火曜日, 11月 27, 2007

無我の脳活動


Goldberg II, Harel M, Malach R.

When the brain loses its self: prefrontal inactivation during sensorimotor processing.

Neuron. 2006 Apr 20;50(2):329-39.


我を忘れてなにかに没頭しているときの脳活動と

自分を意識しているときの脳活動の間に

違いが見つかった、という論文。

被験者にサッカーボールやヨットや象の写真を見てもらい

映っているものが

好き/嫌いか、どちらでもないかを判断してもらう内省タスクと

動物か、その他かを判断してもらう分類タスク

をしてもらう。

あるものが好きか嫌いかは自分の感情を内省しないと

判断できないためメタ認知が必要になるけれど

動物かそうでないかを分類する作業にはメタ認知はいらない。


その結果

分類タスクをしているときの脳活動は、

内省タスクをしているときの脳活動と比べて

有意に左脳のSFG(left superior frontal gyrus)の活動が低下する。

写真だけでなく音で同じタスクをさせても同様の結果が出た。

なにも考えずにできる作業をしているときは

前頭葉の活動(ここではleft SFG)が低下しているという結果は

脳トレで単純な計算をしているときのほうが難しい問題を

解いているときよりも前頭葉の活動が活性化するという

はなしとは逆の結果となっていて面白い。


ハイデガーが意識について

熟練した大工がかなづちで釘をトンカントンカンと

打っているときは無我の状態なんだけど、釘を打ち損なって

修正しなくてはいけなくなると我にかえる

という例をあげて

運動する→環境が変化する→感覚入力を受ける

また運動する→・・というループが

予測通りに進行しているときは、意識は環境と一体化していて

消えているのだけれど

そこにゆらぎやノイズがはいって予測と感覚入力の間にズレが生じると

そのズレを修正するために意識が立ち現れる

という議論をしている。

だからこの論文の結果は、

sensory-motor couplingのズレがないときは

前頭葉は活動しないのだけれど

sensory-motor couplingにズレが生じると前頭葉が活動して

メタ認知が立ち上がり

脳のリソースを再配分してそのズレを修正しようとする

と解釈することができる。

メタ認知というのは

ある計算プロセスが走っている

そのプロセスを外から眺めるというイメージがあって

ハンフリーが「内なる目」という本のなかで

こんなわかりやすい絵を描いている。

f:id:toooru:20071128031821j:image


機能主義的にいうと

前頭葉は不測の事態が生じたときに

自分の行動を修正するために進化した

と説明することができる。


しかし、そんなことを言いたくてこのエントリーを

ここまで書いてきたのではない気がしてきて

自分が一番不思議な感じがするのは

メタ認知が立ち上がっていなくても意識はある。

外の世界を感じクオリアも感じている。

そして、そういう状態から引き剥がされたカタチで

その状態をモニターするメタ認知が生じる。

それを外から俯瞰すると上の絵のようになるわけだけれど

それは実際にわれわれが日々感じている

メタ認知体験とは異なっている気がしていて

自分の日々の生活は、論文について考えなくてはいけない

(メタ認知が立ち上がっている状態)と思っていながら

いつのまにか妄想モードに没入していて(メタ認知消失状態)、

ふと我に返って(メタ認知が立ち上がって)といかんいかんと思って

また論文について考える・・

という無限ループなんだけれど

そのプロセスは

直線があって、その直線から引き剥がされたかたちで、

外からその直線を俯瞰する自分がいる

というようなイメージではないのではないか?

直線の先端にずっと自分というのは固定されていて

メタ認知が立ち上がってなにかから

引き剥がされたような感じがしても

やっぱり自分はずっとその先端にいつづけている・・

そういうプロセスがずっとずっと起こっている。

というか、なんというか、

ハンフリーの絵みたいな新たなループが生まれるのではなくて

メタ認知の消失状態も起動状態も

トポロジカルには同じなんじゃないか?

それはどういうカタチをしているんだと言われると困るんだけれど

死にかけている私、メタ認知が起動すると

幽体離脱をおこして、それを見ている幽体離脱の私が

立ち上がる、というイメージではない

新しいイメージがつくれるのではないかと思った。

と考えてみたけれどこれはなんか違うきがしてきた。

自分が不思議なのは、日常の生活のなかでは

メタ認知の起動と消失の境界というのはずっとあいまいで

いまいちいちどっちだろう?なんて考えることなしに

思考というものは両者があいまいに絡み合いながら進行している

そういうありようが面白いのだと思う。


しかしループが付け加わるという概念はどこまで有効なのだろうか?

