中国の仏教美術は鎌倉仏教美術よりも宗教性があるとフセさんが話していたとオンゾーから聞いていて、中国国宝展もあと残り2日だったので中国国宝展を見に上野へ行った。
正直にいうと興福寺の仏像からうけた衝撃に比べるとなにかもの足りない感じがした。それはクラシックよりもテクノのほうがいいという次元の話なのか、ファミコンよりもPS2のほうがいいという次元の話なのかはよくわからない。なので、こういうときはふつう何も書けないのが常なのだが、文章修行のために今回はもう少し「言葉」を探してみよう。
創造にはつねに拘束条件がついてくる。そして創造の価値とは、拘束条件という枠組みからどれくらいジャンプしたのか?というところにあると思う。仏教美術の場合、仏像をつくるというのがメインの拘束条件であろう。仏像が仏像であるためには多くの様式・型・約束事がある。興福寺の仏像がすばらしいと思ったのは、写実性の追求によって、そういった型を超えた生命力や精神性が仏像から感じられたからだと思う。そういう視点からみると中国国宝展はなにか物足りない感じがした。年代的に後からいいものが出てくるのは当たり前ではないかといわれればそうなのだが・・。
しかし個人の主観的な宗教的体験という視点からみると違った考え方ができるとも思った。
世の中には仏像を趣味で作っている人がたくさんいる。その人たちはどうして仏像をつくるのか?
「心に刻む」という本の中に仏像彫刻の真髄がかかれているらしい。http://www5c.biglobe.ne.jp/~tom-hal/newpage1.htm
”迷妄を忘れ ただ 芸術と宗教の統一であり ほとけとの対話あるのみ 心頭滅却 幽玄の境地 あるときは不均衡に悩み あるときは抽象化して ほとけの象徴を具現せん 魂の世は永遠なりと わが魂もほとけの心に合して 刻み込む無限の歓喜 仏像とともに 久遠に 生き続ける命の喜び 実在感を持ちて迫り来る 思索と創造は人ののみに 与えられた 仏の恩恵ならん”
どうも仏像をつくるという行為はそれ自体が宗教的な体験を生むらしい。そうすると中国国宝展に展示されていた仏像にはすべてその時代その時代の仏師という製作者がいるわけで、その仏師たちがそれぞれ独自の主観的な宗教的体験の結晶として彫りだしたのがこの仏像たちなのか・・と思いを馳せると、仏像をみる目がまた全然変わるなぁと思った。