水曜日, 12月 05, 2007

批評の脳活動


連続投稿のテスト


Di Dio C, Macaluso E, Rizzolatti G.

The golden beauty: brain response to classical and renaissance sculptures.

PLoS ONE. 2007 Nov 21;2(11):e1201.

をよむ。

著者たちは被験者に

もとは黄金比の彫刻のプロポーションをいろいろ変えた写真を

見てもらうことで客観的な美のパラメーターを、

実験条件で、美しいか醜いかを判断してもらう審美条件で

主観的な美のパラメーターをコントロールしている。

勝手な推測で、reverse enginering的な分析をすると

著者たちのいちばんのひらめきは

彫刻の黄金比を変えれば、客観的な美というものを

科学的に扱うことができるということに

気づいたことではないだろうか?

黄金比に着目することで、

単一のパラメーターで美をコントロールすることができる。

主な結果は

黄金比の彫刻とそうでない彫刻をみているときの脳活動の差が

客観的な美を感じているときの脳活動で

そのときは、さまざまな脳部位とともに右の島という脳部位が活動していた。

島は"feeling of emotion"、すなわち

感情を感じているときに活動することがいままでに知られている。

一方、審美的な判断をしているときは

ただ見ているときと比較すると、右の扁桃核が活動していて、

これはそれまでの経験によって形成された自分なりの価値を

計算していると考えられる。


もっとわかりやすい解説はここを参照のこと。

「美には生物学的な根拠」彫刻作品と脳の働きを実験

http://wiredvision.jp/news/200711/2007112623.html


個人的に面白いと思ったのは

ただ美術館に行ったつもりで"simply enjoy"な気分で見てもらうモードのときと

審美的な判断をしてもらうというモードでは

脳の活動のモードが異なるところ。

この結果は

作品をただ鑑賞するのと

批評を書くことを念頭において作品を鑑賞するのとでは

脳のモードが異なるという問題につながるのではないかと思った。

自分のことなんだけれど

自分がすきな作品は、自分のなかで理由なんか見つけなくても

好きだと確信できるけれどそれを他人にも共有してもらおうとして

その作品について批評しようとすると

途端に難しくなると最近感じている。

なにがいいのかを説明するのは結構難しい。

むかしゲームの雑誌でこんなインタビューが載っていた。


ー任天堂が任天堂であるところは「遊ぶ人はどう思うんだろう」って一歩突き進んで考えるところだと思うんです。

出石 できたものにケチつけることは誰でもできるんです。じゃあ、面白くするにはどうしたらいいって考えた時にちゃんと指示できる人は任天堂でも数えるほどしかいない。ユーザーさんは”クソゲー”って投げてもいいんですよ。でも僕らはこれでお給料貰っている訳ですから、商品に仕上げなければいけない。今まで自分が培ってきたもので、誰でも一本はソフト作れると思います。何人かにはウケるかも知れないけれど、ミリオン続けようとしたら、それは特別な人です。ダメだったらどうすればいいって言える人は少ないです。そのトップは宮本でしょう。あの人は理論家っていうか、何で面白いかを説明できるんですよね。いかなる理由で面白いのか、どうすれば面白くなるのかを。

ーそれは素質なんですか環境なんですか。

出石 環境もあるでしょうが、素質プラス努力かなぁ。センスとか感性とか鍛える事が難しいものも必要ですが、それに加えて、宮本はいつも一生懸命考えています。どういう風にして自分のもっているモノ、考えている事をみんなに伝えようかと。

「ダメだったらどうすればいいって言える人は少ない」

「何で面白いかを説明できるんですよね。」

「いかなる理由で面白いのか、どうすれば面白くなるのか」

というところがグッときて、

良いモノのどこがいいのか言えること、と

悪いモノのどこを直せば良くなるか言えること

は同じ能力なんだ!と思った。

そして良いところを言語化するというのは

自分が好きな異性のどこが好きなのか、その理由を説明することが

難しいのと同じくらいの難しい問題なのだと個人的に思っていて

たとえば小林秀雄がこんなことを書いている。


小林秀雄 考えるヒント

p200


そこから素直に発言してみると、批評とは人をほめる特殊な技術だ、と言えそうだ。


p201


 ある対象を批判するとは、それを正しく評価する事であり、正しく評価するとは、その在るがままの性質を、積極的に肯定する事であり、そのためには、対象の他のもとのとは違う性質を明瞭化しなければならず、また、そのためには、分析あるいは限定という手段は必至のものだ。カントの批判は、そういう働きをしている。


対象の良い性質を指し示す方法として

過去の記憶からそれと似たものを引き出し並置して

「○○に似ている」

というとか、比喩をつかって、

「まるで○○みたいな」

といって指し示したり、

または似ているけれど異なる性質を強調して、

「○○とはここが異なる」

という方法が挙げられる。

もっと分析的にここの曲線がいんだよ、とか

この構造が良さを生み出すんだ、とか

このメロディラインがいいとかと言う方法もある

けれど、そういうことができるのは

過去に接した類似した良いモノのサンプルの中から

その良さを生み出すための共通な法則を

すでに抽出できている場合に限られる気がする。

衝撃を受ける作品というのは

いままで出会ったことのないからこそ

その衝撃が生まれるわけで

そこには非線形なジャンプがある気がする。

そういうときに対象のいいところをどうすれば指し示す

ことができるのか?ということがいまの問題なんだど


でもそういう場合でもやっぱり

過去の記憶からなにかを引き出して並置させて

論じるしかないという気がする。

でもそうすると、比較できるものはないのだから

いくら似たものを挙げて並べていったとしても、

対象をとらえることはできないのではないか?

とここまで

審美判断のときの扁桃核の活動と

批評をしようとしているときの脳のモード

はなにか関係があると思って書いてきてのだけれど

この論文は美しい/醜いという審美的判断には言語は必要なくて

でも、批評の場合は、その審美的判断の根拠を

さらに言語化するプロセスが加わるから

じつは問題はもっと複雑で、脳が批評モードのときは

審美的な判断のプロセスと、それと似た体験の記憶を

高速かつ直感的にサーチしているプロセスと、さらに言語によって

そこにかたちを与えようとするプロセスが複雑にまざっているに違いない

と思った。


というわけで、審美的な判断と批評は、同じようで、異なるところがかなりあると

いうことに、ここまで書いてみて気がついた。

意味不明な結論ですいません。。

0 件のコメント: