水曜日, 9月 12, 2007

旅の記録:長野


9月9日


キャンプをしにレンタカーで長野県へ。





長野市にある善光寺には、


真っ暗闇の廊下を歩いていき途中で「極楽の錠前」を触る


というアトラクションがあった。


似たようなものが京都の清水寺にもあった気がする。


この手のアトラクションの建造が


お寺の間で流行っているのだろうか。


どうでもいいけど「快楽の錠前」でぐぐったら一件もヒットしなかった。





キャンプ場で


ほしの発案のイタリア料理・アフリカ料理・トルコ料理


http://eco.goo.ne.jp/nature/outdoor/woc/


の料理バトルをするために


長野市内で買い出し。


100円ショップで料理器具がほとんど


そろってしまうことに感動。


イカ墨がない!とかクスクスはどこだ?とか


レシピの材料を揃えるのがとても楽しかった。





キャンプ場の青木湖に向かうために山道をドライブ。


レンタカーはiPodをつなげることができるようになっていて


対向車がまったくこないような深い森の山道のドライブに


おんぞうチョイスのビョークが驚くほどマッチしていた。


ビョークは出身のアイスランドの深い森から


創作のインスピレーションを受けたのだろうか。


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日がどっぷり暮れた頃、青木湖に到着。


料理バトル開始。


くじで決めたおれ・ほしの・おんぞう・たかがわ班は


イタ飯でイカ墨のリゾット、野菜とシーフードのホイル焼、


パイナップルとチーズの一口ピザをつくった。


といってもおんぞうとたかがわが


ほとんど全部つくってくれたのだけれど


他班のトルコ料理とアフリカ料理も無事完成し


大急ぎでつくったわりには食べられるものができたことに感動。





9月10日


翌日の朝、青木湖をみる。


まるでミステリーものの殺人事件の


舞台になりそうな青く澄みきった静かな湖で


晴れると湖面にはまるで鏡みたいに風景や空が映り込んでいた。


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桟橋の先端に立ってもらって湖をみながら振り返って


「そう、わたしが犯人だ」


と言う映像をビデオカメラで撮ろうと試みる。


犯人プレイは案外むずかしい。





ボスの発案で丸山健二さんのお宅へ伺う。


丸山さんは有名な作家で、長野に住んでいる。


車三台で引率の丸山さんの車を追うのだけれど


最後尾を運転していたおれはちぎられて道に迷った。


丸山さんはミニマム80キロが基本らしく、


40キロ道路を80キロでがんがん飛ばしていた。


こっちの地域の人々はなんで峠バトルモードがデフォルトなんだ?





おそばやさんで天ぷらそばをご馳走になったあと、


丸山さんの家に伺い、庭を見せていただく。


秋なので花は全然咲いてなかったのだけれど


庭に咲いた花を撮った写真を見せてもらう。


セミの羽化の一連の各プロセスが


夏のある一日のある晩にしか起こらない一瞬のイベントであるように


花も満開になって咲いているのは一日ぐらいしかなく


しかも太陽の光は一日のなかで時々刻々と変化しているので、


ある花の生命力が一番溢れている瞬間を写真に撮ろうとすると


シャッターチャンスは一年のなかのある一日のある一瞬しかないという。


その一瞬を捉えた写真を2百枚ぐらい見た。


見たことのない花ばかりで、


それら花たちが一瞬みせる生命力の発露みたいなのが


写真に焼き付けられていて、すごかった。


こんど花の本を出すらしい。





おはなしも面白かった。


文学は19世紀がピークなのだという。。


どんな作品があるのか聞いておけばよかった!


その他、びっくりヒーリングばなしなどなど。


丸山さんは人生をロックしていた。


人生についていろいろ考えさせられた。


新刊の「生きるなんて」を学生全員にくれた。





一日はやく帰宅するボス・おんぞう・としまさんと別れたあと


BBQの買い出し、白馬の温泉にはいって、


キャンプ場でカレーライス+BBQをした。





9月11日


白馬のスキー場のゴンドラにのって


栂池高原へいった。


自然植物園はハイキングと山登りが


同時に楽しめておもしろい場所だった。


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そのあと、熊が出没する山奥の秘湯へゆく。


どうでもいいけど一句。


熊出没の秘湯に入った9.11





帰路。帰りの高速道路。


夜道、大雨、霧で道路が全然見えない中


時速100キロで走行。


まじで死ぬかと思った。


生物としての反射神経をもっと


鍛えないといけないのではないだろうかと思ふ。





研究室のみなさま、お疲れさまでした。


楽しい旅でした。


火曜日, 9月 04, 2007

エヴァンゲリオン


一ヶ月ぶりに日記を書いてみて


自分が感じたこと考えたことの半分も書けないことに


がくぜんとする。


なんで文末は「思う」・「思った」ばかりなんだ?


風景描写と人物描写がないからだろうか。





というわけでしばらく文章修行モード。





今日、映画のエヴァンゲリオンを見た。


おもしろかった!


テレビ版よりも心理描写が緻密になっていて


なんといっても使徒の動きがいい!


一見の価値あり。





エヴァンゲリオンのひとつの大きな功績は


綾波レイというヒロインを生み出したことだろうと思う。


そのあとのたくさんの模倣作品をみればいかに


大きなインパクトを与えたかということがわかるのだけれど、


宮崎駿はナウシカというすばらしいヒロインを生み出したけれど


きっと綾波レイは生み出せなかったのではないだろうか


とかと考えると


男の作者が、ヒロインを生み出すプロセスというのは


いったいどういうことなのだろうか、と思う。


理想の投影?





そういえばマンガにナウシカ第1巻の巻末によると


ナウシカというのはギリシャの叙事詩オデュッセイアに


登場するパイアキアの王女の名前で、感受性がとても豊かな


魅力的な女性として描かれていて、それと、今昔物語に登場する


虫愛(め)ずる姫君という野原を飛び歩き芋虫が蝶に変身する


姿に感動したりする姫君がいつのまにか同一人物になっていて生まれたらしい。





あとエヴァンゲリオンの世界観を支える


ひとつの要素として


機械がヒトの精神とシンクロする


ヒトの精神に呼応する


ということが挙げられると思う。





現代の科学技術は


バイオフィードバックとかは昔があって


脳波のα波を脳にフィードバックすると


α波を意識的に出せるようになる


という技術はあるけれど


ヒトの精神の一番よくわからないところを


検出し増幅してくれる機械をつくることは


いまだできない





先の戦争では日本の根性・気合いの精神論は、アメリカの物量の前に


破れてしまったわけだけど、


もしもそのような


気合いを増幅する機械


があったら世界はどうなるのか?


その仮想シミュレーションをしているのが


日本のロボットアニメなのかもしれないと思った。





情報科学では


A.I.(Artifical Intelligence)と並んで


I.A.(Intelligence Amplifier)という概念があって


ようは、コマンド入力の時代と比べれば


ウィンドウズのようなGUIは


人々の作業効率を著しく上げていて


人々の知性を増幅したと見なせる。


コンピューターは人の知性を増幅した。





そこで、もっと精神とシンクロするような


機械はつくれないのか?と考えてみる。


なづけて


S.A.(Spirit Amplifier)





人生の壁ってやつを乗り越えることを


助けてくれる機械はつくれないものか。





"memory+"の応用範囲は


案外ここにあるのではないかと思ったりする。


月曜日, 9月 03, 2007

進化の学会


いつのまにか9月。


進化学会でボスの代打ではなすことになり


8月は進化学会の準備で潰れた。





意識における進化の収斂というテーマのもと


水無脳症の赤ちゃんは皮質がなくても意識があるようにみえる


鳥はvisual awarenessをもっているのか


タコは賢いけど意識があるのか


これらに共通の意識が生まれる神経機構はあるのか


について考えてはなしてきた。





複雑系コミュニティのひとたちは


意識を時間の側面から捉えていると思う。


一方、脳科学者は、意識があるときは


ココとココが活動した、みたいな脳計測の図をいつもみているので


気づかないうちに意識を空間的イメージで


考えてしまっているのではないか?と思った。


ということは逆に、


複雑系の研究者は力学系のモデルを研究しているから


時間的な性質に引きずられていると言えるのか?





それと


複雑系の人たちにとって意識とはなにか?という問題は


生命とはなにか?という問題と同義で


ヒトの意識もハエの意識も粘菌も同列のものとして捉えていて


脳の構造にはあまり興味がないように見えた。





養老さんが唯脳論で


空間(=構造=視覚)と時間(=機能=聴覚)は相容れないもので


たいてい、ひとりの脳の思考は、どちらかに偏る傾向にある


ということを論じているのだけれど


それってまさにこの問題ではないかと思った。





今回は意識を思いっ切り構造=空間的なものとして考えて


いたことに気がついて、もっと時間的なものについて


考えよう、と思ったのが今回の学会の一番の気づき。


その他にもいくつかの重要なインスピレーションを得る。


断らずに引き受けてよかった。











帰りに智積院にいった。


等伯の「楓図」がよかった。


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http://www.chisan.or.jp/sohonzan/keidai/syuzoko.html





等伯の息子が25歳のときにかいた「桜図」もあったのだけれど


その息子は26歳のときに他界してしまって


この世の無常を思った等伯が、


全身全霊を込めて描いたのが「楓図」であるらしい。


現物のふすま絵は色が薄くなっていて、


写真のような色鮮やかさは、感じられなくて


なんでこれが国宝なんだろうと思いながら、でも国宝なんだから


きっとどこかすごいところがあるに違いないと思って


しつこく見ていたらだんだんと「楓図」がすばらしいものに見えてきた!





なにがいいのだろう?と考えていたら、


それは若冲の絵と同じで「生命力」が感じられる


というところに惹かれていて


絵のなかに植物の「生命力」というものをどう描き表すか?


という問題に等伯は立ち向かったんだなーと考えていたら


進化学会で、郡司さんの生命をいかに記述するか?


生命をどんなイメージで捉えるか?という問題意識や


ベルクソンが純粋持続ということばで捉えようとした


脳のなかの生命現象のイメージとか


そういったものたちがあたまのなかでぐるぐる回りはじめて





それらの仕事たちは、


生命をどう記述するか?どうやったら自分には


ありありと感じられている「生命」を、


そのまま失われることなく他人にも感じさせることができるか?


という共通の精神をもった、


異なるチャレンジの成果なのかもしれない、と思った。