たとえばさらにもうひとつループがつけ足されたとき

そこから脳に生まれるであろう新しい機能を演繹することは可能なのだろうか?

たとえば人間以外の霊長類が一階建ての脳をもっていて

人間だけが二階建ての脳をもっているとする。

二階の住人は一階で起きていることを観察して

行動に反映させることができる。

チンパンジーはどうなんだ?とかいろいろ疑問はわくけれど

問題を簡単にするためにそう仮定してみよう。

ではさらにヒトが進化して、脳が

三階建てになったらどうなるのだろう?

三階の住人は二階の住人を観察して行動に反映させることができる。

では三階の住人たちによってもたらされる新しい脳力はなにか?


すぐ思いつくのは

脳のなかにいくつもの人格を同時に走らせられるようになることだろう。

多重人格の人でも、同時に現れる人格は1人なんだけど

それが何人も頭のなかで現れている状態。

でも幻聴みたいにいつも別の人の声が頭のなかで

聞こえるという状態では困る。。


階層が一段あがればなにか質的な変化がおこるという

直感はするのだけれど

いまの階層=ループが増えることのメリットは

たんにパターンしか処理できなかったのが

パターンのパターンまで処理できるようになって

さらにパターンのパターンのパターンまで処理できるようになる

ということしか想像できなくて、そこからは質的な違いは出てこないのではないか?

だから、ホーキンスの階層モデルも階層を積み上げていって

パターンのパターンのパターンの・・とパターンの階層が上げられる

といってもそこから質的な変化が生まれるとは思えない。


そもそもいまアツいスモールワールドネットワークだって

新しいループが付け加わったとき、そこにどんな質的な変化が機能上生じるのか

そういうことを予想できる枠組みは備えてない。

ってよくわからなくなってきたのでここで考察おしまい。

日曜日, 11月 25, 2007

かってにベスト


初音ミクの進化を見るのが面白くて

ここ一ヶ月ぐらいずっとニコ中(ニコニコ動画中毒)である。

日々新しい曲が現れるということが

とてもエキサイティングなことで、ネット上で生まれる「祭り」って

このことなんだと感覚的に理解。

面白いことが起こってる場所に人は集まってくる。

せっかくネット時代に生きているんだから

一生に一度は1万アクセスのコンテンツを作ってみたいなーと思う。

きっと一度でも1万アクセスとかいくような体験をしたら

やめられなくなるのではないか?

そういう興奮を味わえる可能性がだれにでも開かれたところがネットのすごいところだと思う。

ニコニコ動画では「才能の無駄遣い」という言葉が

いちばんの誉め言葉になっているところがとても面白くて

そういうインセンティブを与えてくれるコミュニティの存在と

それに参加しようとする個人の在りようが

たぶんウェブ時代の創作の本質なのだと思った。

というわけでかってにベスト。

【動画】桜の季節 - Full.ver 【初音ミク】(オリジナル)


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オリジナル:http://www.nicovideo.jp/watch/sm1427306





【初音ミク】オリジナル曲 「melody...」 (STEREO)(高画質)



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オリジナル:http://www.nicovideo.jp/watch/sm1381337





初音ミク オリジナル曲 「saturation 」 高音質



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オリジナル:http://www.nicovideo.jp/watch/sm1237688





初音ミク オリジナル曲 「近未来都市」



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オリジナル:http://www.nicovideo.jp/watch/sm1422063





[PV]みっくみくにしてあげる/初音ミク Miku Hatsune(画質・音質修正)



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オリジナル:http://www.nicovideo.jp/watch/sm1359820


土曜日, 11月 24, 2007

ウサビッチ


いまウサビッチがあつい。

これ。


D



公式ホームページに書いてある紹介文がまたおもしろい。
http://www.usavich.tv/about.html

ロシアの監獄に閉じ込められたウサギのキレネンコとプーチン。監獄生活といえば希望のない暗い毎日のはずなのに、なぜか彼らはのほほんお気楽な収監ライフを満喫中。

彼らにとっては看守たちとの日々のイザコザも退屈しのぎの楽しいレクリエーション。監獄に紛れ込んだ動物がいれば仲間に引き込み、やりたい放題好き放題のユルすぎる監獄ライフは絶好調!

