにそう仮定してみよう。

ではさらにヒトが進化して、脳が

三階建てになったらどうなるのだろう?

三階の住人は二階の住人を観察して行動に反映させることができる。

では三階の住人たちによってもたらされる新しい脳力はなにか?


すぐ思いつくのは

脳のなかにいくつもの人格を同時に走らせられるようになることだろう。

多重人格の人でも、同時に現れる人格は1人なんだけど

それが何人も頭のなかで現れている状態。

でも幻聴みたいにいつも別の人の声が頭のなかで

聞こえるという状態では困る。。


階層が一段あがればなにか質的な変化がおこるという

直感はするのだけれど

いまの階層=ループが増えることのメリットは

たんにパターンしか処理できなかったのが

パターンのパターンまで処理できるようになって

さらにパターンのパターンのパターンまで処理できるようになる

ということしか想像できなくて、そこからは質的な違いは出てこないのではないか?

だから、ホーキンスの階層モデルも階層を積み上げていって

パターンのパターンのパターンの・・とパターンの階層が上げられる

といってもそこから質的な変化が生まれるとは思えない。


そもそもいまアツいスモールワールドネットワークだって

新しいループが付け加わったとき、そこにどんな質的な変化が機能上生じるのか

そういうことを予想できる枠組みは備えてない。

ってよくわからなくなってきたのでここで考察おしまい。

日曜日, 11月 25, 2007

かってにベスト


初音ミクの進化を見るのが面白くて

ここ一ヶ月ぐらいずっとニコ中(ニコニコ動画中毒)である。

日々新しい曲が現れるということが

とてもエキサイティングなことで、ネット上で生まれる「祭り」って

このことなんだと感覚的に理解。

面白いことが起こってる場所に人は集まってくる。

せっかくネット時代に生きているんだから

一生に一度は1万アクセスのコンテンツを作ってみたいなーと思う。

きっと一度でも1万アクセスとかいくような体験をしたら

やめられなくなるのではないか?

そういう興奮を味わえる可能性がだれにでも開かれたところがネットのすごいところだと思う。

ニコニコ動画では「才能の無駄遣い」という言葉が

いちばんの誉め言葉になっているところがとても面白くて

そういうインセンティブを与えてくれるコミュニティの存在と

それに参加しようとする個人の在りようが

たぶんウェブ時代の創作の本質なのだと思った。

というわけでかってにベスト。

【動画】桜の季節 - Full.ver 【初音ミク】(オリジナル)


D


オリジナル:http://www.nicovideo.jp/watch/sm1427306





【初音ミク】オリジナル曲 「melody...」 (STEREO)(高画質)



D


オリジナル:http://www.nicovideo.jp/watch/sm1381337





初音ミク オリジナル曲 「saturation 」 高音質



D


オリジナル:http://www.nicovideo.jp/watch/sm1237688





初音ミク オリジナル曲 「近未来都市」



D


オリジナル:http://www.nicovideo.jp/watch/sm1422063





[PV]みっくみくにしてあげる/初音ミク Miku Hatsune(画質・音質修正)



D


オリジナル:http://www.nicovideo.jp/watch/sm1359820


土曜日, 11月 24, 2007

ウサビッチ


いまウサビッチがあつい。

これ。


D



公式ホームページに書いてある紹介文がまたおもしろい。
http://www.usavich.tv/about.html

ロシアの監獄に閉じ込められたウサギのキレネンコとプーチン。監獄生活といえば希望のない暗い毎日のはずなのに、なぜか彼らはのほほんお気楽な収監ライフを満喫中。

彼らにとっては看守たちとの日々のイザコザも退屈しのぎの楽しいレクリエーション。監獄に紛れ込んだ動物がいれば仲間に引き込み、やりたい放題好き放題のユルすぎる監獄ライフは絶好調!

かたや極悪死刑囚のキレネンコ、かたやちょっとしたサボタージュで懲役をくらってしまった善良市民のプーチン。性格も境遇も違いすぎる彼らの監獄ライフは一体どんな結末を迎えるのか……。 

リズミカルな展開の中にドタバタが満載! そしてトラブルはてんこ盛り! 企業用映像からテレビCM、そしてゲームなど、多岐にわたる活躍のフィールドを誇り、そのすべてにおいて独自のセンスと圧倒的なクオリティで高い評価を受けるカナバングラフィックスが制作を担当した良質のシチュエーションコメディ。

1-20話をすでに三周ぐらいみてしまっていて中毒度かなり高し。

プーチンのゆるさがたまらない。

無敵のキレネンコが最高。

いじめられるのが大好きなコマネチ(オカマヒヨコ)の顔がいい。

お約束で最後に流れるクラシック音楽(曲名忘れた)もいい。

キャラが立ったキャラクターたちの相互作用がとても

リズミカルで気持ちいい。とくに5話の音のセンスが秀逸。

とても厳しい環境なんだけど、そういうものを超越した

楽観的で陽気な雰囲気の感じが

昔見た映画「レニングラード・カウボーイズ・ゴー・アメリカ」に似ていると思った。

この全体に流れるゆるくて楽しい雰囲気・世界観は

ロシア人の国民性にもともとあって、

それを抽出してパロディ化することで生まれたものなのか

天才バカボンのようなギャグまんがやコメディというジャンルが発見した

笑いを生み出すためのお約束なのかはわからないけれど、

このウサビッチの雰囲気から感じられる手触り感はとてもいいと思う。

金曜日, 11月 23, 2007

Flickrの楽しさを知る


最近、WiredでFlickrが『Place』というサービスを始めたのを知って

初めてFlickrの楽しさを知る。

『Flickr』で世界旅行:写真や情報を一覧できる『Places』機能

http://wiredvision.jp/news/200711/2007112218.html


IcelandのReykjavik

http://www.flickr.com/places/Iceland/Reykjavik/Reykjavik


Flickr Places

http://www.flickr.com/places


上のページにアクセスして、どこでもいいから地図をクリックすると

たいてい一枚はおっ!と思えるすごいクオリティの風景写真があって

見ていてとても楽しい。飽きない。

どこか地図をクリックすればかならず一枚はいいと思える写真と

出会えるのってじつはとてもすごいことなんじゃないかと思う。

集合知のパワーを実感。


素晴らしい写真を見ているうちに沖縄のせいふぁうたきを思い出した。

せいふぁうたきは沖縄の宗教の聖地のようなところで

二年前に研究室旅行で沖縄にいったとき、かなり衝撃を受けた場所。

それで、せいふぁうたきの写真がないかとokinawa+seifa-utakiで

検索してみたところ、あった!

http://www.flickr.com/search/show/?q=okinawa+seifa-utaki

写真を見ていると、記憶のなかのせいふぁうたきが甦ってきて

多くの眼を集合させることでひとつの場所を記録するという

プロセスがとても面白いことだと思った。

でも

Flickrの写真を見ていると曇りの日の撮影が多いことに気がついて

二年前にいったときは晴れていて、蝶々が飛んでいたり、

岩のすき間から光が射し込んでいたりしていて

自然が生み出した聖地!!という感激があって

この場所は、いつもこんな感じなんだろうなーと漠然と思っていたのだけれど

もし曇りの日にいっていたら、いま抱いているような特別な場所という

感覚は生まれなかったのではないかとふと思う。

記憶のなかのせいふぁうたきはじつはとても運が良かったから

たまたま出会えただけなのかもしれない思ったら、

時間の稀少性について考えた。

9月に長野にいったとき丸山健二さんのお宅で見せてもらった花たちの写真は

すごく生命感が溢れていて、小林秀雄の

美しい「花」がある 「花」の美しさという様なものはない

という言葉の意味を実感したのだけれど

そういう花の形を撮るためには、

1年のある日のある時間帯という

すごく時間窓の小さいタイミングが

存在するのだというはなしにとても感動した。

それ以来、美というは永遠というよりは

一回性によって支えられていて

その一瞬を永遠なものにするのがきっと芸術家の役目なのだけれど

その一回性の背後には、

サンゴが満月の夜に一斉に産卵をするように、

自然界の生物たちが直面している、種を残すために交配相手といかに出会うか

タイミングをものにするか、という切実な問題があって

そのなかから、交配相手の気を引くために、自分の生命エネルギーのすべてを

あるタイミングに集中的に投入して、一瞬だけでいいから輝いてやろう、

という戦略をとる生物が現れたとき

そういう信号をちゃんとキャッチするために

美という感覚が進化してきたのではないかと考えるようになった。


ある場所の風景だって、そこにある花や木々や太陽光の組み合わせが

一番いいときというのは、一年の中できっとわずかなタイミングしかなくて

一人一人の眼と時間は有限で、そういうタイミングに出会える可能性

はとても低いのだけれど

みんなの眼と時間を持ち寄れば、

そこには無限とも思えるリソースが生まれることを意味していて

それが、Flikrに素晴らしい写真がたくさんあることの理由なのだと思った。


ヒトが1億人いて、みんなデジカメをもっていれば

だれでも一生に1枚は最高にイイ写真を撮るだろう。

その1枚がネットにアップされるだけで

1億枚からなる写真集が生まれる。

そんな消費しつくせない素晴らしいもので溢れる

時代に立ち会ってしまっているのかもしれないと

想像してみるとなんだかすごいことだなーと思った。


というわけで、おれも写真を投稿してみたyo。


Seifa-utaki 1





Seifa-utaki 2


おれのfavorite集

http://www.flickr.com/photos/21150146@N07/favorites/show/

水曜日, 11月 21, 2007

拡張現実感

こんなホームページを見つけた!


「攻殻機動隊」「電脳コイル」の世界を実現!

ARToolKitを使った拡張現実感プログラミング

http://www1.bbiq.jp/kougaku/ARToolKit.html


現実世界にあるマークをウェブカメラで映すと

あらかじめ登録してあるポリゴンデータを

映像に映っているマークの上に上書きしてくれる技術。



D






D


「拡張現実感」=「Augmented Reality(AR)」と呼ばれているらしい。

これはヤバい!!

これを使って何か認知実験ができたら面白くない?


金曜日, 11月 09, 2007

英語耳のススメ


英語のヒアリングがまったくもって上達しなくて


ずっと放置していたのだけれど


最近一念発起して再びチャレンジを始める。





小林秀雄の「考えるヒント」の「言葉」という文章でつぎのような感動的な考察があった。






生活するとは、人々がこの似せ難い動作を、知らず識らずのうちに、限りなく繰り返す事だ。似せ難い動作を、自ら似せ、人とも互いに似せ合おうとする努力を、知らず識らずのうちに幾度となく繰り返す事だ。その結果、そこから似せ易い意が派生するに至った。これは極めて考え易い道理だ。実際、子供はそういう経験から言語を得ている。言葉に習熟して了った大人が、この事実に迂闊になるだけだ。言葉は変わるが、子供によって繰返されている言葉の出来上がり方は変わりはしない。子供は意によって言葉を得やしない。真似によって言葉を得る。この法則に揺ぎはない。大人が外国語を学ぼうとして、なかなかこれを身につけることが出来ないのは、意から言葉に達しようとするからだ。言葉は先ず似せ易い意として映じているからだ。言うまでもなく、子供の方法は逆である。子供にとって、外国語とは、日本語と同じ意味を持った異なった記号ではない。英語とは見た事も聞いたこともない英国人の動作である。これに近附く為には、これに似せた動作を自ら行うより他はない。まさしく習熟する唯一つのやり方である。






さらに続いて






例えば、「お早う」という言葉を、大人風に定義して意味するのか、それとも、という具合で切りがあるまい。その意を求めれば切りがない言葉とは即ち一つの謎ではないか。即ち一つの絶対的な動作の姿ではないか。従って、「お早う」という言葉の意味を完全に理解したいと思うなら、(理解という言葉を、この場合も使いたいと思うなら)「お早う」に対し、「お早う」と応ずるより他に道はないと気附くだろう。子供の努力を忘れ、大人になっている事に気附くだろう。その点で、言葉にはすべて歴史の重みがかかっている。或る特殊な歴史生活が流した汗の目方がかかっている。昔の人は、言霊の説を信じていた。有効な実際行為と固くむずばれた言葉しか知らなかった人々には、これほど合理的な言語学はなかった筈である。私達は大人になったから、そんな説を信じなくなった。しかし、大人になったという言葉は拙いのである。何故かというと、大人になっても、やっぱりみんな子供である。大人と子供とは、人性の二面である、と言った方が、真相に近いとも思われるからだ。これに準じた言葉にも表と裏がある。ただ知的な理解を極めてよく応ずる明るい一面の裏には、感覚的な或は感情的な或は行動的な極めて複雑な態度を要求している暗い一面がある。






これを読んで


ミラーシステムについて言及している!とか、


レイコフの身体性に基づいた言語学よりずっと前に同じことをいっていたのか?とか


小林秀雄はこの言語観をどうやって得たのだろうか?とか、


本居宣長がすでにそういう言語観に達していたのか?とか


ってか、哲学的な思考ができる人ならふつうに気づくことなのか?とか


たくさん考えたいことはあるのだけれど、


なによりもここから





「言語とは運動である」





という深い確信が芽生えて


もう一度ヒアリングにチャレンジすることにする。











教材として選んだのは松澤喜好さんの「英語耳ドリル」で


松澤さんは一つの歌を300回聴くというメソッドを


提唱していて、


最初の100回は耳慣らしでただ聴くだけ。


次の100回は発音記号つきの歌詞を見ながら聴いて


発音記号と発音を対応させるべし。


最後の100回は、自分で声に出して歌う。


というシンプルな内容で


簡単な運動を繰り返し練習するというプロセスが


スポーツにおける運動の獲得方法とまったく同じだと思い


これをすることにする。





先週とりあえず100回聴いて


つぎの100回をやろうとしたら


発音記号をマスターしてないことに気がついて


先週末は「英語耳」で43個の子音と母音の


発音方法を辛抱強く勉強したのだけれど


これがめちゃくちゃ面白い!





