火曜日, 9月 04, 2007

エヴァンゲリオン


一ヶ月ぶりに日記を書いてみて


自分が感じたこと考えたことの半分も書けないことに


がくぜんとする。


なんで文末は「思う」・「思った」ばかりなんだ?


風景描写と人物描写がないからだろうか。





というわけでしばらく文章修行モード。





今日、映画のエヴァンゲリオンを見た。


おもしろかった!


テレビ版よりも心理描写が緻密になっていて


なんといっても使徒の動きがいい!


一見の価値あり。





エヴァンゲリオンのひとつの大きな功績は


綾波レイというヒロインを生み出したことだろうと思う。


そのあとのたくさんの模倣作品をみればいかに


大きなインパクトを与えたかということがわかるのだけれど、


宮崎駿はナウシカというすばらしいヒロインを生み出したけれど


きっと綾波レイは生み出せなかったのではないだろうか


とかと考えると


男の作者が、ヒロインを生み出すプロセスというのは


いったいどういうことなのだろうか、と思う。


理想の投影?





そういえばマンガにナウシカ第1巻の巻末によると


ナウシカというのはギリシャの叙事詩オデュッセイアに


登場するパイアキアの王女の名前で、感受性がとても豊かな


魅力的な女性として描かれていて、それと、今昔物語に登場する


虫愛(め)ずる姫君という野原を飛び歩き芋虫が蝶に変身する


姿に感動したりする姫君がいつのまにか同一人物になっていて生まれたらしい。





あとエヴァンゲリオンの世界観を支える


ひとつの要素として


機械がヒトの精神とシンクロする


ヒトの精神に呼応する


ということが挙げられると思う。





現代の科学技術は


バイオフィードバックとかは昔があって


脳波のα波を脳にフィードバックすると


α波を意識的に出せるようになる


という技術はあるけれど


ヒトの精神の一番よくわからないところを


検出し増幅してくれる機械をつくることは


いまだできない





先の戦争では日本の根性・気合いの精神論は、アメリカの物量の前に


破れてしまったわけだけど、


もしもそのような


気合いを増幅する機械


があったら世界はどうなるのか?


その仮想シミュレーションをしているのが


日本のロボットアニメなのかもしれないと思った。





情報科学では


A.I.(Artifical Intelligence)と並んで


I.A.(Intelligence Amplifier)という概念があって


ようは、コマンド入力の時代と比べれば


ウィンドウズのようなGUIは


人々の作業効率を著しく上げていて


人々の知性を増幅したと見なせる。


コンピューターは人の知性を増幅した。





そこで、もっと精神とシンクロするような


機械はつくれないのか?と考えてみる。


なづけて


S.A.(Spirit Amplifier)





人生の壁ってやつを乗り越えることを


助けてくれる機械はつくれないものか。





"memory+"の応用範囲は


案外ここにあるのではないかと思ったりする。


月曜日, 9月 03, 2007

進化の学会


いつのまにか9月。


進化学会でボスの代打ではなすことになり


8月は進化学会の準備で潰れた。





意識における進化の収斂というテーマのもと


水無脳症の赤ちゃんは皮質がなくても意識があるようにみえる


鳥はvisual awarenessをもっているのか


タコは賢いけど意識があるのか


これらに共通の意識が生まれる神経機構はあるのか


について考えてはなしてきた。





複雑系コミュニティのひとたちは


意識を時間の側面から捉えていると思う。


一方、脳科学者は、意識があるときは


ココとココが活動した、みたいな脳計測の図をいつもみているので


気づかないうちに意識を空間的イメージで


考えてしまっているのではないか?と思った。


ということは逆に、


複雑系の研究者は力学系のモデルを研究しているから


時間的な性質に引きずられていると言えるのか?





それと


複雑系の人たちにとって意識とはなにか?という問題は


生命とはなにか?という問題と同義で


ヒトの意識もハエの意識も粘菌も同列のものとして捉えていて


脳の構造にはあまり興味がないように見えた。





養老さんが唯脳論で


空間(=構造=視覚)と時間(=機能=聴覚)は相容れないもので


たいてい、ひとりの脳の思考は、どちらかに偏る傾向にある


ということを論じているのだけれど


それってまさにこの問題ではないかと思った。





今回は意識を思いっ切り構造=空間的なものとして考えて


いたことに気がついて、もっと時間的なものについて


考えよう、と思ったのが今回の学会の一番の気づき。


その他にもいくつかの重要なインスピレーションを得る。


断らずに引き受けてよかった。











帰りに智積院にいった。


等伯の「楓図」がよかった。


f:id:toooru:20070904040946j:image


http://www.chisan.or.jp/sohonzan/keidai/syuzoko.html





等伯の息子が25歳のときにかいた「桜図」もあったのだけれど


その息子は26歳のときに他界してしまって


この世の無常を思った等伯が、


全身全霊を込めて描いたのが「楓図」であるらしい。


現物のふすま絵は色が薄くなっていて、


写真のような色鮮やかさは、感じられなくて


なんでこれが国宝なんだろうと思いながら、でも国宝なんだから


きっとどこかすごいところがあるに違いないと思って


しつこく見ていたらだんだんと「楓図」がすばらしいものに見えてきた!





