月曜日, 1月 30, 2006

ロスト・メモリー

幼児が池に落ちて亡くなってしまったというニュースを
見ていたら、母親が兄と俺の冷や汗ばなしをはじめた。

昔、おじいちゃんが鯉に凝っていて、庭には鯉のための池があった。
5歳ぐらいの兄は、鯉を捕まえようとして池におちた・・
でも、自分で這い上がって、怒られると思って、びしょ濡れになりながら、
泣きもせずになんともなかったかのように振る舞ったという話。

次に俺の話になって、おまえは二回迷子になったと言われて
そうなんだ!と思う。

ひとつは自分でもよく覚えていて、3-5歳までアメリカにいて、
クリスマスの時期に、NYのロックフェラー広場のクリスマス・ツリーをみにいった。
ツリーの前にサンタさんがいたんだけれど、人だかりができていて、なにも見えない。
どうしてもサンタさんがみたくて、親の手を離して、
人々の股をくぐりながらサンタを目指した記憶がある。
そして、つぎに思い出すのが泣いている場面の記憶。
運がいいことに、泣いているアジア人の子供と、取り乱しているアジア人
を目撃した優しいアメリカ人のあばあさんがいて、その人が引き合わせてくれたらしい。

もう一つが、やっぱりアメリカで、当時、トロイという場所に住んでいて、
外で遊ぶときは、いつも兄の後ろをついて回っていた。
しかし、ある日うざいと思った兄にまかれたらしい(笑)。
丘陵に住んでいたアパートが建っていて、その丘陵を登っていった
先にある団地で泣いている記憶をうっすら思いだした。
当時、幼児誘拐殺人事件があって、警察官がパトロールしていて、
その警察官が、おうちはどこだい?ときいて、アパートまで一緒に
ついてきてくれたらしい。

おれのなかでは泣いている記憶しかないはずなんだけれど、
迷子のはなしを書くために、当時の風景を思い出していたら、
だんだん警官の記憶ができてきた・・!!これは偽の記憶に違いないんだけれど、
小説家が、素材をもとに場面をイメージするように、
昔の記憶は、そのときの手がかりをもとにして容易に作り出されてしまう
感じがちょっと恐ろしい・・と思う。

でもいったん定着した記憶が、想起されることによって、
また不安定化されるという最近の仮説がエピソード記憶でも本当にあるならば、
記憶の書き換えは必ずおきる。というよりは、
もともと記憶はどんどん生成されていて、それがオリジナルの記憶なのか
作り出した記憶なのかを判断するメタ認知が、オリジナルの記憶が
古ければ古くなるほどあいまいになっていくと考えたほうがいいのかもしれない。

なにはともあれ、親の視点からてみてはらはらした記憶と
自分のなかの記憶がつながるのは、なんだかおもしろいと思う。

金曜日, 1月 27, 2006

側頭葉人格

ここ2日間、急に鬱状態になって、この1ヶ月間が躁状態だったことに気づく(笑)。

躁状態は、いままでバラバラに見えていたものが一つの統合された、とても
意味あるものに思えている状態で、鬱状態は、それがバラバラで、
意味が感じられない状態。

この状態はなんだろーと考えていたら、ふと、ラマチャンドランの
「脳のなかの幽霊」に出てきた「側頭葉人格」のはなしを思い出した。

脳の情動を司る辺縁系に、局所的なてんかんがで繰り返しおこると、
「側頭葉人格」という症例がでる患者がいて、その患者たちは、
情動が強まり、ささいな出来事に宇宙的な意味を見いだすという。
周囲のあらゆるものが宇宙的な意味に満たされるといい、
「私はようやく、すべてを理解しました。このときをずっと待っていたんです。
不意にすべてがのみこめました。」とか
「ついに私は宇宙の真髄を見抜きました。」と言うらしい。

ひょっとして、おれの頭もこれか・・?

と思って居合わせたタナベに話したら、大笑いして、
「あははは~、自分のことよくわかってるじゃん!」とのたまわれた。


「・・・・・・」


まあ、理由はいくらでも考えられるのが、脳科学を勉強している強みで、例えば、

これも、ラマチャンドランの話で、左右の脳をつないでいる脳梁が
切れてしまっている患者さんのそれぞれの脳に対して、
神を信じますか?という質問をすると、
左脳は信じると答えて、右脳は信じないと答えるらしい!!