一つ一つの発音記号には、


正しく発音する方法があって


舌の位置と動かし方、息の出し方を


一から勉強すると


いままでまったく未知の


舌と息が連動したダイナミクスが


英語を発する口のなかでは繰り広げられていることに


はっきりと気がついた。





この感覚はやってみないと共有できないと思うのだけれど、


例えばテニスで練習して正しいフォームをみにつけることで


いつもボールをミートできるようになったときの快感と同じように


正しい舌と息の運動によって正しい発音ができたときの


快感というものがある!





一音一音正しい舌の動きをしようとすると


ひとつの単語を発音するだけでもすごい労力がかかって


舌をつりそうになるんだけれど


そうやって発音してみると確かにネイティブっぽい発音になっていて


初めて逆上がりができたときの喜びみたいなものがあった。





そして、この労力と注意深さでもって、


すべての単語というのは発音しなくてはいけないものなのか、と思うと、


それは、意味だけではなく、新しい運動のイメージを


一つ一つの単語に新しく貼りつける必要があることを意味していて


いままで既知だと思っていた土地が


突然広大な未知の大陸に変わるような感覚がして面白いと思った。





まだ現在進行形だけれど


英語が苦手な人にはおすすめ。


同志モトム。











そんな一日の夜、スペクタルな夢を見た。


都市の上空(たぶん高度500mぐらい)を電車が走っていて


電車のなかは普通に通勤電車の風景なんだけど


窓から眼下には、高層ビルから見えるような


東京の街並みが広がっていて、


そのなかに一本だけ高い塔が立っている。





おれのミッションはなぜか走っている電車から


その塔に向かって火の玉を投げて、塔にてっぺんから出ている


導火線に火をつけなくてはいけないということになっていて


塔が真下に見えたときオレは電車の窓から塔にむかって火の玉を投げた。


玉は落下していくのだけれど、慣性の法則を考慮せずに投げたためか


玉は塔から右に外れていく、、失敗した!と思った瞬間、


火の玉が破裂して、花火みたいに広がった火の粉が


塔の導火線に火をつけて(なんて都合のいい展開!)


そうしたら塔から空中に向かって花火が打ち上げられて


電車のなかから、球状に広がる大きな花火を見た。





夢の中なんだけどミッションコンプリート!みたいな


高揚した気分になって目が覚める。





ふだんはこんなスペクタルな夢をまったく見ないので


これは脳が英語耳体験の興奮を


別の物語を通して解釈した結果なのかもしれない


と思った次第。





おしまい。


火曜日, 10月 09, 2007

fMRIでハンサム脳


先週金曜日に認知実験のバイト生まれて初めてfMRIに入った。


ズギュン、ズギュン、ズギュン、という1Hzぐらいの機械音が


絶えず鳴り響く狭い空間のなかで頭を固定されて


一時間じっとしながら鏡に写ったモニター画面をみつつ


ときおりボタンをおすという実験をした。


なにか脳に負荷がかかっているという感覚があって


ああ、いま頭のなかをスキャンされているんだ、


という解釈がたちあがって、


なんだかとても不思議な体験だった。


この感覚をなにかSFのネタにできないだろうかと


いろいろ思案してみる。





実験がCMに関する実験で、それでCMについて


いろいろ考えさせられた。


CMを認知科学的にみるとまさに文脈問題そのもので


自分がいままさに興味をもっているものに関するCMは


感情が動くのだけれど、自分が興味のないものに関する


CMはノイズとみなされる。


だからウェブのターゲット広告は検索したキーワードに関する


広告をだすのですごく効率がよいことが


わかるのだけれど、いまのリアルな世界のCMは


そもそも見ているときに興味のあるCMが流れるかどうかわからないし


商品を目の前にしたときのそのCMを思い出すかどうかわからない


などなどで、CMと商品の購買までの間に


無数の偶然の要素が入り込んでいて、CMの効果がいまいちわからない。


だから、リアルでかつもっとジャストインタイムな


CMの提示の仕組みをつくれたら、きっとすごいビジネスチャンスが


あるのだろうと思った。





自分の脳を初めてみた。片半球がなかったらどうしよう、とか


前頭葉が一部欠けていたらどうしようとか、計るまえは


いろいろと不安がよぎったのだけれど


おれの脳は、スイカみたいに真ん丸くてかつ左右が対称で、


fMRIのスタッフのひとからハンサム脳だと褒められた。


普通の男性の脳はもっと楕円で、左右も非対称なのだという。


自然界では孔雀の羽のように、左右が対称かどうかということが


もてるかどうかの有力な分かれ目になることがあって、だから


脳が左右対称であることが、なにか御利益になることは


ないのだろうかといろいろ妄想する。





f:id:toooru:20071005134842j:image





脳を研究していると言っても、ただ行動だけを計測していたり、


神経細胞のモデルのシミュレーションだけをしていたり、または


心の理論という、ぐにゃぐにゃした概念的なものだけを


相手にしていたりすると


自分は本当に脳のことを研究しているのだろうか?


と不安になることがあって、


だから脳そのものが(映像だけど)目の前に提示されると、


そのリアリティに圧倒された!


しかもそれが自分の脳であるということが興味をそそって


言語野を探したり、視床を探したり、海馬を探したり、


利き腕の運動野のほうが大きいのを確認したり、


脳梁がたしかに女性の脳と比べて小さいのを確認したりして


それがすごく楽しいことに気がついた。





「脳コンサルティング」の着想を得る。





脳についての知識はもっているけれど、実物の脳は見たことがない状態で


意識について考えていると、自分はよく不安になる。


だからfMRIで研究している人たちは、脳そのものから


リアリティを感じられていいですよね、というようなことを


ボスにいうと、だからいまの脳科学はだめなんだ、


というような意味のコメントをされて、理論家魂を垣間見た気がした。


理論とかコンセプトに対してリアリティを感じることができるか?


それが大きな分かれ目だ。





どうでもいいけれど「人生Bダッシュ」という名言を思いついた。


が、ぐぐると15件もひっかかった。うむむ。


水曜日, 10月 03, 2007

いつのまにか10月。


毎日あわのようにぼこぼこと頭に浮かんでくるなにかを


メモして、そこから考えて、忘れて


また浮かんできて、メモして、考えて、忘れて


という無限ループを繰り返しているうちに


なんとなく一日が過ぎている、という生活が続いている。





日記があまり書けなくなったのは


ふつう頭のなかでぐるぐる回っているなまの思考というのは、


背景を説明したり、直感の飛躍を論理で埋めたり、うまい言葉を見つけたりして


かたちを整えないと、そのままでは他人とは共有不能な性質をもっていて


そのかたちを整えることがどうも億劫になってしまって、





しかし書きづらいと思うことを書こうとしない限り、


書くということのレベルアップは望めないわけで、


だから、なにか書こうと思ったら


こんな文章になった。うーむ。


他人にも理解してもらえる文章を書くことを日課にしたいと思ふ今日この頃。


水曜日, 9月 12, 2007

旅の記録:長野


9月9日


キャンプをしにレンタカーで長野県へ。





長野市にある善光寺には、


真っ暗闇の廊下を歩いていき途中で「極楽の錠前」を触る


というアトラクションがあった。


似たようなものが京都の清水寺にもあった気がする。


この手のアトラクションの建造が


お寺の間で流行っているのだろうか。


どうでもいいけど「快楽の錠前」でぐぐったら一件もヒットしなかった。





キャンプ場で


ほしの発案のイタリア料理・アフリカ料理・トルコ料理


http://eco.goo.ne.jp/nature/outdoor/woc/


の料理バトルをするために


長野市内で買い出し。


100円ショップで料理器具がほとんど


そろってしまうことに感動。


イカ墨がない!とかクスクスはどこだ?とか


レシピの材料を揃えるのがとても楽しかった。





キャンプ場の青木湖に向かうために山道をドライブ。


レンタカーはiPodをつなげることができるようになっていて


対向車がまったくこないような深い森の山道のドライブに


おんぞうチョイスのビョークが驚くほどマッチしていた。


ビョークは出身のアイスランドの深い森から


創作のインスピレーションを受けたのだろうか。


f:id:toooru:20070913013915j:image





日がどっぷり暮れた頃、青木湖に到着。


料理バトル開始。


くじで決めたおれ・ほしの・おんぞう・たかがわ班は


イタ飯でイカ墨のリゾット、野菜とシーフードのホイル焼、


パイナップルとチーズの一口ピザをつくった。


といってもおんぞうとたかがわが


ほとんど全部つくってくれたのだけれど


他班のトルコ料理とアフリカ料理も無事完成し


大急ぎでつくったわりには食べられるものができたことに感動。





9月10日


翌日の朝、青木湖をみる。


まるでミステリーものの殺人事件の


舞台になりそうな青く澄みきった静かな湖で


晴れると湖面にはまるで鏡みたいに風景や空が映り込んでいた。


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桟橋の先端に立ってもらって湖をみながら振り返って


「そう、わたしが犯人だ」


と言う映像をビデオカメラで撮ろうと試みる。


犯人プレイは案外むずかしい。





ボスの発案で丸山健二さんのお宅へ伺う。


丸山さんは有名な作家で、長野に住んでいる。


車三台で引率の丸山さんの車を追うのだけれど


最後尾を運転していたおれはちぎられて道に迷った。


丸山さんはミニマム80キロが基本らしく、


40キロ道路を80キロでがんがん飛ばしていた。


こっちの地域の人々はなんで峠バトルモードがデフォルトなんだ?





おそばやさんで天ぷらそばをご馳走になったあと、


丸山さんの家に伺い、庭を見せていただく。


秋なので花は全然咲いてなかったのだけれど


庭に咲いた花を撮った写真を見せてもらう。


セミの羽化の一連の各プロセスが


夏のある一日のある晩にしか起こらない一瞬のイベントであるように


花も満開になって咲いているのは一日ぐらいしかなく


しかも太陽の光は一日のなかで時々刻々と変化しているので、


ある花の生命力が一番溢れている瞬間を写真に撮ろうとすると


シャッターチャンスは一年のなかのある一日のある一瞬しかないという。


その一瞬を捉えた写真を2百枚ぐらい見た。


見たことのない花ばかりで、


それら花たちが一瞬みせる生命力の発露みたいなのが


写真に焼き付けられていて、すごかった。


こんど花の本を出すらしい。





おはなしも面白かった。


文学は19世紀がピークなのだという。。


どんな作品があるのか聞いておけばよかった!


その他、びっくりヒーリングばなしなどなど。


丸山さんは人生をロックしていた。


人生についていろいろ考えさせられた。


新刊の「生きるなんて」を学生全員にくれた。





一日はやく帰宅するボス・おんぞう・としまさんと別れたあと


BBQの買い出し、白馬の温泉にはいって、


キャンプ場でカレーライス+BBQをした。





9月11日


白馬のスキー場のゴンドラにのって


栂池高原へいった。


自然植物園はハイキングと山登りが


同時に楽しめておもしろい場所だった。


f:id:toooru:20070911123908j:image


f:id:toooru:20070913013746j:image:w250





そのあと、熊が出没する山奥の秘湯へゆく。


どうでもいいけど一句。


熊出没の秘湯に入った9.11





帰路。帰りの高速道路。


夜道、大雨、霧で道路が全然見えない中


時速100キロで走行。


まじで死ぬかと思った。


生物としての反射神経をもっと


鍛えないといけないのではないだろうかと思ふ。





研究室のみなさま、お疲れさまでした。


楽しい旅でした。


火曜日, 9月 04, 2007

エヴァンゲリオン


一ヶ月ぶりに日記を書いてみて


自分が感じたこと考えたことの半分も書けないことに


がくぜんとする。


なんで文末は「思う」・「思った」ばかりなんだ?


風景描写と人物描写がないからだろうか。





というわけでしばらく文章修行モード。





今日、映画のエヴァンゲリオンを見た。


おもしろかった!


テレビ版よりも心理描写が緻密になっていて


なんといっても使徒の動きがいい!


一見の価値あり。





エヴァンゲリオンのひとつの大きな功績は


綾波レイというヒロインを生み出したことだろうと思う。


そのあとのたくさんの模倣作品をみればいかに


大きなインパクトを与えたかということがわかるのだけれど、


宮崎駿はナウシカというすばらしいヒロインを生み出したけれど


きっと綾波レイは生み出せなかったのではないだろうか


とかと考えると


男の作者が、ヒロインを生み出すプロセスというのは


いったいどういうことなのだろうか、と思う。


理想の投影?





そういえばマンガにナウシカ第1巻の巻末によると


ナウシカというのはギリシャの叙事詩オデュッセイアに


登場するパイアキアの王女の名前で、感受性がとても豊かな


魅力的な女性として描かれていて、それと、今昔物語に登場する


虫愛(め)ずる姫君という野原を飛び歩き芋虫が蝶に変身する


姿に感動したりする姫君がいつのまにか同一人物になっていて生まれたらしい。





あとエヴァンゲリオンの世界観を支える


ひとつの要素として


機械がヒトの精神とシンクロする


ヒトの精神に呼応する


ということが挙げられると思う。





現代の科学技術は


バイオフィードバックとかは昔があって


脳波のα波を脳にフィードバックすると


α波を意識的に出せるようになる


という技術はあるけれど


ヒトの精神の一番よくわからないところを


検出し増幅してくれる機械をつくることは


いまだできない





先の戦争では日本の根性・気合いの精神論は、アメリカの物量の前に


破れてしまったわけだけど、


もしもそのような


気合いを増幅する機械


があったら世界はどうなるのか?


その仮想シミュレーションをしているのが


日本のロボットアニメなのかもしれないと思った。





情報科学では


A.I.(Artifical Intelligence)と並んで


I.A.(Intelligence Amplifier)という概念があって


ようは、コマンド入力の時代と比べれば


ウィンドウズのようなGUIは


人々の作業効率を著しく上げていて


人々の知性を増幅したと見なせる。


コンピューターは人の知性を増幅した。





そこで、もっと精神とシンクロするような


機械はつくれないのか?と考えてみる。


なづけて


S.A.(Spirit Amplifier)





人生の壁ってやつを乗り越えることを


助けてくれる機械はつくれないものか。





"memory+"の応用範囲は


案外ここにあるのではないかと思ったりする。


月曜日, 9月 03, 2007

進化の学会


いつのまにか9月。


進化学会でボスの代打ではなすことになり


8月は進化学会の準備で潰れた。





意識における進化の収斂というテーマのもと


水無脳症の赤ちゃんは皮質がなくても意識があるようにみえる


鳥はvisual awarenessをもっているのか


タコは賢いけど意識があるのか


これらに共通の意識が生まれる神経機構はあるのか


について考えてはなしてきた。





複雑系コミュニティのひとたちは


意識を時間の側面から捉えていると思う。


一方、脳科学者は、意識があるときは


ココとココが活動した、みたいな脳計測の図をいつもみているので


気づかないうちに意識を空間的イメージで


考えてしまっているのではないか?と思った。


ということは逆に、


複雑系の研究者は力学系のモデルを研究しているから


時間的な性質に引きずられていると言えるのか?





それと


複雑系の人たちにとって意識とはなにか?という問題は


生命とはなにか?という問題と同義で


ヒトの意識もハエの意識も粘菌も同列のものとして捉えていて


脳の構造にはあまり興味がないように見えた。





養老さんが唯脳論で


空間(=構造=視覚)と時間(=機能=聴覚)は相容れないもので


たいてい、ひとりの脳の思考は、どちらかに偏る傾向にある


ということを論じているのだけれど


それってまさにこの問題ではないかと思った。





今回は意識を思いっ切り構造=空間的なものとして考えて


いたことに気がついて、もっと時間的なものについて


考えよう、と思ったのが今回の学会の一番の気づき。


その他にもいくつかの重要なインスピレーションを得る。


断らずに引き受けてよかった。











帰りに智積院にいった。


等伯の「楓図」がよかった。


f:id:toooru:20070904040946j:image


http://www.chisan.or.jp/sohonzan/keidai/syuzoko.html





等伯の息子が25歳のときにかいた「桜図」もあったのだけれど


その息子は26歳のときに他界してしまって


この世の無常を思った等伯が、


全身全霊を込めて描いたのが「楓図」であるらしい。


現物のふすま絵は色が薄くなっていて、


写真のような色鮮やかさは、感じられなくて


なんでこれが国宝なんだろうと思いながら、でも国宝なんだから


きっとどこかすごいところがあるに違いないと思って


しつこく見ていたらだんだんと「楓図」がすばらしいものに見えてきた!





なにがいいのだろう?と考えていたら、


それは若冲の絵と同じで「生命力」が感じられる


というところに惹かれていて


絵のなかに植物の「生命力」というものをどう描き表すか?


という問題に等伯は立ち向かったんだなーと考えていたら


進化学会で、郡司さんの生命をいかに記述するか?


生命をどんなイメージで捉えるか?という問題意識や


ベルクソンが純粋持続ということばで捉えようとした


脳のなかの生命現象のイメージとか


そういったものたちがあたまのなかでぐるぐる回りはじめて





それらの仕事たちは、


生命をどう記述するか?どうやったら自分には


ありありと感じられている「生命」を、


そのまま失われることなく他人にも感じさせることができるか?


という共通の精神をもった、


異なるチャレンジの成果なのかもしれない、と思った。


月曜日, 7月 30, 2007

カユカユ地獄


三連休の頃、蚊に食われたと思って


足の太股ふきんの赤い発しんを掻いていたら


枯草の野原で野火が一気に燃え広がるように


赤い発しんがまたたくまに身体中に広がって


皮膚科にいったら、多形滲出性紅斑という病気に


かかっていることを知る。





とにかく痒くて、一番ひどいときは


起きているときは我慢できても


夜寝ると無意識に掻いてしまって


2時間置きに目覚めてはかゆみ止めを塗る


という行為を繰り返す。


それで、しょうがないので、ベルトで両手首を縛ってみても


なぜかほどいて掻いている状態で目を覚ます。





痒いところを掻くとなぜかとても気持ちがよくて


掻き始めると、止められなくなって掻いていると


だんだん皮膚が破けて血が出てきて


爪が血みどろになりながらもまだ気持ちよくて掻きつづけると


皮膚の表面が燃えるように痛くなって


ようやく掻くのをやめる、


というカユカユ地獄におちる。





苦しい・・と思っていたら束芋さんの新作の作品の記事が日経新聞に載っていた。






 その束芋が満を持して出典した新作が、三階建てのドールハウスを舞台にした「dollfullhouse(ドールフルハウス)」(六分三一秒)だ。


 大画面に巨大な手が現れ、ドールハウス内部にデーブルやイス、ピアノやベッドを置いていく。巨大な手は途中、我慢できずに手をかきむしる。家具は配置を終えたと思えた瞬間、手でなぎ倒された。


 ドールハウスは「世界を縮小したもの」に見立てられている。家具を「ここ」と思う場所に置いているはずなのに、出来上がるにつれ理想の配置とズレていく感覚。そして、「破壊」。


 創作の源は個人的な出来事にある。アトピー性皮膚炎だ。かゆい感覚を我慢できずにかきむしる行為(破壊)。かいた瞬間の快楽と痛み。薬を塗ると皮膚は再生(構築)する。「痛みを伴うと分かっていて、かいてしまうといったことは世間にままある。かきむしる行為を必ず表現できると思っていた」と言う。






このカユカユ地獄も、文脈を変えるとアートになってしまう


この世界の奥深さを想ふ・・。





ここ一週間で、ぼつぼつあった発しんが平たくつながって


日焼けし過ぎて赤くなった皮膚みたいになって


ここ数日で、皮がむけ始めた。





しかし、痒い皮膚を掻くと快感を感じるのなぜだろう?


その脳内メカニズムはなんなんだろうとおもってぐぐると


皮膚には痒み受容器と痛み受容器があって


痒み受容器がアクティブになっていて脳が痒いと感じているときに


掻く=痛みの受容器を刺激すると


脳内で”痒い”と”痛い”が相互作用して快感になるらしい。


本当なのか!?


痛みと快感の脳内部位は分かっているけど、


痒みの脳内部位は分かっているのだろうか?





クオリア空間では、


痒み+痛み→快感


という”化学反応式”が成り立つところがなんだか面白いと思った。


月曜日, 7月 09, 2007

カクヘンモード


オンゾウがオーストラリアからかえってきた。


ワイルドになってかえってきた。


ゼミでもせっきょくてきに発言するようになっていて


めをみはる。


感動が人生の分岐を生む・・というイメージを得る。





高城剛さんの「「ひきこもり国家」日本」を読む。


そのまえにオマケイに勧められて


「ヤバいぜっ!デジタル日本」も読んだ。





ずっと


資本主義とはなにか?お金とは?


格差社会の本質とは?ネットワーク化社会の本質とは?


ということに興味を持っていたのだけれど


「ひきこもり国家」日本を読んだら


ひとつの俯瞰したイメージを得ることができた。





世界はカクヘン(確率変動)モードにはいっていて


パチンコのそれと同じように、成功する確率が高い状態になっているという。


それに気付いた国・個人は当たりを引き


それに気付けぬ国・個人は下流に落ちていく。


そんなマカ不思議な世界に日本はすでに呑み込まれてしまっているという。





そういうはなしは時代の空気からなんとなく感じていて


だからこそ、これからのみのふりかたを真剣に考えるのだけれど





怖ろしいのは、ロジカルに考えてみるとどうも確実に


自分が生きている間に(おそらく20年以内に)


石油が枯渇するというイベントと


国が1000兆円の借金に徳政令を出すというイベント


に立ち会うことになりそうで


おそらくわれわれの世代(70年代生まれ以降)がジョーカーを引く。


「混乱」の時代に必ず遭遇することが約束されている


という事実はどんなホラーよりも怖ろしいことだと思った。





そしてそれにサバイバルするための最高のリスクヘッジがじつは


カクヘンモードに挑戦するということになって


みのふりかたをどうする?の問題に戻ってくる。。


金曜日, 6月 29, 2007

CHEETOS&本居宣長&落書き


ノザワからもらったアメリカおみやげのCHEETOSをつまみつつ


コーラを飲みながら、ネットサーフィン。


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このあじの組み合わせを生みだしたアメリカ人って天才かも!!と


茶の間でおせんべいをたべつつほうじ茶を飲むシアワセ感に


まさるともおとらないシアワセな気分に浸りつつ


と同時にハイカロリーゆえからなのか、タイハイ的な気分にもなる。


んー、これぞアメリカン。。





ここ数日、小林秀雄の「本居宣長」をひたすら読んでいて


やっと下の100ページまで到達。


この本はすごい。


「芸術」論であり、「言語」論であり、「人生の意味」論であり、


「学問するとは?」の本でもある。


いままでピースごとにあーでもないこーでもないと考えていたことが


まるでパズルのように組み合わさって、いちまいの絵になった気がして


「人生の無限大の起伏」を感じたかも(笑)。





あとどうでもいいけど


最近研究所で蒐集した落書きたち。


f:id:toooru:20070611134417j:image:w200


セキネの落書き。


f:id:toooru:20070621171747j:image:w200


セキネの落書き。


f:id:toooru:20070621171736j:image:w200


セキネの落書き。


f:id:toooru:20070621171814j:image:w200


おれの落書き。


日曜日, 6月 03, 2007

「動植綵絵」


5月31日(木)


AM 06:20、京都駅につく。バスのなかで一睡もできず京都御所のベンチで睡眠。


f:id:toooru:20020901000000j:image:w150





AM 10:15、展示場の相国寺につく。10:00開場のはずなのに


すでに行列ができていて待ち時間50分という表示があった。


平日にもかかわらず恐ろしく混んでいて驚く。





AM 11:20、第一展示室に入る。ふすまに書かれたふどうの絵がよかった。


第二展示室までの廊下でまた行列。





AM 11:40、やっと目的の動植綵絵のある部屋にたどりつく。


中央に釈迦三尊の絵が3枚あって


その周囲と左右の壁面いっぱいに30枚からなる動植綵絵が並んでいた。





(パノラマ動画→http://jakuchu.jp/jotenkaku/











量の変化が質の変化を生み出すという現象が確実にあって、





東大寺の大仏みたいに、10センチの大仏像を10メートルにしてみて


初めて生まれる何かがあり





三十三間堂みたいに、千手観音像を同じ空間に千体並べることで


初めて生まれる何かがあり





同様に


動植綵絵は若冲が10年という月日をかけて、一枚一枚に、


鶏、孔雀、オウム、鳳凰、雁、虫たち、貝たち、海の生き物たち、牡丹、アジサイ、菊、梅花、松・・


などなどの動植物を息をのむクオリティで描き込んだ作品群で


それらがひとつの空間に30枚並ぶことによって


初めて生まれている何かがあると思った。





なにも考えずにひたすら見るということをしてみる。


1周して、2周して、3周目から頭のなかでいろいろ言葉がでてきた。





去年上野で若冲展がやっていて、


若冲の描くニワトリはすごい存在感があるんだけど


なぜ若冲のニワトリは、本物のニワトリよりもニワトリらしいのか?