なにがいいのだろう?と考えていたら、


それは若冲の絵と同じで「生命力」が感じられる


というところに惹かれていて


絵のなかに植物の「生命力」というものをどう描き表すか?


という問題に等伯は立ち向かったんだなーと考えていたら


進化学会で、郡司さんの生命をいかに記述するか?


生命をどんなイメージで捉えるか?という問題意識や


ベルクソンが純粋持続ということばで捉えようとした


脳のなかの生命現象のイメージとか


そういったものたちがあたまのなかでぐるぐる回りはじめて





それらの仕事たちは、


生命をどう記述するか?どうやったら自分には


ありありと感じられている「生命」を、


そのまま失われることなく他人にも感じさせることができるか?


という共通の精神をもった、


異なるチャレンジの成果なのかもしれない、と思った。


月曜日, 7月 30, 2007

カユカユ地獄


三連休の頃、蚊に食われたと思って


足の太股ふきんの赤い発しんを掻いていたら


枯草の野原で野火が一気に燃え広がるように


赤い発しんがまたたくまに身体中に広がって


皮膚科にいったら、多形滲出性紅斑という病気に


かかっていることを知る。





とにかく痒くて、一番ひどいときは


起きているときは我慢できても


夜寝ると無意識に掻いてしまって


2時間置きに目覚めてはかゆみ止めを塗る


という行為を繰り返す。


それで、しょうがないので、ベルトで両手首を縛ってみても


なぜかほどいて掻いている状態で目を覚ます。





痒いところを掻くとなぜかとても気持ちがよくて


掻き始めると、止められなくなって掻いていると


だんだん皮膚が破けて血が出てきて


爪が血みどろになりながらもまだ気持ちよくて掻きつづけると


皮膚の表面が燃えるように痛くなって


ようやく掻くのをやめる、


というカユカユ地獄におちる。





苦しい・・と思っていたら束芋さんの新作の作品の記事が日経新聞に載っていた。






 その束芋が満を持して出典した新作が、三階建てのドールハウスを舞台にした「dollfullhouse(ドールフルハウス)」(六分三一秒)だ。


 大画面に巨大な手が現れ、ドールハウス内部にデーブルやイス、ピアノやベッドを置いていく。巨大な手は途中、我慢できずに手をかきむしる。家具は配置を終えたと思えた瞬間、手でなぎ倒された。


 ドールハウスは「世界を縮小したもの」に見立てられている。家具を「ここ」と思う場所に置いているはずなのに、出来上がるにつれ理想の配置とズレていく感覚。そして、「破壊」。


 創作の源は個人的な出来事にある。アトピー性皮膚炎だ。かゆい感覚を我慢できずにかきむしる行為(破壊)。かいた瞬間の快楽と痛み。薬を塗ると皮膚は再生(構築)する。「痛みを伴うと分かっていて、かいてしまうといったことは世間にままある。かきむしる行為を必ず表現できると思っていた」と言う。






このカユカユ地獄も、文脈を変えるとアートになってしまう


この世界の奥深さを想ふ・・。





ここ一週間で、ぼつぼつあった発しんが平たくつながって


日焼けし過ぎて赤くなった皮膚みたいになって


ここ数日で、皮がむけ始めた。





しかし、痒い皮膚を掻くと快感を感じるのなぜだろう?


その脳内メカニズムはなんなんだろうとおもってぐぐると


皮膚には痒み受容器と痛み受容器があって


痒み受容器がアクティブになっていて脳が痒いと感じているときに


掻く=痛みの受容器を刺激すると


脳内で”痒い”と”痛い”が相互作用して快感になるらしい。


本当なのか!?


痛みと快感の脳内部位は分かっているけど、


痒みの脳内部位は分かっているのだろうか?





クオリア空間では、


痒み+痛み→快感


という”化学反応式”が成り立つところがなんだか面白いと思った。


月曜日, 7月 09, 2007

カクヘンモード


オンゾウがオーストラリアからかえってきた。


ワイルドになってかえってきた。


ゼミでもせっきょくてきに発言するようになっていて


めをみはる。


感動が人生の分岐を生む・・というイメージを得る。





高城剛さんの「「ひきこもり国家」日本」を読む。


そのまえにオマケイに勧められて


「ヤバいぜっ!デジタル日本」も読んだ。





ずっと


資本主義とはなにか?お金とは?


格差社会の本質とは?ネットワーク化社会の本質とは?


ということに興味を持っていたのだけれど


「ひきこもり国家」日本を読んだら


ひとつの俯瞰したイメージを得ることができた。





世界はカクヘン(確率変動)モードにはいっていて


パチンコのそれと同じように、成功する確率が高い状態になっているという。


それに気付いた国・個人は当たりを引き


それに気付けぬ国・個人は下流に落ちていく。


そんなマカ不思議な世界に日本はすでに呑み込まれてしまっているという。





そういうはなしは時代の空気からなんとなく感じていて


だからこそ、これからのみのふりかたを真剣に考えるのだけれど





怖ろしいのは、ロジカルに考えてみるとどうも確実に


自分が生きている間に(おそらく20年以内に)


石油が枯渇するというイベントと


国が1000兆円の借金に徳政令を出すというイベント


に立ち会うことになりそうで


おそらくわれわれの世代(70年代生まれ以降)がジョーカーを引く。


「混乱」の時代に必ず遭遇することが約束されている


という事実はどんなホラーよりも怖ろしいことだと思った。





そしてそれにサバイバルするための最高のリスクヘッジがじつは


カクヘンモードに挑戦するということになって


みのふりかたをどうする?の問題に戻ってくる。。


金曜日, 6月 29, 2007

CHEETOS&本居宣長&落書き


ノザワからもらったアメリカおみやげのCHEETOSをつまみつつ


コーラを飲みながら、ネットサーフィン。


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このあじの組み合わせを生みだしたアメリカ人って天才かも!!と


茶の間でおせんべいをたべつつほうじ茶を飲むシアワセ感に


まさるともおとらないシアワセな気分に浸りつつ


と同時にハイカロリーゆえからなのか、タイハイ的な気分にもなる。


んー、これぞアメリカン。。





ここ数日、小林秀雄の「本居宣長」をひたすら読んでいて


やっと下の100ページまで到達。


この本はすごい。


「芸術」論であり、「言語」論であり、「人生の意味」論であり、


「学問するとは?」の本でもある。


いままでピースごとにあーでもないこーでもないと考えていたことが


まるでパズルのように組み合わさって、いちまいの絵になった気がして


「人生の無限大の起伏」を感じたかも(笑)。





あとどうでもいいけど


最近研究所で蒐集した落書きたち。


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セキネの落書き。


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セキネの落書き。


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セキネの落書き。


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おれの落書き。


日曜日, 6月 03, 2007

「動植綵絵」


5月31日(木)


AM 06:20、京都駅につく。バスのなかで一睡もできず京都御所のベンチで睡眠。


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AM 10:15、展示場の相国寺につく。10:00開場のはずなのに


すでに行列ができていて待ち時間50分という表示があった。


平日にもかかわらず恐ろしく混んでいて驚く。





AM 11:20、第一展示室に入る。ふすまに書かれたふどうの絵がよかった。


第二展示室までの廊下でまた行列。





AM 11:40、やっと目的の動植綵絵のある部屋にたどりつく。


中央に釈迦三尊の絵が3枚あって


その周囲と左右の壁面いっぱいに30枚からなる動植綵絵が並んでいた。





(パノラマ動画→http://jakuchu.jp/jotenkaku/











量の変化が質の変化を生み出すという現象が確実にあって、





東大寺の大仏みたいに、10センチの大仏像を10メートルにしてみて


初めて生まれる何かがあり





三十三間堂みたいに、千手観音像を同じ空間に千体並べることで


初めて生まれる何かがあり





同様に


動植綵絵は若冲が10年という月日をかけて、一枚一枚に、


鶏、孔雀、オウム、鳳凰、雁、虫たち、貝たち、海の生き物たち、牡丹、アジサイ、菊、梅花、松・・


などなどの動植物を息をのむクオリティで描き込んだ作品群で


それらがひとつの空間に30枚並ぶことによって


初めて生まれている何かがあると思った。





なにも考えずにひたすら見るということをしてみる。


1周して、2周して、3周目から頭のなかでいろいろ言葉がでてきた。





去年上野で若冲展がやっていて、


若冲の描くニワトリはすごい存在感があるんだけど


なぜ若冲のニワトリは、本物のニワトリよりもニワトリらしいのか?


ということを疑問に思ふ。


http://d.hatena.ne.jp/toooru/20060822





その答えが今回わかった気がした!





それは、実は自分は本物のニワトリがどういう姿・形をしているかを


本当は知らなくて、若冲のニワトリを見て、若冲の眼を借りて、


はじめてニワトリがどういう姿・形をしているかを知る


ということなのではないかと思う。





一般的な話になるけれど、普段われわれは、ニワトリを見ているようで


実は記憶のなかのニワトリを見ている。なので絵のトレーニングを受けていない人は


ニワトリを描いてと言われると、記憶のなかのニワトリを描くのだけれど


それはぜんぜん現実のニワトリからは程遠い形をしている。





だから絵画を専攻する人はデッサンでひたすら対象を「見る」訓練をするわけで


芸大生のハッスーは卒展で鳩のマンガを描いていたけれど


その鳩を構成しているシンプルで味のある線は


彼の膨大な実物の鳩の観察と写生からしか生まれえないもので


http://i-mind.blogspot.com/2005/01/blog-post_28.html





同じく芸大生のウエダ君のアニメの味のある線もやはり


膨大なリアルなモノの観察とデッサンの積み重ねからしか生まれてこない。








要は、記憶でモノを見ないためには、ひたすら見る、観察するということが


重要で、若冲も庭にニワトリを飼っていて、何年もひたすら観察していたという。





具象と抽象の間の問題というのがあって、この前NHKの新日曜美術館で


藤原正彦さんが福田平八郎について語っていて


福田平八郎もひたすら自然を写生しつつ、その上で


対象を抽象化・シンプル化して本質的なものだけを残すのが上手くて


福田平八郎は、なにげない日常のなかで絶えず新しい視点を発見をしていて、


だれでも見ている風景を、だれもみたことのない視点でとらえて、


見ている人に、なるほどそうだった!と気付かせてくれる


という解説にグッときた。





たとえば、これ。「美の巨人 福田平八郎 『漣』」


http://www.tv-tokyo.co.jp/kyojin/picture/f_060107.htm





要は、膨大で具体的な体験の集積によってはじめて


うまれてくる抽象というものがあって


これはいま科学の分野で、脳とか細胞とか生態系とか経済とかウェブという


超複雑なシステムを、いかに観察して、そこから、


いかに本質だけを抜き出して対象を理解するか?


という問題ともリンクしていると思う。





若冲は「鶏図押絵貼屏風」のように


墨の線だけで存在感のあるニワトリを描くことができたのだけれど


動植綵絵のニワトリのすごいところは、


「若冲的な抽象化された線」と「具体的な細部」が共存しているところに


あるのではないか、と思った。





どうしょうもない比喩だけど、もしリラックマに細部を描き込んでしまうと、


リラックマではなくなってしまう感じがするけれど


若冲のニワトリは、そこに見事な毛並みが羽に描き込まれていたり、


しかも点のドットでできた真っ赤なトサカとか、


黒いニワトリの黒い毛並みが微妙な違う黒で描かれていたりとか、


茶色・白・黒によって織りなされた毛並みとかのように、


極彩色で構成される細部の色彩感覚も素晴らしくて


そういう細部によって、ニワトリの存在感が生まれている感じがする。





作品が放つ「存在」感を支えている細部の集積というものがあって、


その「集積」は、単純な加算の集積ではなくて、


おそらく、有機的に絡み合った集積というかたちをとっていて、


しかも、細部としてなにを作品に持ち込めるかは


芸術家がなにを集積していて、なにを抽象化できるかということに拘束されている、


というところが面白いと思う。





と、ニワトリだけみても、なんだかいろいろと思うことがあるけれど、


植物も素晴らしくて、細部はどちらかというと


花のなかのひとつひとつの花びらとかのほうがすごく細かく描き込まれていて


「紫陽花双鶏図」の青と白のアジサイ


「向日葵雄鶏図」のひまわりとアサガオ


「牡丹小禽図」の30個以上の赤、白、ピンクの牡丹が咲き誇る様子、


「梅花皓月図」の梅花が咲いた枝が幾重にも重なることでつくりだされる奥行き間


それと、月の存在によって生み出される幻想的な雰囲気


「老松鸚鵡図」のオウムがのっている蛇のウロコみたいな妖しい松の幹


などなど、植物だけで十分絵として素晴らしいところに


動物もいる!という感じで、その上、その構図もすごいという


なんというか、これもすごい!あれもすごい!全部すごい!という印象をうけた。





個人的には若冲の描く植物がとても新鮮だったせいか


「牡丹小禽図」と「梅花皓月図」がよかった。


よくあることだけど、実物と図録の写真は色が全然違っていて


きっと図録の写真だけみたら、そうは思わなかったと思うけど


実物を見ていたら、


「牡丹小禽図」は構図の中心らしきものがないなかで牡丹が


圧倒的に咲き誇る感じがよくて


「梅花皓月図」は梅花の不思議な奥行き感と月が生み出す


幻想的な感じがよいと思った。





きっと「動植綵絵」を次に見たらまた全然違う発見があるはずで、


3時間粘って見ていろいろ考えてみたところで、結局


とても限定的で部分的な要素にしか注意は向けられなくて


しかも「動植綵絵」はいくらでも分析したくなる要素を提供しながら


一方で、1枚1枚が分割できない全体として強烈な存在を生み出していて


さらに、30枚+釈迦三尊像の3枚が


ひとつの全体してなんだか拝みたくなる雰囲気があって


これはすごい作品だ、と思ふ。


水曜日, 5月 30, 2007

夜行バス


ただいまpm23:00。


京都行きの夜行バスの中。


なんだかとても楽しくなってきて日記を記す。





最近見た映画で、タイムスリップが確立した未来から、


歴史的に「いま」しか見ることができないことがわかっている


(それより過去ではどこにあるかわからなくて、それより未来では消失してしまっている)


一枚の絵をどうしても見たくて未来人が現在にやってくる、


という設定があって、格好いいと思う。





人生を変える一枚の絵は存在するのか?





そんな一枚の絵に憧れて、


いま京都で100年ぶりに公開されいて今後いつ公開されるか分からない


若沖の動植さい絵を見に行こうと思い立つ。


ついでに竜安寺と京都に住んでいる姪にあってくる予定。


土曜日, 5月 05, 2007

姪の写真


子供の日。兄上が姪の写真を送ってきた。


どちらかというと姪姉はウチの家系似、姪妹はオクさん似。





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日々の実感だけど、脳ってどんどん変化している、と思う。


養老さんが「人間科学」のなかで、どんどん脳が変化してしまうヒトは


その不安とか、よるべなさをやわらげるために、


外に固定点をつくるのではないか?と書いてあって、なるほど!と思う。


建物も聖書も、脳の外に存在する安定したなにかであって、


それが、どんどん変化するヒトの脳にとって、自分とか、民族が


何者であるのかを確認するための固定点の役割を果たしてきたのではないか


と書いてあった。





身近に引き寄せて考えてみると、


研究で成果をだすとか、作品が賞をとるとか、


社会において一定の評価を得る、何ものかになる、


はたまた、組織に属するとか、きっと家庭をもつことも、


それらはすべて固定点の役割を果たすのだと思う。


外に存在していて、自分が何者であるかを保証してくれるもの、


自分が何者であるかを固定してくれるもの。





また、きっと固定点は外に直接存在していなくてもよくて


これはいける!と感じるアイデアとかコンセプトとか問いだって、


固定点になるのだと思う。





変化するとか、成長するという言葉は、


脳が固定点に向かって積極的に適応した状態を指すのかもしれないし、


脳が自ら積極的に新しい固定点を生成した状態を指すのかもしれない。





固定点があるから、脳は安心してどんどん変化できる。


固定点がないと、脳は不安で不安でたまらないけれど、やっぱりどんどん変化していく。





自分が変わらないと思っている人は、実は自分が変わらないように、


変わり続けているだけで、そして


自分が変わるということを肯定している人も、どの方向に変わっていくのかを


自分でコントロールすることはとても難しい。。





思考というのは、モグラのようにトンネルを掘っていくイメージに似ていて


それと、養老さんが、どん底のときは「底を掘れ!」と言っていたのを思い出して


それで最近、徹底的に掘ってみようと思いたつ。


固定点を見つけるために、すべてを動員して徹底的に掘ってみよう。


月曜日, 4月 30, 2007

英語耳


TOEICの得点が限りなく満点に近くて、10コ以上の外国語を操り、


英語の講師もしていて


今年から社会人から研究室の学生になったトシマさんが


研究室の学生の英語力パワーアップのために無料の英語レクチャーを


開いてくれていて、それを聴きに御茶の水の明大のリバティービルへ行った。





外人と対面したとき、軽い会話(small talk)をするための


いくつかのパターンを教わる。





徹底的に、単語の発音の仕方を修正される。





たとえば、


youの前には「い」入れて発音する気持ち ex: you いーユー


nの単語の前には「ん」を入れる気持ち  ex: notは、んーノット


sの単語の前には「す」を入れる気持ち  ex: sendは、すーセンド


beenは、ビーンではなくベン


behindは、米国ではビィ・ハインドではなくて、バ・ハインド





などなど、1単語1単語についてネイティブの発音方法を丁寧に教えてもらう。


そして、それを何度も何度も発音してみるという練習を繰り返した。





そうしたら、行きの車のなかで神経科学者のラマチャンドランの


BBCの英語の講演トークをiPodに入れて聴いていたのだけれど





Lecture 5: Neuroscience - the New Philosophy


http://www.bbc.co.uk/radio4/reith2003/lecture5.shtml





帰りも同じトークを聴いたら、聞こえかたが全然違っていることに気がついた。


行きの車のなかでは、連続する英語の音に対して、


そこから一生懸命、単語を切り出しているイメージだったんだけど


帰りの車のなかでは、連続する英語の音に対して、


それを自分で発音するためにとるであろう口の動きを無意識にイメージしていた!!


つまり、聞き取れる音が増えていた!!





こっこれは!!と思って家に帰ってから


昔、話題になっていたので買ったけれど一度も読まなかった


英語耳」という本を手に取る。


ずっと忘れていたんだけれど、


表紙に「発音できない音は聞き取れない。」と書いてあって


そうか、このことだったのか!と思った。


これから毎日付属のCDを聴きながら母音と子音の発音練習をしようと決心。





どうでもいいけれど、なにかを掴んだときに、開眼するっていうけれど


なんで、開耳ってないんだろうとかと思ってググってみたら9670件のヒットがあった。


すでに造語として流通しているらしい。。みんな考えることは同じか・・。



土曜日, 4月 28, 2007

コンサート


ハープ奏者の友人のコンサートをききに、めぐろパーシモンホールへ。


ハープとヴァイオリンとピアノが協奏するコンサートで


初物づくしでとても面白った。





席の場所からピアノの鍵盤がよく見えて、


ピアノ奏者の指の動きってこんなに超絶技巧なんだーと思ったり


ヴァイオリンってこんなに感情の機微を表現できる楽器だったんだーと思ったり


ハープとヴァイオリンの協奏曲をきいていたら


その絶妙なハーモニーにとても感動したんだけれど


ハープの音色がとても不思議な感じがすることに気がついて、


ヴァイオリンが「剛」でぐいぐいおしていくイメージだとすると


ハープは「柔」で全体を包み込みこんでいるようなイメージが湧いた!





ハープの音色というと経験的に連想してしまうのが、


任天堂の「ゼルダの伝説」というゲームの「妖精の泉」という


体力を回復してくれる場所で流れるこの曲で


http://home9.highway.ne.jp/atelier/izumi..mid


俺の頭の中では、ハープの音色と妖精のような癒しのようなイメージが


結びついてしまっていたのだけれど





ハープとピアノによる「ヒナステラ」の「ハープ協奏曲」の第3楽章を聴いたら


現代音楽風でとても不思議な曲なんだけど、


とてもパッションあふれていて、こんな表現もできるんだーという感覚が新鮮だった!





感情を音に変換できる能力ってすごいことだなーと思う。


いつも思うことなんだけれど、楽器の演奏者ってカッコいい!と思った。


月曜日, 4月 23, 2007

ポーカー犬とジョークを思いつく思考のプロセス


某大先生と松本人志さんの対談のmp3を某ルートからゲットして


聞いたら、超おもしろくて、脳科学的に特に面白かったのが、


コントのとき、松本さんは台本をかいたことはなくて


すべて即興で、しかも、しゃべるまえに頭のなかに


おちのイメージがはっきり浮かんでいるらしい。





昔、松本さんの「哲学」という本に以下のような


驚くべき記述があったことを思い出した。






松本人志 「哲学」より抜粋


 僕は、「いつも何かを考えながら喋っているように見える」と人からいわれることがある。


 たしかに、そうかもしれない。


 自分の感覚でいうと、頭の中に何個か考えがあって、そして、その場でそのうちのどれを喋ろうかと選んでいる感じなのだ。






これはどういうことなんだ!?と思う。





最近、山田一成さんと佐藤雅彦さんの共著「やまだ眼(がん)」という本を


思わず買ってしまったら、佐藤さんがボケを以下のように分析していて


鋭い!と思った。






山田一成 佐藤雅彦 「やまだ眼」より抜粋


漫才で、つっこみに対してぼけた話をして客を笑わせる役がぼけである。とても意図的で頭脳的な所為である。ダウンタウンの松本や爆笑問題の太田光が典型である。彼らは一見とぼけているが、今その場でみんなが何を思っているか誰よりも知っている。だから確信的に、場違いな言動ができる。






ロジカルに考えるならば、


意外性があるとか予測を裏切るというのは


まず予測の存在を前提としていて


脳はそこからちょっと外れているときに


意外性があると認識するようにできている





だから、狙って、ぼける=相手の予測を裏切るためには


「A」というはなしのとき、相手はつぎに「B」が来ると予想している


ということに気がついている必要があって


その上で、「B」のかわりに「C」「D」「E」・・のどれを言おう?