この話を延長すると、もし自分の脳梁が切れてしまったとして、左右の脳に、
自分の能力を信じますか?と質問したら、
おそらく、左脳は信じると答えて、右脳は信じないと答える(笑)

脳というは二つの脳から一つの意識が生じているという時点で、
すでに大きな矛盾をかかえた存在なわけで、さらに、サイエンスというものが、
大海原にコンパスももたずにイカダで漕ぎ出すようなあやうさをもっている
ことを考えれば、左右の脳が綱引きすることで
気分が揺らぐのもしょうがないか・・とも思う。

要は、気分が沈んで、その状態を冷静に分析したら、結局、大きな原因は、
ここ一ヶ月間、ずっと、脳の前頭葉と側頭葉の相互作用をモデル化した
「生成マシン」なるものを考えていて、おもしろいモデルがつくれそうな
気がしていたんだけれど、「意識」の問題にぶつかってしまって、
これは正面突破は無理だな・・と思ったことにあるのだなと思ふ。

思考の価値は、そのディテールに宿る

ということがすごい大事だと思い、
今日は、気を取り直して、結局、何が良くて、何がだめなのかについて反省会をする。

だてに躁状態は1ヶ月間つづいていなくて、おもしろい視点がたくさん
得られたんだけど、モデルで形にすることは無理そうで、
別の方法を考えよう・・という結論に達する。ふぅ。

水曜日, 1月 18, 2006

#2 考えるイルカ



いままで、ずっと、アハ連鎖でポンポン出てくるアイディアは
すごい楽しいけれど、現実に着地していない
”妄想”だと自分で見なしてきたんだけれど、

最近、ふと、
もっと自分の”妄想”を信じよう
と思いはじめて、それからずっと、
本気モードで”未来思考”をはじめる。

松岡正剛さんが紹介しているアンドレ・ルロワ=グーランの『身ぶりと言葉
の冒頭の

 この一冊がぼくを変えた。白眉は「人間はその思考を実現することができるようにつくられている」という一文だ。 
 この、何でもなさそうな一文こそ、ルロワ=グーランの思想と研究の目的のすべてをあらわしている。この一冊が心身の底から勇敢な感動をあたえるものになっていることを暗示する。それだけでなく、この一文こそがぼくをして『遊』を継続させ、編集工学研究に向かわせたエンジンとなった。

という部分にとても感動して、
そうだ、”妄想”を現実化するのだ
と思ふ。

金曜日, 1月 13, 2006

迷走

ここ10日ばかり、なにもD論に手をつけれなくて、ここ数日ようやく
新しい投稿論文をかくために必要なシミュレーションを走らせはじめる。

10日間、(偏ってるけれど)たくさん本を読んだ気がする。

養老さんの「無思想の発見」をよんだ。
本のテーマは、日本人がもっている思想の話なんだけど、
意識に関する考察がとてもおもしろかった。
養老さんの本の中で、「唯脳論」、「人間科学」に次ぐ、
意識についてインスピレーションのあふれた本だったと思う。

とくに、意識とは「点」であるという話が、自分のなかで、
立花隆の「臨死体験」という本の中で、立花隆が実際に感覚遮断タンクに
入ったとき、感覚がすべて遮断されると、五感はもとより、身体イメージも消失して、
意識が点になる体験をしたという話とつながって、
メタコグニションの実体ってこのことか!と思う。

たまたま本棚にあった、ニコラス・ハンフリーの「喪失と獲得」を手に取って
みたらはまった。「心身問題の解き方」という章がおもしろくて、
ずっと、表象の進化的シナリオが描けるはずだと思っていたんだけれど、
おれがイメージしていたシナリオはこれだ・・と思ふ。
あまり関係ないけれど、「Conscious Machine」なる業界があるらしい。

ボスからCytowicの「共感覚者の驚くべき日常」をもらって読んだ。
ラマチャンドランは、共感覚は、V4と角回の間に混線があって、それが
cross-activationされて、共感覚がおこるという説をいっているけれど、
この人は、辺縁系が共感覚のソースだといっている。どういうことなのであろう?

辺縁系はイベントの突出性を検出しているという概念がとてもグッときて、
創造性の理論を考えようとすると、システムに絶対必要な要素として、
いま直面している体験が、新しい問題なんだということを検出することで、
それは、regular(既知のこと)でもなく、random(意味不明なこと)こでもなく、
ボスのいうcontingency(偶有的)な事象なんだと思うけれど、
それを主にしているのは辺縁系だというところがおもしろいと思う。
まあ、ACC(anterior cingulate gyrus)が新奇性に対して光るという話もあるけれど。

そして、清水博の「生命を捉えなおす」をつまみよみする。

生命システムとは、環境の中で絶えず情報を生成しつづけるものである

というくだりにグッときた。すごいインスピレーションにあふれた本で、
出版がおれの生まれた翌年で、27年前にこのレベルに到達していた
この人は天才だ・・と思う。

まあ、なんというか、要はD論ほったらかしにして、思いっきり迷走をしていて、
今日は、こんなオブジェをつくって喜ぶ。



こーいうときは次郎にいくしかないね、次郎に。ということで、
セキネと新宿の次郎ラーメンに行って、ブタ入り大盛りをたべた。
                 

                 