ということを疑問に思ふ。


http://d.hatena.ne.jp/toooru/20060822





その答えが今回わかった気がした!





それは、実は自分は本物のニワトリがどういう姿・形をしているかを


本当は知らなくて、若冲のニワトリを見て、若冲の眼を借りて、


はじめてニワトリがどういう姿・形をしているかを知る


ということなのではないかと思う。





一般的な話になるけれど、普段われわれは、ニワトリを見ているようで


実は記憶のなかのニワトリを見ている。なので絵のトレーニングを受けていない人は


ニワトリを描いてと言われると、記憶のなかのニワトリを描くのだけれど


それはぜんぜん現実のニワトリからは程遠い形をしている。





だから絵画を専攻する人はデッサンでひたすら対象を「見る」訓練をするわけで


芸大生のハッスーは卒展で鳩のマンガを描いていたけれど


その鳩を構成しているシンプルで味のある線は


彼の膨大な実物の鳩の観察と写生からしか生まれえないもので


http://i-mind.blogspot.com/2005/01/blog-post_28.html





同じく芸大生のウエダ君のアニメの味のある線もやはり


膨大なリアルなモノの観察とデッサンの積み重ねからしか生まれてこない。








要は、記憶でモノを見ないためには、ひたすら見る、観察するということが


重要で、若冲も庭にニワトリを飼っていて、何年もひたすら観察していたという。





具象と抽象の間の問題というのがあって、この前NHKの新日曜美術館で


藤原正彦さんが福田平八郎について語っていて


福田平八郎もひたすら自然を写生しつつ、その上で


対象を抽象化・シンプル化して本質的なものだけを残すのが上手くて


福田平八郎は、なにげない日常のなかで絶えず新しい視点を発見をしていて、


だれでも見ている風景を、だれもみたことのない視点でとらえて、


見ている人に、なるほどそうだった!と気付かせてくれる


という解説にグッときた。





たとえば、これ。「美の巨人 福田平八郎 『漣』」


http://www.tv-tokyo.co.jp/kyojin/picture/f_060107.htm





要は、膨大で具体的な体験の集積によってはじめて


うまれてくる抽象というものがあって


これはいま科学の分野で、脳とか細胞とか生態系とか経済とかウェブという


超複雑なシステムを、いかに観察して、そこから、


いかに本質だけを抜き出して対象を理解するか?


という問題ともリンクしていると思う。





若冲は「鶏図押絵貼屏風」のように


墨の線だけで存在感のあるニワトリを描くことができたのだけれど


動植綵絵のニワトリのすごいところは、


「若冲的な抽象化された線」と「具体的な細部」が共存しているところに


あるのではないか、と思った。





どうしょうもない比喩だけど、もしリラックマに細部を描き込んでしまうと、


リラックマではなくなってしまう感じがするけれど


若冲のニワトリは、そこに見事な毛並みが羽に描き込まれていたり、


しかも点のドットでできた真っ赤なトサカとか、


黒いニワトリの黒い毛並みが微妙な違う黒で描かれていたりとか、


茶色・白・黒によって織りなされた毛並みとかのように、


極彩色で構成される細部の色彩感覚も素晴らしくて


そういう細部によって、ニワトリの存在感が生まれている感じがする。





作品が放つ「存在」感を支えている細部の集積というものがあって、


その「集積」は、単純な加算の集積ではなくて、


おそらく、有機的に絡み合った集積というかたちをとっていて、


しかも、細部としてなにを作品に持ち込めるかは


芸術家がなにを集積していて、なにを抽象化できるかということに拘束されている、


というところが面白いと思う。





と、ニワトリだけみても、なんだかいろいろと思うことがあるけれど、


植物も素晴らしくて、細部はどちらかというと


花のなかのひとつひとつの花びらとかのほうがすごく細かく描き込まれていて


「紫陽花双鶏図」の青と白のアジサイ


「向日葵雄鶏図」のひまわりとアサガオ


「牡丹小禽図」の30個以上の赤、白、ピンクの牡丹が咲き誇る様子、


「梅花皓月図」の梅花が咲いた枝が幾重にも重なることでつくりだされる奥行き間


それと、月の存在によって生み出される幻想的な雰囲気


「老松鸚鵡図」のオウムがのっている蛇のウロコみたいな妖しい松の幹


などなど、植物だけで十分絵として素晴らしいところに


動物もいる!という感じで、その上、その構図もすごいという


なんというか、これもすごい!あれもすごい!全部すごい!という印象をうけた。





個人的には若冲の描く植物がとても新鮮だったせいか


「牡丹小禽図」と「梅花皓月図」がよかった。


よくあることだけど、実物と図録の写真は色が全然違っていて


きっと図録の写真だけみたら、そうは思わなかったと思うけど


実物を見ていたら、


「牡丹小禽図」は構図の中心らしきものがないなかで牡丹が


圧倒的に咲き誇る感じがよくて


「梅花皓月図」は梅花の不思議な奥行き感と月が生み出す


幻想的な感じがよいと思った。





きっと「動植綵絵」を次に見たらまた全然違う発見があるはずで、


3時間粘って見ていろいろ考えてみたところで、結局


とても限定的で部分的な要素にしか注意は向けられなくて


しかも「動植綵絵」はいくらでも分析したくなる要素を提供しながら


一方で、1枚1枚が分割できない全体として強烈な存在を生み出していて


さらに、30枚+釈迦三尊像の3枚が


ひとつの全体してなんだか拝みたくなる雰囲気があって


これはすごい作品だ、と思ふ。


水曜日, 5月 30, 2007

夜行バス


ただいまpm23:00。


京都行きの夜行バスの中。


なんだかとても楽しくなってきて日記を記す。





最近見た映画で、タイムスリップが確立した未来から、


歴史的に「いま」しか見ることができないことがわかっている


(それより過去ではどこにあるかわからなくて、それより未来では消失してしまっている)


一枚の絵をどうしても見たくて未来人が現在にやってくる、


という設定があって、格好いいと思う。





人生を変える一枚の絵は存在するのか?





そんな一枚の絵に憧れて、


いま京都で100年ぶりに公開されいて今後いつ公開されるか分からない


若沖の動植さい絵を見に行こうと思い立つ。


ついでに竜安寺と京都に住んでいる姪にあってくる予定。


土曜日, 5月 05, 2007

姪の写真


子供の日。兄上が姪の写真を送ってきた。


どちらかというと姪姉はウチの家系似、姪妹はオクさん似。





f:id:toooru:20070503103317j:image











日々の実感だけど、脳ってどんどん変化している、と思う。


養老さんが「人間科学」のなかで、どんどん脳が変化してしまうヒトは


その不安とか、よるべなさをやわらげるために、


外に固定点をつくるのではないか?と書いてあって、なるほど!と思う。


建物も聖書も、脳の外に存在する安定したなにかであって、


それが、どんどん変化するヒトの脳にとって、自分とか、民族が


何者であるのかを確認するための固定点の役割を果たしてきたのではないか


と書いてあった。





身近に引き寄せて考えてみると、


研究で成果をだすとか、作品が賞をとるとか、


社会において一定の評価を得る、何ものかになる、


はたまた、組織に属するとか、きっと家庭をもつことも、


それらはすべて固定点の役割を果たすのだと思う。


外に存在していて、自分が何者であるかを保証してくれるもの、


自分が何者であるかを固定してくれるもの。





また、きっと固定点は外に直接存在していなくてもよくて


これはいける!と感じるアイデアとかコンセプトとか問いだって、


固定点になるのだと思う。





変化するとか、成長するという言葉は、


脳が固定点に向かって積極的に適応した状態を指すのかもしれないし、


脳が自ら積極的に新しい固定点を生成した状態を指すのかもしれない。





固定点があるから、脳は安心してどんどん変化できる。


固定点がないと、脳は不安で不安でたまらないけれど、やっぱりどんどん変化していく。





自分が変わらないと思っている人は、実は自分が変わらないように、


変わり続けているだけで、そして


自分が変わるということを肯定している人も、どの方向に変わっていくのかを


自分でコントロールすることはとても難しい。。





思考というのは、モグラのようにトンネルを掘っていくイメージに似ていて


それと、養老さんが、どん底のときは「底を掘れ!」と言っていたのを思い出して


それで最近、徹底的に掘ってみようと思いたつ。


固定点を見つけるために、すべてを動員して徹底的に掘ってみよう。


月曜日, 4月 30, 2007

英語耳


TOEICの得点が限りなく満点に近くて、10コ以上の外国語を操り、


英語の講師もしていて


今年から社会人から研究室の学生になったトシマさんが


研究室の学生の英語力パワーアップのために無料の英語レクチャーを


開いてくれていて、それを聴きに御茶の水の明大のリバティービルへ行った。





外人と対面したとき、軽い会話(small talk)をするための


いくつかのパターンを教わる。





徹底的に、単語の発音の仕方を修正される。





たとえば、


youの前には「い」入れて発音する気持ち ex: you いーユー


nの単語の前には「ん」を入れる気持ち  ex: notは、んーノット


sの単語の前には「す」を入れる気持ち  ex: sendは、すーセンド


beenは、ビーンではなくベン


behindは、米国ではビィ・ハインドではなくて、バ・ハインド





などなど、1単語1単語についてネイティブの発音方法を丁寧に教えてもらう。


そして、それを何度も何度も発音してみるという練習を繰り返した。





そうしたら、行きの車のなかで神経科学者のラマチャンドランの


BBCの英語の講演トークをiPodに入れて聴いていたのだけれど





Lecture 5: Neuroscience - the New Philosophy


http://www.bbc.co.uk/radio4/reith2003/lecture5.shtml





帰りも同じトークを聴いたら、聞こえかたが全然違っていることに気がついた。


行きの車のなかでは、連続する英語の音に対して、


そこから一生懸命、単語を切り出しているイメージだったんだけど


帰りの車のなかでは、連続する英語の音に対して、


それを自分で発音するためにとるであろう口の動きを無意識にイメージしていた!!


つまり、聞き取れる音が増えていた!!





こっこれは!!と思って家に帰ってから


昔、話題になっていたので買ったけれど一度も読まなかった


英語耳」という本を手に取る。


ずっと忘れていたんだけれど、


表紙に「発音できない音は聞き取れない。」と書いてあって


そうか、このことだったのか!と思った。


これから毎日付属のCDを聴きながら母音と子音の発音練習をしようと決心。





どうでもいいけれど、なにかを掴んだときに、開眼するっていうけれど


なんで、開耳ってないんだろうとかと思ってググってみたら9670件のヒットがあった。


すでに造語として流通しているらしい。。みんな考えることは同じか・・。



土曜日, 4月 28, 2007

コンサート


ハープ奏者の友人のコンサートをききに、めぐろパーシモンホールへ。


ハープとヴァイオリンとピアノが協奏するコンサートで


初物づくしでとても面白った。





席の場所からピアノの鍵盤がよく見えて、


ピアノ奏者の指の動きってこんなに超絶技巧なんだーと思ったり


ヴァイオリンってこんなに感情の機微を表現できる楽器だったんだーと思ったり


ハープとヴァイオリンの協奏曲をきいていたら


その絶妙なハーモニーにとても感動したんだけれど


ハープの音色がとても不思議な感じがすることに気がついて、


ヴァイオリンが「剛」でぐいぐいおしていくイメージだとすると


ハープは「柔」で全体を包み込みこんでいるようなイメージが湧いた!





ハープの音色というと経験的に連想してしまうのが、


任天堂の「ゼルダの伝説」というゲームの「妖精の泉」という


体力を回復してくれる場所で流れるこの曲で


http://home9.highway.ne.jp/atelier/izumi..mid


俺の頭の中では、ハープの音色と妖精のような癒しのようなイメージが


結びついてしまっていたのだけれど





ハープとピアノによる「ヒナステラ」の「ハープ協奏曲」の第3楽章を聴いたら


現代音楽風でとても不思議な曲なんだけど、


とてもパッションあふれていて、こんな表現もできるんだーという感覚が新鮮だった!