かたや極悪死刑囚のキレネンコ、かたやちょっとしたサボタージュで懲役をくらってしまった善良市民のプーチン。性格も境遇も違いすぎる彼らの監獄ライフは一体どんな結末を迎えるのか……。 

リズミカルな展開の中にドタバタが満載! そしてトラブルはてんこ盛り! 企業用映像からテレビCM、そしてゲームなど、多岐にわたる活躍のフィールドを誇り、そのすべてにおいて独自のセンスと圧倒的なクオリティで高い評価を受けるカナバングラフィックスが制作を担当した良質のシチュエーションコメディ。

1-20話をすでに三周ぐらいみてしまっていて中毒度かなり高し。

プーチンのゆるさがたまらない。

無敵のキレネンコが最高。

いじめられるのが大好きなコマネチ(オカマヒヨコ)の顔がいい。

お約束で最後に流れるクラシック音楽(曲名忘れた)もいい。

キャラが立ったキャラクターたちの相互作用がとても

リズミカルで気持ちいい。とくに5話の音のセンスが秀逸。

とても厳しい環境なんだけど、そういうものを超越した

楽観的で陽気な雰囲気の感じが

昔見た映画「レニングラード・カウボーイズ・ゴー・アメリカ」に似ていると思った。

この全体に流れるゆるくて楽しい雰囲気・世界観は

ロシア人の国民性にもともとあって、

それを抽出してパロディ化することで生まれたものなのか

天才バカボンのようなギャグまんがやコメディというジャンルが発見した

笑いを生み出すためのお約束なのかはわからないけれど、

このウサビッチの雰囲気から感じられる手触り感はとてもいいと思う。

金曜日, 11月 23, 2007

Flickrの楽しさを知る


最近、WiredでFlickrが『Place』というサービスを始めたのを知って

初めてFlickrの楽しさを知る。

『Flickr』で世界旅行:写真や情報を一覧できる『Places』機能

http://wiredvision.jp/news/200711/2007112218.html


IcelandのReykjavik

http://www.flickr.com/places/Iceland/Reykjavik/Reykjavik


Flickr Places

http://www.flickr.com/places


上のページにアクセスして、どこでもいいから地図をクリックすると

たいてい一枚はおっ!と思えるすごいクオリティの風景写真があって

見ていてとても楽しい。飽きない。

どこか地図をクリックすればかならず一枚はいいと思える写真と

出会えるのってじつはとてもすごいことなんじゃないかと思う。

集合知のパワーを実感。


素晴らしい写真を見ているうちに沖縄のせいふぁうたきを思い出した。

せいふぁうたきは沖縄の宗教の聖地のようなところで

二年前に研究室旅行で沖縄にいったとき、かなり衝撃を受けた場所。

それで、せいふぁうたきの写真がないかとokinawa+seifa-utakiで

検索してみたところ、あった!

http://www.flickr.com/search/show/?q=okinawa+seifa-utaki

写真を見ていると、記憶のなかのせいふぁうたきが甦ってきて

多くの眼を集合させることでひとつの場所を記録するという

プロセスがとても面白いことだと思った。

でも

Flickrの写真を見ていると曇りの日の撮影が多いことに気がついて

二年前にいったときは晴れていて、蝶々が飛んでいたり、

岩のすき間から光が射し込んでいたりしていて

自然が生み出した聖地!!という感激があって

この場所は、いつもこんな感じなんだろうなーと漠然と思っていたのだけれど

もし曇りの日にいっていたら、いま抱いているような特別な場所という

感覚は生まれなかったのではないかとふと思う。

記憶のなかのせいふぁうたきはじつはとても運が良かったから

たまたま出会えただけなのかもしれない思ったら、

時間の稀少性について考えた。

9月に長野にいったとき丸山健二さんのお宅で見せてもらった花たちの写真は

すごく生命感が溢れていて、小林秀雄の

美しい「花」がある 「花」の美しさという様なものはない

という言葉の意味を実感したのだけれど

そういう花の形を撮るためには、

1年のある日のある時間帯という

すごく時間窓の小さいタイミングが

存在するのだというはなしにとても感動した。

それ以来、美というは永遠というよりは

一回性によって支えられていて

その一瞬を永遠なものにするのがきっと芸術家の役目なのだけれど

その一回性の背後には、

サンゴが満月の夜に一斉に産卵をするように、

自然界の生物たちが直面している、種を残すために交配相手といかに出会うか

タイミングをものにするか、という切実な問題があって

そのなかから、交配相手の気を引くために、自分の生命エネルギーのすべてを

あるタイミングに集中的に投入して、一瞬だけでいいから輝いてやろう、

という戦略をとる生物が現れたとき

そういう信号をちゃんとキャッチするために

美という感覚が進化してきたのではないかと考えるようになった。


ある場所の風景だって、そこにある花や木々や太陽光の組み合わせが

一番いいときというのは、一年の中できっとわずかなタイミングしかなくて

一人一人の眼と時間は有限で、そういうタイミングに出会える可能性

はとても低いのだけれど

みんなの眼と時間を持ち寄れば、

そこには無限とも思えるリソースが生まれることを意味していて

それが、Flikrに素晴らしい写真がたくさんあることの理由なのだと思った。


ヒトが1億人いて、みんなデジカメをもっていれば

だれでも一生に1枚は最高にイイ写真を撮るだろう。

その1枚がネットにアップされるだけで

1億枚からなる写真集が生まれる。

そんな消費しつくせない素晴らしいもので溢れる

時代に立ち会ってしまっているのかもしれないと

想像してみるとなんだかすごいことだなーと思った。


というわけで、おれも写真を投稿してみたyo。


Seifa-utaki 1





Seifa-utaki 2


おれのfavorite集

http://www.flickr.com/photos/21150146@N07/favorites/show/

水曜日, 11月 21, 2007

拡張現実感

こんなホームページを見つけた!


「攻殻機動隊」「電脳コイル」の世界を実現!

ARToolKitを使った拡張現実感プログラミング

http://www1.bbiq.jp/kougaku/ARToolKit.html


現実世界にあるマークをウェブカメラで映すと

あらかじめ登録してあるポリゴンデータを

映像に映っているマークの上に上書きしてくれる技術。



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「拡張現実感」=「Augmented Reality(AR)」と呼ばれているらしい。

これはヤバい!!

これを使って何か認知実験ができたら面白くない?


金曜日, 11月 09, 2007

英語耳のススメ


英語のヒアリングがまったくもって上達しなくて


ずっと放置していたのだけれど


最近一念発起して再びチャレンジを始める。





小林秀雄の「考えるヒント」の「言葉」という文章でつぎのような感動的な考察があった。






生活するとは、人々がこの似せ難い動作を、知らず識らずのうちに、限りなく繰り返す事だ。似せ難い動作を、自ら似せ、人とも互いに似せ合おうとする努力を、知らず識らずのうちに幾度となく繰り返す事だ。その結果、そこから似せ易い意が派生するに至った。これは極めて考え易い道理だ。実際、子供はそういう経験から言語を得ている。言葉に習熟して了った大人が、この事実に迂闊になるだけだ。言葉は変わるが、子供によって繰返されている言葉の出来上がり方は変わりはしない。子供は意によって言葉を得やしない。真似によって言葉を得る。この法則に揺ぎはない。大人が外国語を学ぼうとして、なかなかこれを身につけることが出来ないのは、意から言葉に達しようとするからだ。言葉は先ず似せ易い意として映じているからだ。言うまでもなく、子供の方法は逆である。子供にとって、外国語とは、日本語と同じ意味を持った異なった記号ではない。英語とは見た事も聞いたこともない英国人の動作である。これに近附く為には、これに似せた動作を自ら行うより他はない。まさしく習熟する唯一つのやり方である。






さらに続いて






例えば、「お早う」という言葉を、大人風に定義して意味するのか、それとも、という具合で切りがあるまい。その意を求めれば切りがない言葉とは即ち一つの謎ではないか。即ち一つの絶対的な動作の姿ではないか。従って、「お早う」という言葉の意味を完全に理解したいと思うなら、(理解という言葉を、この場合も使いたいと思うなら)「お早う」に対し、「お早う」と応ずるより他に道はないと気附くだろう。子供の努力を忘れ、大人になっている事に気附くだろう。その点で、言葉にはすべて歴史の重みがかかっている。或る特殊な歴史生活が流した汗の目方がかかっている。昔の人は、言霊の説を信じていた。有効な実際行為と固くむずばれた言葉しか知らなかった人々には、これほど合理的な言語学はなかった筈である。私達は大人になったから、そんな説を信じなくなった。しかし、大人になったという言葉は拙いのである。何故かというと、大人になっても、やっぱりみんな子供である。大人と子供とは、人性の二面である、と言った方が、真相に近いとも思われるからだ。これに準じた言葉にも表と裏がある。ただ知的な理解を極めてよく応ずる明るい一面の裏には、感覚的な或は感情的な或は行動的な極めて複雑な態度を要求している暗い一面がある。