木曜日, 1月 05, 2006

脳・直感・決断力

羽生さんの「決断力」を読んだ。
天才がその内観をありのままに語る本は
とてもおもしろいと思う。

小林秀雄の「モーツァルト」で、モーツァルトが自分の
曲をおもいつくときの内観を書いた手紙のことについて
書いてあって、普通の人ではありえない驚異的な
脳の使い方をしていることがよくわかるんだけれど、

それに匹敵するぐらいおもしろいと思う。

ノーマルな脳が天才の域に達している状態が
いったいどいう状態なのか?というのが
なんとなくわかったきがする。

サヴァン症候群の人で、数桁の数字が素数かどうか
を瞬時に判断できる能力をもっているひとがいて、
サヴァンの人は、内観を言葉で報告できないから、
一体どんな計算をしているのか謎だったんだけれど、
このまえNHKでBBCの「ブレインマン」という番組が放送されていて、
ほんのわずかだけれども、言語が正常でかつサヴァン的な能力をもっている
人がいるらしくて、その人の内観を調べると、
どうも、それぞれの数字に対して特有な感覚質をともなってイメージを
頭のなかに持っていて、そのイメージたちが勝手に相互作用しているうちに
計算がすすんでいて、最後に答えの数字だけ浮かんでくるらしい。

サヴァン症候群の人の驚異的な計算能力は、概念というよりは、
感覚質をともなった実体が、勝手に計算してくれるらしい。

おそらくサヴァンの人の脳の構造と使い方は、ノーマルな人とは違う。

健常者の人が計算するときは、概念をつかわなくてはいけなくて、
そういった概念でする計算は、ワーキングメモリーのキャパシティに
拘束されていて、直列的でたかがしれているんだけれど、
長い間、ある脳の使い方をしつづけると、直感がはたらくようになる。

それは、計算のショートカットともいえるし、膨大なパラメータ空間の
なかから瞬時に本質だけを把握できる能力だともいえる。

直感とは、あることに対して、高いモチベーションをもって、
ずっとインプットしつづけ、ずっと考え、ずっと体系化しようという
志向性をもった脳ならば、必ず現れる、脳の自然な機能なのでは
ないかと思い至る。

そういった脳の使い方を将棋という枠組みのなかで極めた人が羽生さん
なのではないかと思った。

そして、一番グッときたのがここ。

私は、どうなるかわからない混沌とした状況こそ、将棋の持っている面白さ、醍醐味の一つだと思っている。そこには、発見があり、何かを理解することができ、何か得るものがある。ものすごくやりがいがある。それは、私自身がこれまで面白いと感じ続けてきたところであり、これからもその気持ちを大事にしてそういう面白さを発見し続けたい。

混沌のなかから、自然の真理を発見したいと願う科学者の心と
すごいシンクロするところがあって、すごいいい言葉だなぁと思ふ。

月曜日, 1月 02, 2006

年賀状

新年あけましておめでとうございます。

今年は年賀状をかいた。これ。



姪に「犬だよ~」といってみせたら、一言

「ばけもにょ」

といわれた。

「・・・・」

2歳の幼児との間にぼけとつっこみが
成立した瞬間に立ち会えた!
とポジティブに考えよう。

今年の目標は、”卒業”これしかありません。
つぎに就職。というか、同時にやっていかないと。

あと、科学者としての旗をみつけないと。
M2のとき、Flag候補として
「"ゆらぎ”をもつシステムから"創造”する機械へ」
というキャッチフレーズを考えたんだけどれど、
この方向はわるくないかもしれないと思う。

チューリング・マシンから生成マシンへ。

日曜日, 1月 01, 2006

大晦日



姪がきている。急速に賢くなっている。記憶力がよくなった。
お菓子を隠した場所をいつまでも覚えていて、ゆびをさす。
まるで、食べ物を食べるために賢くなっているようだ(笑)。
「お母さんと一緒」をみて、踊るようになった。
録画したDVDの再生を毎日せがんで、俺のPCしか再生できなくて、
俺のことを「おじちゃん」とよんでせがんできて、PCを徴収される。
PCのまえで異常なハイテンションをみせる。
そんなに画面にツバとばさないで~(笑)。

今年もいつのまにかもう大晦日。ずっとバタバタしていて、年の瀬の感じがしない。
あっという間な一年だったと思う。

一年間、ずっと論文をまとめるモードだった。まとめるという作業はつらい。
自分のなかでロジックをつくるというのが大変で、そしてそれを、
業界のロジックにすりあわせるのも大変だと思う。
業界のロジックを知ると、そっちに引きずられるとおもって、
あまり調べないでいた時期が長くて、業界の様子を知った後、
この計算も足らない、あの計算も足らないという状況に直面した。
同時並列で調べなければいけなかったのだと思う。

壊れては再構築し、壊れてしまってはまた再構築する。
ずっとその繰り返し。なぜ安定しない?
でも、きっとその過程性のなかに成長の種があるのだろうと思う。