感情を音に変換できる能力ってすごいことだなーと思う。


いつも思うことなんだけれど、楽器の演奏者ってカッコいい!と思った。


月曜日, 4月 23, 2007

ポーカー犬とジョークを思いつく思考のプロセス


某大先生と松本人志さんの対談のmp3を某ルートからゲットして


聞いたら、超おもしろくて、脳科学的に特に面白かったのが、


コントのとき、松本さんは台本をかいたことはなくて


すべて即興で、しかも、しゃべるまえに頭のなかに


おちのイメージがはっきり浮かんでいるらしい。





昔、松本さんの「哲学」という本に以下のような


驚くべき記述があったことを思い出した。






松本人志 「哲学」より抜粋


 僕は、「いつも何かを考えながら喋っているように見える」と人からいわれることがある。


 たしかに、そうかもしれない。


 自分の感覚でいうと、頭の中に何個か考えがあって、そして、その場でそのうちのどれを喋ろうかと選んでいる感じなのだ。






これはどういうことなんだ!?と思う。





最近、山田一成さんと佐藤雅彦さんの共著「やまだ眼(がん)」という本を


思わず買ってしまったら、佐藤さんがボケを以下のように分析していて


鋭い!と思った。






山田一成 佐藤雅彦 「やまだ眼」より抜粋


漫才で、つっこみに対してぼけた話をして客を笑わせる役がぼけである。とても意図的で頭脳的な所為である。ダウンタウンの松本や爆笑問題の太田光が典型である。彼らは一見とぼけているが、今その場でみんなが何を思っているか誰よりも知っている。だから確信的に、場違いな言動ができる。






ロジカルに考えるならば、


意外性があるとか予測を裏切るというのは


まず予測の存在を前提としていて


脳はそこからちょっと外れているときに


意外性があると認識するようにできている





だから、狙って、ぼける=相手の予測を裏切るためには


「A」というはなしのとき、相手はつぎに「B」が来ると予想している


ということに気がついている必要があって


その上で、「B」のかわりに「C」「D」「E」・・のどれを言おう?


という候補を思いつかなければならない。





でも、この「AのつぎはBが来る」という規則は、普通、


常識とか固定観念と呼ばれていて、無意識下に沈んでいて、


思考とはふつう、そのような無意識下の規則の上を自動的に流れていくものなので


狙ってぼけるためには、まずそのような無意識になってしまっている


「A→B」という規則に意識的に気がつかなければならなくて


その状態が、佐藤さんの


「今その場でみんなが何を思っているか誰よりも知っている」


ということなのだと思う。





それで、話はやや飛ぶんだけれど


どうすればこれに気がつけるようになるか?ということを考えてみた!





それで思い出したのが、昔読んでいた


「頭が良くなるジョーク」というメルマガで


http://www.melma.com/backnumber_94862_629357/


これはジョークのオチの部分が空白に何が入るかを考える


ことで頭を良くしようという趣旨のメルマガで


これを「まとも」にやると、


まず常識的な答えはどうなるかを片っ端から考えた上で、


そこからはずれるとはどういうことか?ということを


自然に考えるようになる気がしてやってみた。





たとえばこの問題。






<問題>


 ある酒場でポーカーをやっている犬がいた。それを見た客が驚いてこう言った。


「こいつはすごい! ポーカーができるなんて何て賢い犬なんだ」


 すると、一緒にポーカーをしていた男が答えた。


「いや、そんなにすごくもないよ。だって……」


 さて、男はこのあと何と続けたでしょう?






むむむ。思いついたことを片っ端から書いてみると・・





1「あたりまえだろ?」


2「犬なんだから」


3「本当は見ているだけなんだから」


4「こいつはポーカー犬なのさ」


5「トランプをながめているだけなんだから」


6「こいつはトランプが好きなんだから」


7「犬でも模様はわかるのさ」


8「こいつは俺の犬なんだから」





・・・なんのひねりもなーい!!


なんてつまらないことしか思いつかないんだ!


と嘆きつつ、ふと操作されてるのかも・・と思って





9 「こいつは、おれの命令通りに動いているのさ」


10「なかに人間がはいっているのさ」


11「こいつは犬に似た人間なのだ」


12「こいつのなかみはアイボなのさ」





これまた全然おもしろくなーい!!と思ふ。





しょうがないので、もっと飛んでみようと思って





13「こいつは宇宙からやってきた宇宙犬なのだ!」


14「こいつは脳をいじられてIQが100もあるのさ」


15「こいつはいつもポーカーフェイスなんだから」





・・・同じところをグルグル回っている。。





わからない!!





こういうときは、問題を整理するために


可能性を列挙してみようと思い立つ。





1「犬」という言葉を疑って


・犬がスーパー犬であるという可能性


・犬に擬人化の設定がされている可能性


2「ポーカー」という言葉を疑って


・ 犬は普通で、かつ擬人化とかはなく現実的な設定で、ポーカーをするという行為を別の意味で解釈できる可能性


・ ポーカーをやっているようでいて、見せかけとか、実はやってない可能性


・ 犬は実はポーカーをしてなくて、誤解している可能性。


3 ダジャレでオチる可能性





うーん・・とまたしばらく考えてみたけれど


オチらしいオチを思いつかなかったので


答えを見ることに。。





答えは、





「いいカードが来ると、うれしくて尻尾を振ってしまうんだ」





がーーーん!!


そんなオチなんかい!!犬がポーカーをふつうにやってんじゃん!!


ムキーッ!!と思う。





冷静になって分析してみると


「犬」「ポーカー」には注意が向いていたけれど


「賢い」には向いてなかったことに気がつく。





「ポーカー」ができる「犬」というのは前提にしてよくて


その上で、「賢い」という意味をどうとるか?と考えなくてはいけなくて





「ポーカー」における「賢い」とはなにか?→ポーカーフェイスができること


犬はヒトと違ってウソがつけない→ポーカーフェイスができない→感情を隠せない


→嬉しいと感情が出てしまう→いいカードが来ると嬉しくて尻尾を振ってしまう!!


という連鎖が頭の中で起こると、このオチにたどりつけることがわかった。





うーむ。。難しいなり。。





でも、こうして、あーでもない、こーでもないと徹底的に考えてみると


オチを掘り当てるプロセスそれ自体になんだかリアリティを感じるようになってきて


頭が良くなった気がした!(当社比だけども。。)


おすすめ!











最後に、保坂さんが「言葉の外へ」という本のなかで



 疑問を出すことは答えることよりも難しい。たとえば、リンゴが落ちるのを見てニュートンは万有引力を発見したとされているけれど、発見つまり答えより先に、「何故落ちるのか?」という疑問があった。ニュートンは、「何故落ちるのか?」という疑問を出すことのできた人だったのだ。


 小説は万有引力のようなたった一つの答えを出すものではない。小説の中でリンゴが落ちたら、「リンゴにも意志はあるのだろうか?」でも「リンゴもまた宿命から逃れられない」でも「落ちるタイミングが絶妙だった」でも「どうしてそういうことが気になるのだろう」と考えるのでも何でもいい。できる限り多くの疑問や仮説を出して、作者と読者がこの世界を限定して見ないようにする場所に連れていくもの、それが小説だ。それは幼年期から持ちつづけた疑間にとても近い。そしていまの日本では、想像力が磨耗した大人からは、やけに遠くなってしまった……。






と書いていて、この


「世界を限定して見ないような場所」を目指して「できる限り多くの疑問や仮説を出す」


という思考のプロセスって、ジョークのオチをみつけるために


ひたすら考えることに似てないか!?と思った。


火曜日, 4月 10, 2007

ポンテギ記念日


研究室の帰り、久しぶりにセキネ、ヘライ、オンゾウとチェゴる。


チェゴヤは五反田で一番人気の韓国料理屋で(たぶん)、


おれはいつも石焼きカルビ丼ばかりを頼んでしまうのだけれど、


研究室一のゲテモノーズ(ゲテモノを好んで食す人種)のセキネが


ポンテギをオーダーして、生まれて初めてポンテギなるものを食べる。











f:id:toooru:20070410213428j:image





蚕のさなぎを油で炒めるとこうなるらしい。


腹部のシマシマ模様をみた瞬間にこれはだめだ・・と思ったけれど


となりのヘライが美味しそうに食べはじめたのを見て、


モノは見ないようにして、勇気を出して食べる。





こっ、これは!





表面はカリカリしていて、しかし中身は柔らかで複雑な味がした。


例えるならば、表面はココナッツで、その中にココナッツ・ミルクが


入っているような。。





これにふさわしい説明はなんなんだろうと考えているうちに


だんだん、豊潤(ほうじゅん)な味、という表現ってこのためにあるんじゃないか!


と思われてきて、


最後には、これこそ、大地の恵みだ!と思った(笑)。


某大先生ならば「ポンテギは大地の宝石ですね」、、と言うかもしれないと


勝手に想像をめぐらしつつ、3つほど食す。











帰り、別々に精算をして、セキネがレジの人に


「ポンテギと生ビール」と言ったら


レジの人がセキネの顔をはっと見て、


生まれて初めてみるような笑顔でほほえんだらしい。





ひょっとしたら、ポンテギと生ビールという組み合わせは、店員さんに


チェゴヤ・マスターであることを示す秘密の暗号だったのかもしれなくて、


もしかしたら、セキネはその組み合わせを幸運にも探し当ててしまったのかもしれない


とかと勝手に想像をめぐらす。











最後に、セキネのココロのうたを一首。





この味がいいねとあなたが言ったから


4月10日はポンテギ記念日


木曜日, 4月 05, 2007

目黒川の桜


五反田駅から中目黒駅まで、目黒川沿いを歩いた。


目黒川の桜並木たち。





f:id:toooru:20070405165136j:image











桜を見ながら、川沿いの歩道を歩きながら、物思いにふける。


頭は絶えずフロー状態っぽいけども、かなり煮詰まり気味。


どうにかして、道をつくらねば・・と思う。











そういえばこんなホームページをみつけた。


ポール・グレアム 知っておきたかったこと


http://www.practical-scheme.net/trans/hs-j.html



ぼくの友達の一人は、学校で提出するレポートに苦しんでいると母親が「それを楽しむ方法を見付ければいいのよ」っていうんだとぼやいていた。でもそれが、やるべきことなんだ。世界を面白くする問いを見つけ出すんだ。素晴らしい仕事をした人は、ぼくらと違った世界を見ていたわけじゃない。ただこの世界の中の、ほんのちょっとした、でも不思議なことがらに気づいただけなんだ。












世界を面白くする「問い」を見つけたひ。


土曜日, 3月 31, 2007

受胎告知とお花見


お花見をしに上野公園へ。





時間があったのでまずダ・ヴィンチの「受胎告知」を見る。


混んでいたけれど、二列目の壁ぎわに生じたよどみにまぎれて


30分ぐらい居座ってずっと眺める。





初めて見たとき、まず素朴に「おおおー」と思う。


なにが「おおおー」なんだと考え始めると


まず天使カブリエルの服のシワシワの質感がすごいことに気づく。


真ん中に置いてある置物の装飾の質感もすごいことに気づく。





カップルで来ている人々は必ず二人で感想を言い合う傾向があって


「○○がすごいねー」と言って去っていく。


「天使の肌がきれー」とか、「服がすごいねー」という感想が多かった気がする。





耳を澄ましていると


「マリア様の表情って悲しんでいるのかなー、喜んでいるのかなー、


どちらかというと喜んでいるよね」


と言っているのを聞いてはじめて表情をまじまじと見る。


悲しいとか嬉しいとかではなくて、運命を受けいれた顔のように見えた。


(と同じことが後で美術館の外のテレビの解説を見たら言われていた)





さらに耳を澄ましていると、


「光がすごいねー」という感想が聞こえてきて


そこで初めて空間全体に存在している光の明暗の質感に気づく。





なにか新しい視点に気づくたびに、絵全体を見直して、


そのたびにいろいろな気づきがあって


見方がガラガラっと変わる感覚が面白いと思った。





天使の服のシワシワを見ながら、現実よりもリアルに見えるこの感じは


なんなのだろう?と考えていたら、ふと、


保坂さんの「書きあぐねている人のための小説入門」の以下の記述を思い出した。






保坂和志 「書きあぐねている人のための小説入門」より抜粋


 哲学は、社会的価値観や日常的思考様式を包括している。小説(広く「芸術」と言うべきだろうが、いまはあえて「小説」とします)も、社会や日常に対して哲学と同じ位置にあり、科学も同じ位置にある。つまり、哲学、科学、小説の3つによって包含されているのが社会・日常であって、その逆はない。


 だから小説は日常的思考様式そのままで書かれるものではないし、読まれるべきものでもない。日常が小説のいい悪いを決めるのではなく、小説が光源となって日常を照らし、ふだん使われている美意識や論理のあり方をつくり出していく。






芸術の役割とは、作品が光源となって日常を照らして


普段まったく気づいていなかったことに気づかせてくれることで


本当はありとあらゆるものはダ・ヴィンチの視覚を借りれば


天使の服のシワシワと同じぐらい活き活きとしたリアルな質感に満ちていて、


そのことをダ・ヴィンチの絵は教えてくれる・・・・





と思ったら外に出たときの桜の見え方が変わった気がした!


