水曜日, 1月 31, 2007

「底を掘れ!」


最近、仏教がマイブームで、ことの始まりは、


去年、養老さんの「無思想の発見」を読んで、


養老さんが独力で辿り着いた無我の考えが、仏教にすでに書かれていた!


というようなことが書いてあって、仏教とはなんぞやと思う。





その後、玄侑宗久さんが「現代語訳 般若心経」で、



脳科学の用語を使って仏教を説明しているのを読んで


仏教って哲学だったのか!ということを知る。





さらに年末に司馬遼太郎の「空海の風景」を読んで


密教ってすごい!!と思う。たとえばこんな感じ。



 おそらく人類がもった虚構のなかで、大日如来ほど思想的に完璧なものは他にないであろう。大日如来は無限なる宇宙のすべてであるとともに、宇宙に存在するすべてのものに内在していると説かれるのである。太陽にも内在し、昆虫にも内在し、舞いあがる塵のひとつひとつにも内在し、あらゆるものに内在しつつ、しかも同時に宇宙にあまねくみちている超越者であるとされる。






そして今日、養老さんと玄侑さんの対談本、


脳と魂」を読んだ。





脳と仏教を語るには頭が整理できてなくて


部分だけをピックアップすると


この部分がグッときた。






養老: その場その場で、それなりに満足してるっていうことですよ。まさに成就したんですかねえ。まあ、ダメならダメで「しょうがねえや、それで」って開き直れるんですよ。そういう生き方したほうが楽なのになあと思うんだけど、やっぱり多くの人は、「こうしたらああなる」「ああすればこうなる」で自分を窮屈にしてるんだ。だからね、どん底に落ちて八方塞がりになったら、「底を掘れ!」っていうのが大好きなんです。どん底に落ちたら、そこから先は上がる一方だなんて甘いこと言うんじゃねえ。「掘れ!」ってね。






なんだかよくわからないけれど、おおお!と思い、


これは「どん底のときに思い出したい名言ベスト3」に入る、と思ふ。





「底を掘れ!」というのは


「ヤケになれ!」と言っているのでは絶対なくて、


まわりにいた人にもこの部分しびれない?と(強引に)読ませ、


どんな意味だと思う?と聞いたところ、





タナベは


さらに掘れば水が出てきて外に出られるかもしれない


と言い、


セキネは


養老さんはロックしている


と言った。





それで「底を掘れ!」の意味を自分なりに考えていたら


「無記」という言葉を思い出した。





東工大名誉教授でロボコンの創始者でもある森政弘さんが


機械部品の幕の内弁当」という本で


「役に立たないものを役立てる」ためには「無記」という


考え方が役に立つと言っていて


「無記」というのも仏教の言葉で、


善でも悪でもないもの。善悪以前のもの


という意味らしい。





たとえば、あるモノを目の前にして、


ああ、これは役に立たないなーという思いがフッとわいたとき


そのマイナスの価値観は、実は自分が勝手に作り出している主観的なものであって、


客観的なモノそれ自体は「価値」をもっていない。


つまり、価値というのは心の産物で、


頭の切換えや心の持ち方の転換によって、


あるモノを見たときに引き起こされる


「役立たない」という価値観を「役立つ」という価値観に


180度転換することができる!





と森さんは言っていて、例えで、





ある人が「コピーの機械の開発」という問題を抱えていて、


容易にはよい案が浮かばず、困り抜いていたという。


そこで、ストレスを解消するために音楽を聞こうとレコードをかけた。


演奏が終わってプレーヤーからレコードを外し机の上に置いたら、


ほこりがふわふわっと大切なレコードに付いたという。


彼は「こん畜生!」と思ったのだけれど、


すぐにそのマイナスの価値を脱却して、「無記」の世界へ脱出して


カッカとした「レコードにほこりが付きやがった!」という思いは、


「ああ、プラスチックの円盤に粉末が付着したのだな」


という冷静な見方に転換したらしい。


そして、この視点の転換が静電気でトナーを付着させて印刷するという


コピー機の原理につながったらしい!!





「無記」の説明が長くなってしまったけれど、


玄侑さんも「一切唯心造」という言葉を言っていて、



不安だとか悩みだとか言っても、それはすべて、結局その人の心がつくり出すものだ



という意味らしい。





これらをまとめて適用すると


「どん底」というネガティブな価値は


結局その人が「こうしたらああなる」「ああすればこうなる」という自分縛りによって


主観的につくり出しているものであって、


「あとは上がる一方」という考えは


その価値を維持したまま・変更しないまま


つまり自分を変えないまま


周囲の状況が変化するのを待っているところが甘い(養老さん的には)。


「底を掘れ!」というのは、


意識的・能動的に「どん底」から「無記」の世界に脱出して


価値が180度転換するような


見方を見つけろ!(それが「掘れ!」に相当する?)


という意味で、


それによって「どん底」を180度ひっくり返せる


ことだってある!!





という意味なのではないか?なんか違うかも。。


いずれにしても仏教は深いぜ!と思ふ。


月曜日, 1月 15, 2007

「LOST」


先週から月火の深夜に「LOST」が放送されていて


1話と2話を見ておもしろい!!と思って


土日2日間をかけてレンタルDVDで


「LOST シーズン1」をすべて見てしまった。


全25話で1話が約43分。目が痛くなる。





飛行機が奇妙な島に墜落してしまって、


そこでサバイバルをする話。


1話ごとに1人の登場人物の過去の話とリンクして物語が展開する。


島は謎に満ちていて、オカルトの要素も入っている。





演出が怖い!!





ジャングルを歩いていると、カサカサと音がなる。


周囲をぐるぐる見渡す。人影は見えない。


でも音はどんどん大きくなる。なにかが迫ってくる!!





という演出がとても効果的に使われる。





あと島の謎も怖い。





恐怖は「目に見えないもの」に宿る、ということを知る。





敵の正体が実は人でした、とかエイリアンでした、とか


具現化されてしまった時点できっと恐怖というのは消滅してしまう気がしていて


どこまでいっても正体がなんだかわからないということが


効果的に恐怖を生み出すのだと思った。





そういう意味では、映画「ブレア・ウィッチ・プロジェクト」に似ていると思う。


あの映画はみんな最後に消えてしまうけれど


最後まで森にすむウィッチの正体は謎のままだった。





「LOST」を見ていたら、電気のついてない部屋の暗闇が怖くなってきて、


ふと、文明以前のジャングルで暮らしていたヒトたちはこの感覚を


ずっと持ち続けていたのではないだろうかと思ふ。


昔のヒトが膨大な神話を生み出した理由の一つは、


「目に見えないもの」に対する恐怖を


克服するためにあったのでないか?





昔、簡単な記号の言語を操れるゴリラが、


森には怖いものがいる


という意味のことを記号で説明している映像をみた記憶が


あるのだけれど、あれはなんだったんだろう・・。


単にヒョウみたいな天敵のことを指していたのだろうか。





話はさらに飛ぶけれど、


ヒトの脳の特権が「目に見えないもの」を見ることができる


ことにあるのは間違いなくて、「目に見えないもの」という考えが今とてもアツい。





科学は、「目に見えないもの」を見ようとする営みだと思う。


おもしろい例が、暗黒物質で、


銀河系の星たちの分布を見ると、クラスターをつくっていて、


観測される星たちの質量から計算される重力だけでは、


そのクラスター性を説明できないらしい。


もしニュートンの重力の法則が正しいならば、宇宙空間を


目に見えない、未知の物質が満たしていなくてはならなくて、


いまの科学者はなにもない宇宙空間に「暗黒物質」を見ている。





宗教だって基本的には「目に見えないもの」を見る脳の働きから


出てくるもので、ヒトは「目に見えない」超越的ななにかを「神様」と名付けてきた。


時間がたって「目に見えないもの」を具現化しようとして


偶像崇拝に向かう宗教もあるけれど、


イスラム教みたいにどこまでも視覚化することを禁止する宗教もある。





あと、昔のロボットアニメは、たいてい初回から


人のカタチをした悪玉が登場するのだけれど、


つまり、敵の正体が目に見えてしまっているのだけれど、


最近のエヴァンゲリオンから始まったロボットアニメの潮流は


最初は敵の正体が分からない。


「敵の正体」とかそれを支えている枠組みとしての「世界」とかその起源が


「目に見えない」大きな謎として設定されていて、


それが徐々に明らかになっていくのが、おもしろさの要素の一つになっている。


だから、おもしろさは謎が極まる真ん中あたりがピークで


徐々に世界の謎とか起源が明らかになる段階になって、


古代人の超テクノロジーが残したなにか、みたいな


収拾がつかないというか破綻しているチープな設定が


前面に出てきて苦しくなってくる。。





そういう意味で「LOST」は、「目に見えないもの」が


まだまだ謎のままで物語を引っぱっていて、


シーズン2もきっと見てしまう気がする!


日曜日, 1月 07, 2007

年賀状づくり


遅ればせながら


あけましておめでとうございます。


今年もよろしくお願いします。





年末年始、ずっとバタバタしていて


ようやく落ち着いたので年賀状づくりをした。





正月・・それは年に一度だけ


キャラクターをデザインする時・・なり。


とはいっても「ぼのぼの」風の絵しか描けない・・(涙)。





今年は2日かけて「線」ってやつを探求してみた。


その制作過程を一挙公開!!


というか2日もかかったので


ここに苦労の制作記録を残しておこうと思い立つ。。





紙1枚目(1/7)。


イノシシを描こうとしたらカバになる。


イノシシをグーグル・イメージで調べて


はじめてイノシシの鼻のかたちを知る。


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紙2枚目(2/7)。


立たせてみたり、座らせてみたりしてみる。


顔の原型が定まる。


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紙3枚目(3/7)。


立たせることにこだわる。が、足がうまく描けない・・(涙)。


諦めて四足にしてみる。


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紙4枚目(4/7)。


立体四足を諦めて、線にする。


風船イノシシ。


これでいいかな~と一瞬おもう。


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紙5枚目(5/7)。


が、今年は線を追究するぜぃという自分縛りを思い出し


新たな探索に出る。


ぼのぼの風をやめてみる。うーむ。。


正面から描いてみる。うーむ。。


鼻まわりのパーツを探索してみる。鼻・口・牙の関係をつかむ。


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紙6枚目(6/7)。


翌日。朝起きて、ふっと楽器を吹かせようと思い立つ。


安直にラッパっぽい楽器を吹かせてみる。いいじゃん!と思う。


周りに踊るイノシシも欲しい!と思い、踊らせてみる。


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紙7枚目。


ラッパ・イノシシだけでいいやと思い、


もう一度描いてみる。が、再現できない・・(涙)。


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・・・という試行錯誤の末、


6枚目のラッパ・イノシシをスキャナーで取り込んで


年賀状に仕立てた。完成!!


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