日曜日, 7月 16, 2006

夢の思考

夢をみた。
中学時代の部活のハンドボールの練習の夢。
中学校のグランドでひとが全然いないから、
きっと日曜練習のワンシーンで、
メニューは3対3の試合形式。
おれのポジションはキーパーで
部長ふゆかわ君が速攻、6mラインからジャンプシュートをうってくる。
キーパー反応して、左に横っ飛び~~左足でセーブ!!
したところで目が覚める。

とっくの昔に忘れていた感覚が鮮やかによみがえって、
目が覚めたらなんだかとても心地よかった。

夢は情報を整理する働きがあるというけれど、
なんで、夢をよく見る人と見ない人がいるのか?
という疑問をずっともっていて、
論文を書いていて、行き詰まって、気紛れに
河合隼雄さんの「人の心はどこまでわかるか」をめくっていたら
偶然、それについての記述があった!!(以下抜粋)

 外向的に忙しく働いている人は、夢を見ないのではなく、あまり夢を覚えてないということです。それは、夢をすべて覚えたりしていたのでは、ほかのことができなくなってしまうからです。外でバリバリやっている人の夢には、その人の盲点とか裏側が出てきますから、それをいちいち覚えていて、あれこれ考えていたら日常生活ができなくなります。そこで心のはたらきとして、そういうのをほとんど忘れてしまうわけです。だから、これはむしろ当たり前と言っていいでしょう。

 それから、このごろ私はよく考えるのですが、どうも人間には内側を見るほうが好きな人と、外を見るのが好きな人とがいるような気がします。自分の内側を見る傾向がある人は夢で考えるし、自分の視点が外の世界に向いている人は、現実の中で考えるということではないでしょうか。したがって、夢を見るかどうかということを、それほど深く考える必要はないのではないかという気がします。

夢で考える、という表現がいいと思う。夢の思考。

羽生さんは、夢をあまり見ないらしい。
将棋も夢には出てこないらしい。
ボスの説では、起きているときに情報の整理を一生懸命しているから、
夢のなかで整理する必要がないのではないか、と言っていたけれど、
たしかにそうなのかしれない。
羽生さんにとって将棋は「外側」にある、ものであって、
その整理に「夢の思考」は必要ない、
ということなのかもしれない。

最近、夢をよく見るようになった。
それは、脳に「夢の思考」が必要になっている、
ということなのだろうか?
何でなのか考えよう。

月曜日, 7月 03, 2006

aha addiction

ひさしぶりの日記。気がついたら1ヶ月以上たっている。

土曜日のブラジルvsフランス戦をみたら、
睡眠サイクルがずれてしまって昼間が眠い。
論文のリバイスがきて、あと二週間以内に修正する必要あり。
6月のあたまに、脳の創造性に関するひらめきがあって、
ここ半年間考えていたことがすべてつながるではないか!
ということに気がついて、
頭が躁状態になる。

この脳の状態は、

創造性について考えている脳は果たして創造的といえるのか?
という自己矛盾な問題をかかえているけれど、
そういうことは気にせずに、
とにかく、日々さまざまなアイデア(というか妄想)が湧いてきて、
ある日、はっと思いついたことを道ばたで携帯にメモしていたら、
オンゾーに目撃されて、向こうの世界にいってしまった人、とか、
思想を打ち込んでる危ない人とか散々な言われようで、
これに近い症状についていくつか心当たりがある・・と思う。

側頭葉人格とか、過剰書字とか、なんとか依存症。

たぶん、過剰書字にちかい気がする。
つらい現実から身を守るために、
脳が生みだす過剰な生成の働き。

ひらめきはaddictionの効果があると思う。
ひらめきが連続してうまれる状態は、
例えるなら、ぷよぷよ連鎖がずっと続くようなイメージで、
その間、持続的に脳内報酬がでる。

それがとまらない状態を、
勝手に「aha addiction」と名付けよう。