光の加減とか、その質感に注意が向くようになった。


(ウエダ君によるとそういう見方を学ぶことが、デッサンの目的らしい。。)





その後、ダ・ヴィンチの生涯の活動の展示を見る。


力学とは?遠近感とは?光とは?人体とは?調和とは?均衡とは?感情とは?・・


とダ・ヴィンチがもった様々な問題意識を分解して展示していて


おもしろかった!





養老さんが「考える」とは、


対象を「バラバラにしてつなげる」ことだと言っていて


ダ・ヴィンチはありとあらゆるものをバラバラにしたのだと思った。


光とはなにか?輪郭とはなにか?筋肉とはなにか?・・


「自然」と「人間」を徹底的にバラバラにして、


それぞれを科学者の思考によって突き詰めて


絵のなかで、それらを統合した。





そして養老さんによるとなぜかいったんバラバラにするというプロセスを経由して


統合したほうが、はじめから作品をつくるよりも、力強くなるらしい。






スマナサーラ 養老孟司 「希望のしくみ」より抜粋


 一つひとつの過程を「素の過程」と言います。素の過程は、数はたいしてないんです。だからきちんと分けて、それから合成してやることです。すると最初から混ぜるより、はるかに力が強くなります。なぜだが知らないけど、有効になるんです。たぶんそれは、訓練のいちばん基本だと思う。斜めにやるほうばっかり訓練しても、たかが知れているんですよ。まず、きちんと分けることが大切なんです。なにしろもともと斜めにできていないんだから。






ダ・ヴィンチの受胎告知をいつまでも見ていたいと思う気持ちの背後には


要素を徹底的に突き詰めたあとで統合することによってしか生まれない


圧倒的な多様性とか豊かさがあるのだと思った。





保坂さんの「書きあぐねている人のための小説入門」によると


保坂さんも、さまざまなことをバラバラにして、それらを突き詰めて


小説のなかでそれらを統合しているらしくて


これも「バラバラにしてつなげる」ってことなのではないか!?と思ふ。






保坂和志 「書きあぐねている人のための小説入門」より抜粋


 小説のインデックスに「テーマ」という欄があったとして、そこに何かもっともらしいキーワードを書き込むことはしなくても、日頃考えていること(たとえば「世界とは何か?」「生命とは何か?」ということ)は山ほどあるわけで、それらが全部、小説のなかに入ってくるというか、書きながらそれらの中からいろいろなものを選んでいけるので、選択肢を一挙に広げることができる。












その後、花見へ。


ウエダ君が朝の十時から場所取りをしていてくれたらしい。


とにかくすごい人の数で、桜並木の通りは、いつも渋滞していた。


でも桜が満開できれいなので、5,6回その通りを歩く。


時折、強い風が吹いて、大量の花びらが空から雪みたいに舞いながら降ってきて


その幻想的な眺めをずっと見ていたい、と思った。


日曜日, 3月 25, 2007

エンタメをサイエンスする


まとめて日記。





17日(土)&18日(日)


研究室旅行で湯河原へ。


おもしろい旅だった。


この面白さはなんなのかと考えてみると


なかなか言葉にするのは難しいのだけれど


三石海岸にいき江ノ島にもいき


場所がとてもよかったということもあるけれど、


それ以上にみんなとする会話がおもしろかった。


人々によって生み出される「場」が良いと思った。





ボスにウェブと脳科学をつなげる道筋を考えてみたらと


言われて、まじめに考え始める。











19(月)


機械学会のシンポジウムが東工大であって、


日立の小泉さんとボスの講演を聴きにいった。





ウェブと脳科学をつなげるには


ボスのいう「抽象的な報酬構造」というキーワードが


鍵な気がする。





そもそも


エンターテイメント業界において


クリエイターと呼ばれている人々は


ずっと「抽象的な報酬構造」を生み出す要素に


ついて考えてきたわけで


個々のクリエイターの脳内で、


恣意的かつ経験的に見いだされる要素たちと、


その要素たちが織りなす複雑なパターンが


「抽象的な報酬構造」であり、


エンターテイメントの面白さを生み出す。





また


エンターテイメントの生成プロセスには、


過去と未来の間には圧倒的な非対称性が内在していて


すでにできあがったものについては


いくらでも分析して、これが面白さの原因だと、


もっともらしい理由がつけられるけれど、


次になにがヒットするかはわからない。未来はいつも霧がかかっている。


要はつくってみないと面白いかどうかはわからなくて、


科学的に普遍的な法則があって、それによって


かならず未来を予測することができる、


というような性質のものではない。





でも


クリエイターの業界に8割バッターがいるということは


そのような人たちはより普遍的な報酬構造の要素を


見つけているかもしれないことを意味していて


つまり近似的であってもより多くの人の心の琴線を揺さぶる


ことができる強力な面白さの要素というものが存在している可能性があって


結局、それを見つけることができた人がクリエイターと呼ばれ


それが、個々のクリエイターの作品のアイデンティティとか個性というものを


構成する。





もし


それらを脳科学の文脈のなかで取りだせたとしたら


それは科学的にエンターテイメントを扱えたことになるのか?





ジェフリー・ミラーの「恋人選びの心」にこんな記述があった。



 もしも私のような進化心理学者が、正確にどんな刺激パターンが人間の脳を最適に刺激するのかを予測できるならば、すぐにでもハリウッドに移住して、娯楽産業コンサルタントとして高い給料をもらうことができるに違いない。しかし、私たち進化心理学者も、普通の映画プロデューサー以上にうまく予測することはできない。なぜなら、祖先の時代に普通にあった出来事に対して、普通の人がどのように反応するかについて一般的な知識はあったとしても、ある新しい刺激に対して人間の脳が正確にどのように反応するかを予測することはできないからだ。現代の人間の文化は、このすべての可能な刺激空間を探索し、私たちの脳を快楽的にくすぐらせる方法を発見しようとしている、巨大な共同作業といってよいだろう。






エンタメをサイエンスするというのは、一見なんだか問いが


間違っているように見えるのだけれど


発想をひっくり返せば、逆にブレイクスルーすべき壁はまさにここにある!


と言えるのではないか??という気もする!











23日(金)


ゼミ。3月で卒業するオンゾウとオオクボの最終講義を聴く。


あまり実感が湧かないのだけれども二人は卒業していく。


寂しいことではあるけれど、


道を定めた二人の晴れ晴れとした姿をみると


悦ばしいことでもあるのだなぁと思った。











24日(土)


西口敏宏さんの「遠距離交際と近所づきあいー成功する組織ネットワーク戦略」


を読み始める。これはおもしろい本だ!!


金曜日, 3月 16, 2007

日常をバラバラにする


ガルシア=マルケスの「百年の孤独」を読み終わる。


一族のなかで自分の妄想に夢中になる人々が必ずいて、


それにあきれている周りの人がいて、


親からみると俺はこれに近いのではないかと思うと


なんだか憂鬱になったが、読み終わるとなんだか深い感慨につつまれた。


記憶の強度が絶えず要求される小説で、


登場人物がつぎつぎに生まれては死んでうつろっていく。


高3のとき世界史をとっていて


なんでドラゴンボールの歴史はすべてありありと思い出せるのに


世界史は記憶できないのだろうと疑問におもっていたのだけれど、


「百年の孤独」はいつも親や祖父の名前が子どもに受け継がれていって


こいつはだれだ!?と忘れかけた登場人物を思いだそうとするたびに


その人の物語が思い出されて、その過去の歴史を絶えず


頭のなかで確かめていく状態が高3のときドラゴンボールの


歴史をすべて思い出せた感触に似ていた。





そんな気分で朝を迎えるとボスから電話がきて


「おまえ、就職活動してる?」


「してないです」


「はてなとかどう?」


と聞かれて、あー、それもありかなと思う。





そう思った理由は、きっと火・水と早稲田の生物物理のシンポジウムに出て


生物物理の人々が全然生命の複雑さと向き合ってないという感覚をもって


結局、いまもっとも生命の複雑さとまともに向き合ってるのは


アートとウェブなのではないかと思ったからかもしれない。





ボスに自由というのは理想のように見えるけれど実は生産的でなく、


逆説的に見えるけれど自ら拘束を見つけることが実は重要なことなのだと


いわれて、(ようは就活しろということなのだけれど)


「百年の孤独」を読んで憂鬱になって、確かにそうかもと思ふ。





最終審査が終わってからの一ヶ月間、


なんの拘束もなくひたすら読みたい本を読んだ。





保坂和志 小島信夫 小説修行


(途)カフカ 審判


日高敏隆 帰ってきたファーブル


小川洋子 物語の役割


竹田青嗣 ニーチェ入門


保坂和志 カンバゼーションピース


(途)河合隼雄 対話集 こころの声を聴く


(途)保坂和志 この人の閾


保坂和志 <私>という演算


保坂和志 小説の自由


ガルシア=マルケス 百年の孤独





一年前に保坂さんの「小説の自由」を拾い読みしたのだけれど


カフカの「城」を読んでからもう一度じっくりよんだら


かつてない高揚感を得た!!


保坂さんの「小説の自由」のここがグッときた。






 そんなことではなくて、小説を書いていればそのあいだだけ開かれることがあるから書くのだ。「開かれる」「見える」「感じられる」……人によって言葉はそれぞれだろうが、小説を書いているときにだけ開かれるものがある。


 私が「ペリー・スミスがペリー・スミスとして生きる」と感じるとき、私は自分が小説を書いているときに開かれるものをイメージしている。こういう風に小説について小説でない文章を書いているときもそれが全然開かれないわけではないけれど、小説を書いているときの方がずっと開かれる。


 私は小説という表現形式を使って、その何かが開かれる感じを経験することに馴れすぎてしまっているのだけれど、小説から離れて、空を見ているときとか猫といるときとか夜布団に入って暗い空間を見ているときとか、いろいろなときに、それの弱いものは頭をよぎっていく。小説から離れているときのそれがまったくなかったら小説を書くことはできないだろう。


・・・・


 小説、音楽、絵画、彫刻、写真、芝居、映画‥‥‥これらすべての表現形態は、手段として、文字とか音とか色とか線とか具体的なものしか使えないのだけれど、それを作る側にも受けとめる側にも具体性をこえたものが開かれ、それが開かれなければ何も生まれない。


 その抽象性だけを強調してしまうと、安易な宗教性に陥ってしまうだろうし、作る側は作品にただ〝念をこめる″わけでは全然なくて、具体的な作業をつづけてひたすら具体的な物を作るわけだけれど、その具体物によって具体性をこえたものを開こうとしている。そこはやっばりどうしても言葉では伝わらないのだ。






この「開かれる」感覚が、竹田青嗣さんの「ニーチェ入門」の


「生命感情」と響き合って、あー、そうなのかと思う。






 ニーチェが言わんとするのはこういうことだ。一切の価値の源泉は「カヘの意志」だが、人間においてそれはとくに、「性欲、陶酔、残酷」という三つの言葉に象徴される。生はつねにこの言葉に象徴されるような「生命感情」をもとめる。それらは人間の生の起源であり、源泉であり、根拠なのであると。おそらくここに、「人間は何のために生きるのか」という問いに対するニーチェの最も深い答えが隠されている。


 たとえば、芸術や恋愛や性欲などにおける「陶酔や恍惚」は、それらがひとつの本質として繋がっていることを象徴的に教えるものだ。つまりニーチェは、「肉体」、「性の力」、「陶酔」、「恋愛」、「恍惚」、「支配欲」といった諸感情の中心を貫いているのは、「力への意志」という強靭な本質にほかならないと言っているのである。


 人間はたしかに、これらの諸感情の中で最も強い「生命感情」、生の充実感と生の肯定感を抱くような存在だといえるだろう。そしてニーチェは、生の「価値」の根本的な根拠はまさしくここにあって他のどんな場所にも存在しないと言うのだ。なぜなら、もともと「価値」とは「力ヘの意志」が世界に投げ与えたものであって、世界の隠された場所から人間に投げ与えられたものではないからである。






