月曜日, 9月 03, 2007

進化の学会


いつのまにか9月。


進化学会でボスの代打ではなすことになり


8月は進化学会の準備で潰れた。





意識における進化の収斂というテーマのもと


水無脳症の赤ちゃんは皮質がなくても意識があるようにみえる


鳥はvisual awarenessをもっているのか


タコは賢いけど意識があるのか


これらに共通の意識が生まれる神経機構はあるのか


について考えてはなしてきた。





複雑系コミュニティのひとたちは


意識を時間の側面から捉えていると思う。


一方、脳科学者は、意識があるときは


ココとココが活動した、みたいな脳計測の図をいつもみているので


気づかないうちに意識を空間的イメージで


考えてしまっているのではないか?と思った。


ということは逆に、


複雑系の研究者は力学系のモデルを研究しているから


時間的な性質に引きずられていると言えるのか?





それと


複雑系の人たちにとって意識とはなにか?という問題は


生命とはなにか?という問題と同義で


ヒトの意識もハエの意識も粘菌も同列のものとして捉えていて


脳の構造にはあまり興味がないように見えた。





養老さんが唯脳論で


空間(=構造=視覚)と時間(=機能=聴覚)は相容れないもので


たいてい、ひとりの脳の思考は、どちらかに偏る傾向にある


ということを論じているのだけれど


それってまさにこの問題ではないかと思った。





今回は意識を思いっ切り構造=空間的なものとして考えて


いたことに気がついて、もっと時間的なものについて


考えよう、と思ったのが今回の学会の一番の気づき。


その他にもいくつかの重要なインスピレーションを得る。


断らずに引き受けてよかった。











帰りに智積院にいった。


等伯の「楓図」がよかった。


f:id:toooru:20070904040946j:image


http://www.chisan.or.jp/sohonzan/keidai/syuzoko.html





等伯の息子が25歳のときにかいた「桜図」もあったのだけれど


その息子は26歳のときに他界してしまって


この世の無常を思った等伯が、


全身全霊を込めて描いたのが「楓図」であるらしい。


現物のふすま絵は色が薄くなっていて、


写真のような色鮮やかさは、感じられなくて


なんでこれが国宝なんだろうと思いながら、でも国宝なんだから


きっとどこかすごいところがあるに違いないと思って


しつこく見ていたらだんだんと「楓図」がすばらしいものに見えてきた!





なにがいいのだろう?と考えていたら、


それは若冲の絵と同じで「生命力」が感じられる


というところに惹かれていて


絵のなかに植物の「生命力」というものをどう描き表すか?


という問題に等伯は立ち向かったんだなーと考えていたら


進化学会で、郡司さんの生命をいかに記述するか?


生命をどんなイメージで捉えるか?という問題意識や


ベルクソンが純粋持続ということばで捉えようとした


脳のなかの生命現象のイメージとか


そういったものたちがあたまのなかでぐるぐる回りはじめて





それらの仕事たちは、


生命をどう記述するか?どうやったら自分には


ありありと感じられている「生命」を、


そのまま失われることなく他人にも感じさせることができるか?


という共通の精神をもった、


異なるチャレンジの成果なのかもしれない、と思った。


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