最近、WiredでFlickrが『Place』というサービスを始めたのを知って
初めてFlickrの楽しさを知る。『Flickr』で世界旅行:写真や情報を一覧できる『Places』機能
http://wiredvision.jp/news/200711/2007112218.html
IcelandのReykjavik
http://www.flickr.com/places/Iceland/Reykjavik/Reykjavik
Flickr Places
上のページにアクセスして、どこでもいいから地図をクリックすると
たいてい一枚はおっ!と思えるすごいクオリティの風景写真があって
見ていてとても楽しい。飽きない。どこか地図をクリックすればかならず一枚はいいと思える写真と
出会えるのってじつはとてもすごいことなんじゃないかと思う。集合知のパワーを実感。
素晴らしい写真を見ているうちに沖縄のせいふぁうたきを思い出した。
せいふぁうたきは沖縄の宗教の聖地のようなところで
二年前に研究室旅行で沖縄にいったとき、かなり衝撃を受けた場所。それで、せいふぁうたきの写真がないかとokinawa+seifa-utakiで
検索してみたところ、あった!
http://www.flickr.com/search/show/?q=okinawa+seifa-utaki写真を見ていると、記憶のなかのせいふぁうたきが甦ってきて
多くの眼を集合させることでひとつの場所を記録するという
プロセスがとても面白いことだと思った。でも
Flickrの写真を見ていると曇りの日の撮影が多いことに気がついて
二年前にいったときは晴れていて、蝶々が飛んでいたり、岩のすき間から光が射し込んでいたりしていて
自然が生み出した聖地!!という感激があってこの場所は、いつもこんな感じなんだろうなーと漠然と思っていたのだけれど
もし曇りの日にいっていたら、いま抱いているような特別な場所という感覚は生まれなかったのではないかとふと思う。
記憶のなかのせいふぁうたきはじつはとても運が良かったからたまたま出会えただけなのかもしれない思ったら、
時間の稀少性について考えた。9月に長野にいったとき丸山健二さんのお宅で見せてもらった花たちの写真は
すごく生命感が溢れていて、小林秀雄の
美しい「花」がある 「花」の美しさという様なものはないという言葉の意味を実感したのだけれど
そういう花の形を撮るためには、
1年のある日のある時間帯というすごく時間窓の小さいタイミングが
存在するのだというはなしにとても感動した。それ以来、美というは永遠というよりは
一回性によって支えられていて
その一瞬を永遠なものにするのがきっと芸術家の役目なのだけれどその一回性の背後には、
サンゴが満月の夜に一斉に産卵をするように、自然界の生物たちが直面している、種を残すために交配相手といかに出会うか
タイミングをものにするか、という切実な問題があってそのなかから、交配相手の気を引くために、自分の生命エネルギーのすべてを
あるタイミングに集中的に投入して、一瞬だけでいいから輝いてやろう、という戦略をとる生物が現れたとき
そういう信号をちゃんとキャッチするために美という感覚が進化してきたのではないかと考えるようになった。
ある場所の風景だって、そこにある花や木々や太陽光の組み合わせが
一番いいときというのは、一年の中できっとわずかなタイミングしかなくて一人一人の眼と時間は有限で、そういうタイミングに出会える可能性
はとても低いのだけれどみんなの眼と時間を持ち寄れば、
そこには無限とも思えるリソースが生まれることを意味していてそれが、Flikrに素晴らしい写真がたくさんあることの理由なのだと思った。
ヒトが1億人いて、みんなデジカメをもっていれば
だれでも一生に1枚は最高にイイ写真を撮るだろう。
その1枚がネットにアップされるだけで1億枚からなる写真集が生まれる。
そんな消費しつくせない素晴らしいもので溢れる時代に立ち会ってしまっているのかもしれないと
想像してみるとなんだかすごいことだなーと思った。というわけで、おれも写真を投稿してみたyo。
おれのfavorite集
http://www.flickr.com/photos/21150146@N07/favorites/show/
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