なんだか飛躍するけれど


結局、重ね合わせが重要なのだと思う。


保坂さんに最近やたらはまっているのは


脳科学・認知科学と芸術が高い次元で


融合していると感じるからだ。


それらを重ね合わせるための直感的かつ緻密な「思考のプロセス」そのものに


すごくリアリティと魅力を感じる。





保坂和志 「<私>という演算」より抜粋



いまや文学は人間の認識に働きかけたり人間の認識を描き出したり解析したりするものの一つでしかない。ぼくはそういう立場で小説を書きはじめたのだった。






養老さんとスマナサーラさんの対談本、「希望のしくみ」のなかで


養老さんが「思考」するとは対象を「バラバラ」にして「つなげる」ことだと


書いてあっていたく感動した。これも以下抜粋。






養老 甲野さんと昔から付き合っているのは、甲野さんの言っているからだの動かし方の話と、僕がものを考えるときとがまったく同じだからです。ものを考えるとき、皆さんはバラバラなものをつなぐと思っていないんです。だから僕が話をすると、昔はよく「先生、つながってません」と言われた(笑)。やっぱり、下がるのと、回るのを別にやってるからね。だけど、別々なのが本当なんですよ。


 一つひとつの過程を「素の過程」と言います。素の過程は、数はたいしてないんです。だからきちんと分けて、それから合成してやることです。すると最初から混ぜるより、はるかに力が強くなります。なぜだが知らないけど、有効になるんです。たぶんそれは、訓練のいちばん基本だと思う。斜めにやるほうばっかり訓練しても、たかが知れているんですよ。まず、きちんと分けることが大切なんです。なにしろもともと斜めにできていないんだから。


スマナサーラ いまおっしゃったようなことは、たくさんありますね。まず緻密に分解するんです。バラバラにする。すべて、からだの感覚、思考まで、分解することが大切です。


養老 そのすべてが合理的に役に立つとは限らないんだけど、たぶん、われわれは自分自身をもっとバラバラにしなきゃいけないんです。だけどいまの社会は、ある意味でそれをバラバラにしないように、しないようにしている。


ーわれわれは、オートマティックになっているんですね。


養老 そうそう。それを僕は「丸める」って言ったんですよ。


スマナサーラ 「丸める」は、オートマティックということなんですね。それは誰でもやろうとしていることで、そこからほぐしていけばいいんです。だから、このヴィパッサナー瞑想で第一に何を悟るかというと、分解能力なんです。これがいちばん最初の段階で、まだ上に7つぐらいあります。


ー丸めるから「ああすれば、こうなる」になるんであって、バラバラに分解すると、その場その場で精いっぱいになる気がしますね。


 それが、生き生きと生きている、ということなんですか?


養老 バラバラにしたものを組んでいくことがね。あるとき、それができるようになっちゃうんだ。






思うに


いま一番おもしろい問題は「人間」や「日常」を「バラバラ」にして「つなげる」ことなのではないか?


そして、そのための脳科学のあり方が問われている(と勝手に思う)。


「日常」は平凡であるが、その平凡を支えている脳内過程は謎に満ちている。





保坂和志 「世界を肯定する哲学」より抜粋。



文学などでは、苦痛や危機や喜びといった特別な場面を材料に使って、「生きている」ことの自覚を促すけれど、それは「生きている」ことのいわば輪郭であって、その内側ではほとんど絶対的に漫然と生きている。






さいごに


保坂さんと小島信夫さんの往復書簡、「小説修行」にぐぐっとくる部分があった。






 私はそういう風にして「人間」とか「私」というものを、統合されたものではなく解体して考えることにしました。私のこの人間観をヒューマニズムにものすごく反する人間観と解釈する人がいっぱいいるだろうと思いますが、私は「人間」を肯定するためにこういう人間像を考えたのです。


 「私」とはこの世界に一定期間間借りしている現象なのです。私は何もしなくてもただ生きているだけで、この世界に流れた時間を集積していることになるのです。生物の歴史によって淘汰されたり洗練されたりした機能が人間の中で活動し、人間の歴史によって築かれた文化や技術や思考や感受性の集積が活動しているのが、まさに「私」なのです。






脳科学となにを掛け合わせるか?


それが問題だ。


火曜日, 3月 06, 2007

不在の知覚


五反田駅から研究所に歩いていく途中、


ふっと左手を見ると、サラ地があった。


ここに何かが建っていた感覚はあって


あるべきところに、あるべきものがない感じは


はっきりするのだけれど、あるべきものがなんだったのかは


まったく思い出せない経験をして、おもしろい!と思う。





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別の角度から。











それで、ふと「ウェブ進化論」に


グーグル・アースで家を調べて、数ヶ月前まではプールに色つきのシートが


かかっていたはずなんだけど、写真にはそれが写ってなかったことから


グーグル・アースの写真は数ヶ月ごとに最新の衛生写真に更新している


らしいことがわかったという話が書いてあったのを思い出して、


グーグル・アースで調べてみると、「あるべきもの」が映ってた!!





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一軒家だった(画面中央、ビルの隣り)。





これはおもしろいと思い、


オマケイ、セキネ、ヘライ、タナベにサラ地の写真を見せたけれど


だれも、そこに何があったのか思い出せなくて


そもそも、なくなっていたことに気づいていなくて


これは天然のchange blindnessかも!と思う。





change blindnessはいま認知科学業界でホットな話題で


間違い探しみたいに一部分だけ変化している二枚の写真


を交互に見せて、でもそのとき写真と写真の間に1秒間ぐらい黒い画面を挟むと


たとえ写真の中心部分が大きく変化していてもなかなか気がつかない、


という現象で





従来の仮説だと脳内には、外部世界を完全にコピーした表象が


保持されているのではないかと考えられていたけれど、


change blindnessの結果から、脳は外部世界の完全なコピーなど


保持しておらず、意識が注意を向けたときに部分部分の情報を


動的にup-dateするような、計算量とかメモリーを節約する戦略を


とっているのではないかと考えられはじめている、らしい。





change blindnessは、変化に気づくことがそもそも難しいわけだが、


今日のサラ地は、変化には気づいたが、その内容は思い出せないという点で


change blindnessとはちょっと違う気もする。





どちらかというと、旅行先で団体行動をしていて、


だれかがいない気がするのだけれど、だれがいないのか分からない・・


という感覚に似ている気がする。





高層ビルの写真を数秒間みせて何階建てかを当てるタスクをさせると


サヴァン症候群の人がもつような写真記憶がないと正解できない。


という意味で、普段我々は日常のなかで、風景の細かいディテールなど記憶していない。





毎日同じ道を歩いていると、脳がだんだん風景に注意を向けなくなるということは


脳が「この風景は知っている」と了解するポイントが存在することを意味していて、


その了解ポイントを支えているのは、どうも全体的なパターンの記憶のようで


しかし、脳は意識的にはその「全体的なパターン」の内容を


把握してはいないのではないか?


ただ、なにかが「ない」ときに、その変化を「全体的なパターン」をつかって


無意識的・直感的に検出することができる。





もしかしたら、ヒトの脳にとって、進化的には、


風景はディテールを把握するよりも、変化したものに注意を向けるほうが重要で、


だから全体的なパターンを把握するほうが都合がよかったのかもしれない。





とすると、他の動物はどうなんだろう?


ヒトの視覚記憶システムを例えばチンパンジーに当てはめることは可能なのか?


ジャングルを歩くチンパンジーは、ジャングルの風景を


サヴァン症候群の人のような写真記憶的に把握している可能性はないのか?


ヒトのように全体的なパターンで把握しているのか?


そもそもチンパンジーにchange blindnessは起こるのか?


etc...





と収拾がつかなくなったところでおしまい。。


木曜日, 2月 22, 2007

卒展


芸大の卒展を見に行く。


久しぶりの上野。上野公園は平日でも人が多い。





場所は東京都立美術館で、卒展に来るといつも


その展示されている作品の量に圧倒される。





二年前初めてその量を見たときは、並列コンピュータによる表象空間の


全探索というメタファーが湧いてきて、日記



・・ヒトが感じることのできる表象空間の可能性を脳を並列に並べて一斉にサーチしている感じがして壮観だった。



と書いた。





ボスならば、サンゴの産卵とか、hopeful monsterと言うかもしれない。


今年もなにか面白いメタファーが見つからないかなぁと


考えていたけれど思いつかず。





そして、地下の彫刻科の展示でイウラさんの作品をみた。


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他にも阿修羅像をモチーフにした絵が2枚ぐらいあったけれど


イウラさんの阿修羅像に一番、存在感(質感?)を感じた。





一つ一つの手が、思わず自分の手を合わせてみたくなるような


(そうすることを求めているような)なぜか惹きつられて


しまうオーラを発していて、そのような手が6本もあって、


かつ、それらがとっている舞いのポーズがまたよくて


恍惚モードの顔と合わさって、拝みたくなる雰囲気を発していた。





養老さんがなにかで「手は第2の顔である」といっていたのを思い出した。


ボディ・ランゲージにおけるジェスチャーの手は


表情以上に感情を語ることを知る。





彫刻の作品たちを見ていると、普段使っていない脳の回路が


活性化している感じがして空間が活気づくような高揚感が感じられてきて


普段、どれくらい人工的なオブジェクトしか目にしてないか


ということが自覚できて新鮮だった。





イウラさんからいろいろ彫刻の面白い話を聞く。





腐った人を表現した像があって


頭からにょきにょきなにかが生えていて


足からもなにかイモ虫のようなものがにょきっと顔を出している。





最終審査が終わった直後に、「ジョジョの奇妙な冒険」の


2,3,5部を一気読みして、5部の主人公のスタンドは


物に生命を与えることができて、物から突然草木が


にょきにょき生えたりするシーンがすごい!と思っていたのだけれど、


その像を見ていたら、それが突然思い出された。





それをいったら、イウラさん曰く、「ジョジョの奇妙な冒険」のファンは


結構いて、その奇想の数々は芸大生にも影響を与えているらしい。





最近、草木が繁茂するイメージが好きなんだけど、


彫刻で草木を表現しようとすると、草の葉っぱは薄いので大変らしい。





剣道をしている木像があった。


最近、武術研究家の甲野さんの本を読んでいて、昔の武術の達人は、


今では考えられない動きができたらしいのだけれど


ふとそのような達人を木像で表現することは可能なのかと思った。


昔の剣の達人同士が向かい合っているとき、その二人の間の空間には、


実は無数のイメージ上の剣の軌道が行き交っているらしいのだけれど


そのような緊張の空間が表現できたらすごいかも、とかと思った。





木彫(?)の巨大な幼虫がいた。ふと保坂さんの下の言葉を思い出して






保坂和志 小説の誕生より抜粋


「書いてみるしかない」「それがどういうものか、書いたものを読んでみないわからない」というのが小説であって、高さ10センチの大仏の置き物と高さ10メートルの大仏とでは見たときに受けるものが全然違う(この文章では「全然違う」という想像はついても、実際に見たときの気持ちがどういうものかということまではわからない)という、その違いを作り出しているものが、小説でも絵でも音楽でも、すべての表現の根底となる。






幼虫を大きくしたらなにか質的な変化が起こるかもしれない


と思って作ったのだけれど、なにも起きなかった作品に


俺には見えたのだけれど、イウラさんは、これはディテールが


甘いと言っていて、たしかにそう言われて見てると表面が粗くて


もっと幼虫のシワシワを彫り込めば、もっと気持ち悪いものに


なって印象が変わったのかも知れないと思った。





粗くいくか、写実的にディテールまでつくりこむか


というのは表現の在り方として独立にあって


そういえば、高村光太郎の「鯰」は粗いけれどいい味が出ていると思う。





イウラさんに伊藤若冲が描く生き物の生命感は


彫刻で表現することってできるの?と聞いたら


若冲の絵は、たとえば鶏の絵を見ると


実物を徹底的に観察することによってしか得られない


細部の表現と、デザイン・抽象化が


絶妙にバランスしているとのこと。なるほど・・。





あと、人体の彫刻はやり尽くした感があるらしい。


それで、話は飛ぶけれど、最近松岡正剛さんの


形の冒険」と「ゾウの耳はなぜ大きい?」のレビューを読んでから


「形に対する思考」というのがとても面白いということを知って


養老さんの「形を読む」も読みかけていて


養老さんによると、形には


機械的意味、機能的意味、発生的意味、進化的意味


の四つの意味があるという。


NHKのプロフェッショナルでフェラーリをデザインした奥山さんが


機能を実現するデザインはたくさん候補があって


その中で美しいものを選んでくると言っていた。


デザインと美は両立するもので、デザインは機能で美しくなる、


デザインは機能によってどんどん美しくなる!!


