金曜日, 3月 16, 2007

日常をバラバラにする


ガルシア=マルケスの「百年の孤独」を読み終わる。


一族のなかで自分の妄想に夢中になる人々が必ずいて、


それにあきれている周りの人がいて、


親からみると俺はこれに近いのではないかと思うと


なんだか憂鬱になったが、読み終わるとなんだか深い感慨につつまれた。


記憶の強度が絶えず要求される小説で、


登場人物がつぎつぎに生まれては死んでうつろっていく。


高3のとき世界史をとっていて


なんでドラゴンボールの歴史はすべてありありと思い出せるのに


世界史は記憶できないのだろうと疑問におもっていたのだけれど、


「百年の孤独」はいつも親や祖父の名前が子どもに受け継がれていって


こいつはだれだ!?と忘れかけた登場人物を思いだそうとするたびに


その人の物語が思い出されて、その過去の歴史を絶えず


頭のなかで確かめていく状態が高3のときドラゴンボールの


歴史をすべて思い出せた感触に似ていた。





そんな気分で朝を迎えるとボスから電話がきて


「おまえ、就職活動してる?」


「してないです」


「はてなとかどう?」


と聞かれて、あー、それもありかなと思う。





そう思った理由は、きっと火・水と早稲田の生物物理のシンポジウムに出て


生物物理の人々が全然生命の複雑さと向き合ってないという感覚をもって


結局、いまもっとも生命の複雑さとまともに向き合ってるのは


アートとウェブなのではないかと思ったからかもしれない。





ボスに自由というのは理想のように見えるけれど実は生産的でなく、


逆説的に見えるけれど自ら拘束を見つけることが実は重要なことなのだと


いわれて、(ようは就活しろということなのだけれど)


「百年の孤独」を読んで憂鬱になって、確かにそうかもと思ふ。





最終審査が終わってからの一ヶ月間、


なんの拘束もなくひたすら読みたい本を読んだ。





保坂和志 小島信夫 小説修行


(途)カフカ 審判


日高敏隆 帰ってきたファーブル


小川洋子 物語の役割


竹田青嗣 ニーチェ入門


保坂和志 カンバゼーションピース


(途)河合隼雄 対話集 こころの声を聴く


(途)保坂和志 この人の閾


保坂和志 <私>という演算


保坂和志 小説の自由


ガルシア=マルケス 百年の孤独





一年前に保坂さんの「小説の自由」を拾い読みしたのだけれど


カフカの「城」を読んでからもう一度じっくりよんだら


かつてない高揚感を得た!!


保坂さんの「小説の自由」のここがグッときた。






 そんなことではなくて、小説を書いていればそのあいだだけ開かれることがあるから書くのだ。「開かれる」「見える」「感じられる」……人によって言葉はそれぞれだろうが、小説を書いているときにだけ開かれるものがある。


 私が「ペリー・スミスがペリー・スミスとして生きる」と感じるとき、私は自分が小説を書いているときに開かれるものをイメージしている。こういう風に小説について小説でない文章を書いているときもそれが全然開かれないわけではないけれど、小説を書いているときの方がずっと開かれる。


 私は小説という表現形式を使って、その何かが開かれる感じを経験することに馴れすぎてしまっているのだけれど、小説から離れて、空を見ているときとか猫といるときとか夜布団に入って暗い空間を見ているときとか、いろいろなときに、それの弱いものは頭をよぎっていく。小説から離れているときのそれがまったくなかったら小説を書くことはできないだろう。


・・・・


 小説、音楽、絵画、彫刻、写真、芝居、映画‥‥‥これらすべての表現形態は、手段として、文字とか音とか色とか線とか具体的なものしか使えないのだけれど、それを作る側にも受けとめる側にも具体性をこえたものが開かれ、それが開かれなければ何も生まれない。


 その抽象性だけを強調してしまうと、安易な宗教性に陥ってしまうだろうし、作る側は作品にただ〝念をこめる″わけでは全然なくて、具体的な作業をつづけてひたすら具体的な物を作るわけだけれど、その具体物によって具体性をこえたものを開こうとしている。そこはやっばりどうしても言葉では伝わらないのだ。






この「開かれる」感覚が、竹田青嗣さんの「ニーチェ入門」の


「生命感情」と響き合って、あー、そうなのかと思う。






 ニーチェが言わんとするのはこういうことだ。一切の価値の源泉は「カヘの意志」だが、人間においてそれはとくに、「性欲、陶酔、残酷」という三つの言葉に象徴される。生はつねにこの言葉に象徴されるような「生命感情」をもとめる。それらは人間の生の起源であり、源泉であり、根拠なのであると。おそらくここに、「人間は何のために生きるのか」という問いに対するニーチェの最も深い答えが隠されている。


 たとえば、芸術や恋愛や性欲などにおける「陶酔や恍惚」は、それらがひとつの本質として繋がっていることを象徴的に教えるものだ。つまりニーチェは、「肉体」、「性の力」、「陶酔」、「恋愛」、「恍惚」、「支配欲」といった諸感情の中心を貫いているのは、「力への意志」という強靭な本質にほかならないと言っているのである。


 人間はたしかに、これらの諸感情の中で最も強い「生命感情」、生の充実感と生の肯定感を抱くような存在だといえるだろう。そしてニーチェは、生の「価値」の根本的な根拠はまさしくここにあって他のどんな場所にも存在しないと言うのだ。なぜなら、もともと「価値」とは「力ヘの意志」が世界に投げ与えたものであって、世界の隠された場所から人間に投げ与えられたものではないからである。






なんだか飛躍するけれど


結局、重ね合わせが重要なのだと思う。


保坂さんに最近やたらはまっているのは


脳科学・認知科学と芸術が高い次元で


融合していると感じるからだ。


それらを重ね合わせるための直感的かつ緻密な「思考のプロセス」そのものに


すごくリアリティと魅力を感じる。





保坂和志 「<私>という演算」より抜粋



いまや文学は人間の認識に働きかけたり人間の認識を描き出したり解析したりするものの一つでしかない。ぼくはそういう立場で小説を書きはじめたのだった。






養老さんとスマナサーラさんの対談本、「希望のしくみ」のなかで


養老さんが「思考」するとは対象を「バラバラ」にして「つなげる」ことだと


書いてあっていたく感動した。これも以下抜粋。






養老 甲野さんと昔から付き合っているのは、甲野さんの言っているからだの動かし方の話と、僕がものを考えるときとがまったく同じだからです。ものを考えるとき、皆さんはバラバラなものをつなぐと思っていないんです。だから僕が話をすると、昔はよく「先生、つながってません」と言われた(笑)。やっぱり、下がるのと、回るのを別にやってるからね。だけど、別々なのが本当なんですよ。


 一つひとつの過程を「素の過程」と言います。素の過程は、数はたいしてないんです。だからきちんと分けて、それから合成してやることです。すると最初から混ぜるより、はるかに力が強くなります。なぜだが知らないけど、有効になるんです。たぶんそれは、訓練のいちばん基本だと思う。斜めにやるほうばっかり訓練しても、たかが知れているんですよ。まず、きちんと分けることが大切なんです。なにしろもともと斜めにできていないんだから。


スマナサーラ いまおっしゃったようなことは、たくさんありますね。まず緻密に分解するんです。バラバラにする。すべて、からだの感覚、思考まで、分解することが大切です。


養老 そのすべてが合理的に役に立つとは限らないんだけど、たぶん、われわれは自分自身をもっとバラバラにしなきゃいけないんです。だけどいまの社会は、ある意味でそれをバラバラにしないように、しないようにしている。


ーわれわれは、オートマティックになっているんですね。


養老 そうそう。それを僕は「丸める」って言ったんですよ。


スマナサーラ 「丸める」は、オートマティックということなんですね。それは誰でもやろうとしていることで、そこからほぐしていけばいいんです。だから、このヴィパッサナー瞑想で第一に何を悟るかというと、分解能力なんです。これがいちばん最初の段階で、まだ上に7つぐらいあります。


ー丸めるから「ああすれば、こうなる」になるんであって、バラバラに分解すると、その場その場で精いっぱいになる気がしますね。


 それが、生き生きと生きている、ということなんですか?


養老 バラバラにしたものを組んでいくことがね。あるとき、それができるようになっちゃうんだ。






思うに


いま一番おもしろい問題は「人間」や「日常」を「バラバラ」にして「つなげる」ことなのではないか?


そして、そのための脳科学のあり方が問われている(と勝手に思う)。


「日常」は平凡であるが、その平凡を支えている脳内過程は謎に満ちている。





保坂和志 「世界を肯定する哲学」より抜粋。



文学などでは、苦痛や危機や喜びといった特別な場面を材料に使って、「生きている」ことの自覚を促すけれど、それは「生きている」ことのいわば輪郭であって、その内側ではほとんど絶対的に漫然と生きている。






さいごに


保坂さんと小島信夫さんの往復書簡、「小説修行」にぐぐっとくる部分があった。






 私はそういう風にして「人間」とか「私」というものを、統合されたものではなく解体して考えることにしました。私のこの人間観をヒューマニズムにものすごく反する人間観と解釈する人がいっぱいいるだろうと思いますが、私は「人間」を肯定するためにこういう人間像を考えたのです。


 「私」とはこの世界に一定期間間借りしている現象なのです。私は何もしなくてもただ生きているだけで、この世界に流れた時間を集積していることになるのです。生物の歴史によって淘汰されたり洗練されたりした機能が人間の中で活動し、人間の歴史によって築かれた文化や技術や思考や感受性の集積が活動しているのが、まさに「私」なのです。






脳科学となにを掛け合わせるか?


それが問題だ。


2 件のコメント:

じゅん さんのコメント...

ぴんときた会社なら受けてみるといいかもね。
(アドバイスできる身分じゃないけど)、
考え抜いて決めたところって意外と
求めているものとずれていることが
多いような気がします。
良い出会いがあるといいね。

toru さんのコメント...

じゅんさん、コメントありがとうございます。
社会人の先輩としてのアドバイス、ありがとう!!
自分の直感を信じまする。。