これを読んで


ミラーシステムについて言及している!とか、


レイコフの身体性に基づいた言語学よりずっと前に同じことをいっていたのか?とか


小林秀雄はこの言語観をどうやって得たのだろうか?とか、


本居宣長がすでにそういう言語観に達していたのか?とか


ってか、哲学的な思考ができる人ならふつうに気づくことなのか?とか


たくさん考えたいことはあるのだけれど、


なによりもここから





「言語とは運動である」





という深い確信が芽生えて


もう一度ヒアリングにチャレンジすることにする。











教材として選んだのは松澤喜好さんの「英語耳ドリル」で


松澤さんは一つの歌を300回聴くというメソッドを


提唱していて、


最初の100回は耳慣らしでただ聴くだけ。


次の100回は発音記号つきの歌詞を見ながら聴いて


発音記号と発音を対応させるべし。


最後の100回は、自分で声に出して歌う。


というシンプルな内容で


簡単な運動を繰り返し練習するというプロセスが


スポーツにおける運動の獲得方法とまったく同じだと思い


これをすることにする。





先週とりあえず100回聴いて


つぎの100回をやろうとしたら


発音記号をマスターしてないことに気がついて


先週末は「英語耳」で43個の子音と母音の


発音方法を辛抱強く勉強したのだけれど


これがめちゃくちゃ面白い!





一つ一つの発音記号には、


正しく発音する方法があって


舌の位置と動かし方、息の出し方を


一から勉強すると


いままでまったく未知の


舌と息が連動したダイナミクスが


英語を発する口のなかでは繰り広げられていることに


はっきりと気がついた。





この感覚はやってみないと共有できないと思うのだけれど、


例えばテニスで練習して正しいフォームをみにつけることで


いつもボールをミートできるようになったときの快感と同じように


正しい舌と息の運動によって正しい発音ができたときの


快感というものがある!





一音一音正しい舌の動きをしようとすると


ひとつの単語を発音するだけでもすごい労力がかかって


舌をつりそうになるんだけれど


そうやって発音してみると確かにネイティブっぽい発音になっていて


初めて逆上がりができたときの喜びみたいなものがあった。





そして、この労力と注意深さでもって、


すべての単語というのは発音しなくてはいけないものなのか、と思うと、


それは、意味だけではなく、新しい運動のイメージを


一つ一つの単語に新しく貼りつける必要があることを意味していて


いままで既知だと思っていた土地が


突然広大な未知の大陸に変わるような感覚がして面白いと思った。





まだ現在進行形だけれど


英語が苦手な人にはおすすめ。


同志モトム。











そんな一日の夜、スペクタルな夢を見た。


都市の上空(たぶん高度500mぐらい)を電車が走っていて


電車のなかは普通に通勤電車の風景なんだけど


窓から眼下には、高層ビルから見えるような


東京の街並みが広がっていて、


そのなかに一本だけ高い塔が立っている。





おれのミッションはなぜか走っている電車から


その塔に向かって火の玉を投げて、塔にてっぺんから出ている


導火線に火をつけなくてはいけないということになっていて


塔が真下に見えたときオレは電車の窓から塔にむかって火の玉を投げた。


玉は落下していくのだけれど、慣性の法則を考慮せずに投げたためか


玉は塔から右に外れていく、、失敗した!と思った瞬間、


火の玉が破裂して、花火みたいに広がった火の粉が


塔の導火線に火をつけて(なんて都合のいい展開!)


そうしたら塔から空中に向かって花火が打ち上げられて


電車のなかから、球状に広がる大きな花火を見た。





夢の中なんだけどミッションコンプリート!みたいな


高揚した気分になって目が覚める。





ふだんはこんなスペクタルな夢をまったく見ないので


これは脳が英語耳体験の興奮を


別の物語を通して解釈した結果なのかもしれない


と思った次第。





おしまい。