と言っていたのがとても印象的だったのだけれど、


生き物を彫刻で表現するときに、


進化的に機能込みで進化してきた形に対して


脳がいい!と反応するならば、


彫刻で機能込みで形というものを考えていくと


どうなるのであろうか、とかと思った。





東京都立美術館の展示を全部見て、


そのあと芸大でユウナちゃんの油絵と


ウエダ君の未完のアニメとハッスーの作品をみた。





ウエダ君と中央棟の廊下でポテトチップを食べながら


セカンド・ライフの中でデザインの活動をしたら


おもしろいのではないかという話をした。





その後、くたくたの状態で研究所にいったら


セキネがいた。セキネとウダウダと話して帰宅した。


木曜日, 2月 15, 2007

空のなかにあるもの


昨日のバレンタインの出来事。


姪が家に来ていた。


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お義姉さんと姪からおチョコ様をもらった。


3歳の姪は、いまなんでも疑問に思うことを質問してくるモードで


お義姉さんはなんて答えたらいいのか考えるのが楽しいらしい。


それでお返しに保坂さんの「季節の記憶」をプレゼントした。





そういえばオンゾウからもおチョコ様をもらった。


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中身が詰まっているように見えて食べてみると中は空洞で、


空洞じゃん!と言ったら


オマケイが、そこにオンゾウの愛がつまってるんだよ


と言ったのを聞いて、ふわっと詩的な世界が広がった。





そして今日は博士最終審査の日。


審査員はホトケだった。


条件付きでパスできた!


とりあえず安堵。


天気がとてもよい一日で


気分もとてもpeacefulな一日で


オマケイ、オンゾウ、ノザワ、イシカワと


「てんてん」でてんぷらを食べた。


水曜日, 2月 14, 2007

twister


明日は博士審査の発表で、


現実逃避で昔mathematicaで作った


Penroseのtwisterを貼ってみる。


竹内薫さんの


ペンローズのねじれた四次元」に


数式が載っている。





脳における<私>とか「自己」の問題について思ったことの覚え書き。





1.


竜巻とか台風の中心にはかならず無風の


領域があって、それを数学的には「不動点」という。


台風を構成する空気は絶えず入れ替わっているのに、台風の中心は存在しつづける。





<私>=「要素がたえず変化している脳というシステムの中でなぜか変わらないもの」


とするならば


<私>とは「脳というネットワークに生じる不動点のようなもの」なのか?





2.


<私>という「不動点」に摂動を与えたときの脳活動の変化を計測することは可能か?



養老孟司 玄侑宗久 「脳と魂」より抜粋


養老:変わると思いますよ。システムっていうのは、逆に言えば、肝心なところ突かれるとガラッと変わる性質を持ってますから。システムの構成要素はしょっちゅう入れ替わるわけですよね。だけど一応それが変わらないように見えるっていうのがシステムの安定性なんですよ。それがガラッと変わっても、システムは本来安定性を持ってますから、別の安定平衡点をとることも出来るんです。






3.


そういえばオートポイエーシス理論が定義している「自己」は脳に適用できるのか?



ウンベルト・マトゥラーナ&フランシスコ・ヴァレラ 『オートポイエーシス』


 第2に、オートポイエーシスが自己言及しているということは、実は、あえていうなら同義反復によってシステムを作動させているということなのである。ということは、産出プロセスのネットワークが構成素を産出し、構成要素が産出するのは産出プロセスのネットワークなのである。つまり自己が自己を生んでいる。まさに自己創出システムなのである。こういう見方は、自己があって組織化が進むシステム理論とは異なっている。オートポイエーシスの自己は作用主体ではなく、システムの作動そのものを自己としているシステムなのだ。






4.


そもそも脳というコネクションで見ればフラットなネットワークに


なぜ「主体」と「客体」という非対称性が生じるのか?


(→「ボスの脳内現象」をもう一度読むか・・)








Penroseの「Road to the reality」を買った。


1000ページある。


輪講しようそうしよう♪


水曜日, 1月 31, 2007

「底を掘れ!」


最近、仏教がマイブームで、ことの始まりは、


去年、養老さんの「無思想の発見」を読んで、


養老さんが独力で辿り着いた無我の考えが、仏教にすでに書かれていた!


というようなことが書いてあって、仏教とはなんぞやと思う。





その後、玄侑宗久さんが「現代語訳 般若心経」で、



脳科学の用語を使って仏教を説明しているのを読んで


仏教って哲学だったのか!ということを知る。





さらに年末に司馬遼太郎の「空海の風景」を読んで


密教ってすごい!!と思う。たとえばこんな感じ。



 おそらく人類がもった虚構のなかで、大日如来ほど思想的に完璧なものは他にないであろう。大日如来は無限なる宇宙のすべてであるとともに、宇宙に存在するすべてのものに内在していると説かれるのである。太陽にも内在し、昆虫にも内在し、舞いあがる塵のひとつひとつにも内在し、あらゆるものに内在しつつ、しかも同時に宇宙にあまねくみちている超越者であるとされる。






そして今日、養老さんと玄侑さんの対談本、


脳と魂」を読んだ。





脳と仏教を語るには頭が整理できてなくて


部分だけをピックアップすると


この部分がグッときた。






養老: その場その場で、それなりに満足してるっていうことですよ。まさに成就したんですかねえ。まあ、ダメならダメで「しょうがねえや、それで」って開き直れるんですよ。そういう生き方したほうが楽なのになあと思うんだけど、やっぱり多くの人は、「こうしたらああなる」「ああすればこうなる」で自分を窮屈にしてるんだ。だからね、どん底に落ちて八方塞がりになったら、「底を掘れ!」っていうのが大好きなんです。どん底に落ちたら、そこから先は上がる一方だなんて甘いこと言うんじゃねえ。「掘れ!」ってね。






なんだかよくわからないけれど、おおお!と思い、


これは「どん底のときに思い出したい名言ベスト3」に入る、と思ふ。





「底を掘れ!」というのは


「ヤケになれ!」と言っているのでは絶対なくて、


まわりにいた人にもこの部分しびれない?と(強引に)読ませ、


どんな意味だと思う?と聞いたところ、





タナベは


さらに掘れば水が出てきて外に出られるかもしれない


と言い、


セキネは


養老さんはロックしている


と言った。





それで「底を掘れ!」の意味を自分なりに考えていたら


「無記」という言葉を思い出した。





東工大名誉教授でロボコンの創始者でもある森政弘さんが


機械部品の幕の内弁当」という本で


「役に立たないものを役立てる」ためには「無記」という


考え方が役に立つと言っていて


「無記」というのも仏教の言葉で、


善でも悪でもないもの。善悪以前のもの


という意味らしい。





たとえば、あるモノを目の前にして、


ああ、これは役に立たないなーという思いがフッとわいたとき


そのマイナスの価値観は、実は自分が勝手に作り出している主観的なものであって、


客観的なモノそれ自体は「価値」をもっていない。


つまり、価値というのは心の産物で、


頭の切換えや心の持ち方の転換によって、


あるモノを見たときに引き起こされる


「役立たない」という価値観を「役立つ」という価値観に


180度転換することができる!





と森さんは言っていて、例えで、





ある人が「コピーの機械の開発」という問題を抱えていて、


容易にはよい案が浮かばず、困り抜いていたという。


そこで、ストレスを解消するために音楽を聞こうとレコードをかけた。


演奏が終わってプレーヤーからレコードを外し机の上に置いたら、


ほこりがふわふわっと大切なレコードに付いたという。


彼は「こん畜生!」と思ったのだけれど、


すぐにそのマイナスの価値を脱却して、「無記」の世界へ脱出して


カッカとした「レコードにほこりが付きやがった!」という思いは、


「ああ、プラスチックの円盤に粉末が付着したのだな」


という冷静な見方に転換したらしい。


そして、この視点の転換が静電気でトナーを付着させて印刷するという


コピー機の原理につながったらしい!!





「無記」の説明が長くなってしまったけれど、


玄侑さんも「一切唯心造」という言葉を言っていて、



不安だとか悩みだとか言っても、それはすべて、結局その人の心がつくり出すものだ



という意味らしい。





これらをまとめて適用すると


「どん底」というネガティブな価値は


結局その人が「こうしたらああなる」「ああすればこうなる」という自分縛りによって


主観的につくり出しているものであって、


「あとは上がる一方」という考えは


その価値を維持したまま・変更しないまま


つまり自分を変えないまま


周囲の状況が変化するのを待っているところが甘い(養老さん的には)。


「底を掘れ!」というのは、


意識的・能動的に「どん底」から「無記」の世界に脱出して


価値が180度転換するような


見方を見つけろ!(それが「掘れ!」に相当する?)


という意味で、


それによって「どん底」を180度ひっくり返せる


ことだってある!!





という意味なのではないか?なんか違うかも。。


いずれにしても仏教は深いぜ!と思ふ。


月曜日, 1月 15, 2007

「LOST」


先週から月火の深夜に「LOST」が放送されていて


1話と2話を見ておもしろい!!と思って


土日2日間をかけてレンタルDVDで


「LOST シーズン1」をすべて見てしまった。


全25話で1話が約43分。目が痛くなる。





飛行機が奇妙な島に墜落してしまって、


そこでサバイバルをする話。


1話ごとに1人の登場人物の過去の話とリンクして物語が展開する。


島は謎に満ちていて、オカルトの要素も入っている。





演出が怖い!!





ジャングルを歩いていると、カサカサと音がなる。


周囲をぐるぐる見渡す。人影は見えない。


でも音はどんどん大きくなる。なにかが迫ってくる!!





という演出がとても効果的に使われる。





あと島の謎も怖い。





恐怖は「目に見えないもの」に宿る、ということを知る。





敵の正体が実は人でした、とかエイリアンでした、とか


具現化されてしまった時点できっと恐怖というのは消滅してしまう気がしていて


どこまでいっても正体がなんだかわからないということが


効果的に恐怖を生み出すのだと思った。





そういう意味では、映画「ブレア・ウィッチ・プロジェクト」に似ていると思う。


あの映画はみんな最後に消えてしまうけれど


最後まで森にすむウィッチの正体は謎のままだった。





「LOST」を見ていたら、電気のついてない部屋の暗闇が怖くなってきて、


ふと、文明以前のジャングルで暮らしていたヒトたちはこの感覚を


ずっと持ち続けていたのではないだろうかと思ふ。


昔のヒトが膨大な神話を生み出した理由の一つは、


「目に見えないもの」に対する恐怖を


克服するためにあったのでないか?





昔、簡単な記号の言語を操れるゴリラが、


森には怖いものがいる


という意味のことを記号で説明している映像をみた記憶が


あるのだけれど、あれはなんだったんだろう・・。


単にヒョウみたいな天敵のことを指していたのだろうか。





話はさらに飛ぶけれど、


ヒトの脳の特権が「目に見えないもの」を見ることができる


ことにあるのは間違いなくて、「目に見えないもの」という考えが今とてもアツい。





科学は、「目に見えないもの」を見ようとする営みだと思う。


おもしろい例が、暗黒物質で、


銀河系の星たちの分布を見ると、クラスターをつくっていて、


観測される星たちの質量から計算される重力だけでは、


そのクラスター性を説明できないらしい。


もしニュートンの重力の法則が正しいならば、宇宙空間を


目に見えない、未知の物質が満たしていなくてはならなくて、


いまの科学者はなにもない宇宙空間に「暗黒物質」を見ている。





宗教だって基本的には「目に見えないもの」を見る脳の働きから


出てくるもので、ヒトは「目に見えない」超越的ななにかを「神様」と名付けてきた。


時間がたって「目に見えないもの」を具現化しようとして


偶像崇拝に向かう宗教もあるけれど、


イスラム教みたいにどこまでも視覚化することを禁止する宗教もある。





あと、昔のロボットアニメは、たいてい初回から


人のカタチをした悪玉が登場するのだけれど、


つまり、敵の正体が目に見えてしまっているのだけれど、


最近のエヴァンゲリオンから始まったロボットアニメの潮流は


最初は敵の正体が分からない。


「敵の正体」とかそれを支えている枠組みとしての「世界」とかその起源が


「目に見えない」大きな謎として設定されていて、


それが徐々に明らかになっていくのが、おもしろさの要素の一つになっている。


だから、おもしろさは謎が極まる真ん中あたりがピークで


徐々に世界の謎とか起源が明らかになる段階になって、


古代人の超テクノロジーが残したなにか、みたいな


収拾がつかないというか破綻しているチープな設定が


前面に出てきて苦しくなってくる。。





そういう意味で「LOST」は、「目に見えないもの」が


まだまだ謎のままで物語を引っぱっていて、


シーズン2もきっと見てしまう気がする!