という候補を思いつかなければならない。





でも、この「AのつぎはBが来る」という規則は、普通、


常識とか固定観念と呼ばれていて、無意識下に沈んでいて、


思考とはふつう、そのような無意識下の規則の上を自動的に流れていくものなので


狙ってぼけるためには、まずそのような無意識になってしまっている


「A→B」という規則に意識的に気がつかなければならなくて


その状態が、佐藤さんの


「今その場でみんなが何を思っているか誰よりも知っている」


ということなのだと思う。





それで、話はやや飛ぶんだけれど


どうすればこれに気がつけるようになるか?ということを考えてみた!





それで思い出したのが、昔読んでいた


「頭が良くなるジョーク」というメルマガで


http://www.melma.com/backnumber_94862_629357/


これはジョークのオチの部分が空白に何が入るかを考える


ことで頭を良くしようという趣旨のメルマガで


これを「まとも」にやると、


まず常識的な答えはどうなるかを片っ端から考えた上で、


そこからはずれるとはどういうことか?ということを


自然に考えるようになる気がしてやってみた。





たとえばこの問題。






<問題>


 ある酒場でポーカーをやっている犬がいた。それを見た客が驚いてこう言った。


「こいつはすごい! ポーカーができるなんて何て賢い犬なんだ」


 すると、一緒にポーカーをしていた男が答えた。


「いや、そんなにすごくもないよ。だって……」


 さて、男はこのあと何と続けたでしょう?






むむむ。思いついたことを片っ端から書いてみると・・





1「あたりまえだろ?」


2「犬なんだから」


3「本当は見ているだけなんだから」


4「こいつはポーカー犬なのさ」


5「トランプをながめているだけなんだから」


6「こいつはトランプが好きなんだから」


7「犬でも模様はわかるのさ」


8「こいつは俺の犬なんだから」





・・・なんのひねりもなーい!!


なんてつまらないことしか思いつかないんだ!


と嘆きつつ、ふと操作されてるのかも・・と思って





9 「こいつは、おれの命令通りに動いているのさ」


10「なかに人間がはいっているのさ」


11「こいつは犬に似た人間なのだ」


12「こいつのなかみはアイボなのさ」





これまた全然おもしろくなーい!!と思ふ。





しょうがないので、もっと飛んでみようと思って





13「こいつは宇宙からやってきた宇宙犬なのだ!」


14「こいつは脳をいじられてIQが100もあるのさ」


15「こいつはいつもポーカーフェイスなんだから」





・・・同じところをグルグル回っている。。





わからない!!





こういうときは、問題を整理するために


可能性を列挙してみようと思い立つ。





1「犬」という言葉を疑って


・犬がスーパー犬であるという可能性


・犬に擬人化の設定がされている可能性


2「ポーカー」という言葉を疑って


・ 犬は普通で、かつ擬人化とかはなく現実的な設定で、ポーカーをするという行為を別の意味で解釈できる可能性


・ ポーカーをやっているようでいて、見せかけとか、実はやってない可能性


・ 犬は実はポーカーをしてなくて、誤解している可能性。


3 ダジャレでオチる可能性





うーん・・とまたしばらく考えてみたけれど


オチらしいオチを思いつかなかったので


答えを見ることに。。





答えは、





「いいカードが来ると、うれしくて尻尾を振ってしまうんだ」





がーーーん!!


そんなオチなんかい!!犬がポーカーをふつうにやってんじゃん!!


ムキーッ!!と思う。





冷静になって分析してみると


「犬」「ポーカー」には注意が向いていたけれど


「賢い」には向いてなかったことに気がつく。





「ポーカー」ができる「犬」というのは前提にしてよくて


その上で、「賢い」という意味をどうとるか?と考えなくてはいけなくて





「ポーカー」における「賢い」とはなにか?→ポーカーフェイスができること


犬はヒトと違ってウソがつけない→ポーカーフェイスができない→感情を隠せない


→嬉しいと感情が出てしまう→いいカードが来ると嬉しくて尻尾を振ってしまう!!


という連鎖が頭の中で起こると、このオチにたどりつけることがわかった。





うーむ。。難しいなり。。





でも、こうして、あーでもない、こーでもないと徹底的に考えてみると


オチを掘り当てるプロセスそれ自体になんだかリアリティを感じるようになってきて


頭が良くなった気がした!(当社比だけども。。)


おすすめ!











最後に、保坂さんが「言葉の外へ」という本のなかで



 疑問を出すことは答えることよりも難しい。たとえば、リンゴが落ちるのを見てニュートンは万有引力を発見したとされているけれど、発見つまり答えより先に、「何故落ちるのか?」という疑問があった。ニュートンは、「何故落ちるのか?」という疑問を出すことのできた人だったのだ。


 小説は万有引力のようなたった一つの答えを出すものではない。小説の中でリンゴが落ちたら、「リンゴにも意志はあるのだろうか?」でも「リンゴもまた宿命から逃れられない」でも「落ちるタイミングが絶妙だった」でも「どうしてそういうことが気になるのだろう」と考えるのでも何でもいい。できる限り多くの疑問や仮説を出して、作者と読者がこの世界を限定して見ないようにする場所に連れていくもの、それが小説だ。それは幼年期から持ちつづけた疑間にとても近い。そしていまの日本では、想像力が磨耗した大人からは、やけに遠くなってしまった……。






と書いていて、この


「世界を限定して見ないような場所」を目指して「できる限り多くの疑問や仮説を出す」


という思考のプロセスって、ジョークのオチをみつけるために


ひたすら考えることに似てないか!?と思った。


火曜日, 4月 10, 2007

ポンテギ記念日


研究室の帰り、久しぶりにセキネ、ヘライ、オンゾウとチェゴる。


チェゴヤは五反田で一番人気の韓国料理屋で(たぶん)、


おれはいつも石焼きカルビ丼ばかりを頼んでしまうのだけれど、


研究室一のゲテモノーズ(ゲテモノを好んで食す人種)のセキネが


ポンテギをオーダーして、生まれて初めてポンテギなるものを食べる。











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蚕のさなぎを油で炒めるとこうなるらしい。


腹部のシマシマ模様をみた瞬間にこれはだめだ・・と思ったけれど


となりのヘライが美味しそうに食べはじめたのを見て、


モノは見ないようにして、勇気を出して食べる。





こっ、これは!





表面はカリカリしていて、しかし中身は柔らかで複雑な味がした。


例えるならば、表面はココナッツで、その中にココナッツ・ミルクが


入っているような。。





これにふさわしい説明はなんなんだろうと考えているうちに


だんだん、豊潤(ほうじゅん)な味、という表現ってこのためにあるんじゃないか!


と思われてきて、


最後には、これこそ、大地の恵みだ!と思った(笑)。


某大先生ならば「ポンテギは大地の宝石ですね」、、と言うかもしれないと


勝手に想像をめぐらしつつ、3つほど食す。











帰り、別々に精算をして、セキネがレジの人に


「ポンテギと生ビール」と言ったら


レジの人がセキネの顔をはっと見て、


生まれて初めてみるような笑顔でほほえんだらしい。





ひょっとしたら、ポンテギと生ビールという組み合わせは、店員さんに


チェゴヤ・マスターであることを示す秘密の暗号だったのかもしれなくて、


もしかしたら、セキネはその組み合わせを幸運にも探し当ててしまったのかもしれない


とかと勝手に想像をめぐらす。











最後に、セキネのココロのうたを一首。





この味がいいねとあなたが言ったから


4月10日はポンテギ記念日


木曜日, 4月 05, 2007

目黒川の桜


五反田駅から中目黒駅まで、目黒川沿いを歩いた。


目黒川の桜並木たち。





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桜を見ながら、川沿いの歩道を歩きながら、物思いにふける。


頭は絶えずフロー状態っぽいけども、かなり煮詰まり気味。


どうにかして、道をつくらねば・・と思う。











そういえばこんなホームページをみつけた。


ポール・グレアム 知っておきたかったこと


http://www.practical-scheme.net/trans/hs-j.html



ぼくの友達の一人は、学校で提出するレポートに苦しんでいると母親が「それを楽しむ方法を見付ければいいのよ」っていうんだとぼやいていた。でもそれが、やるべきことなんだ。世界を面白くする問いを見つけ出すんだ。素晴らしい仕事をした人は、ぼくらと違った世界を見ていたわけじゃない。ただこの世界の中の、ほんのちょっとした、でも不思議なことがらに気づいただけなんだ。












世界を面白くする「問い」を見つけたひ。


土曜日, 3月 31, 2007

受胎告知とお花見


お花見をしに上野公園へ。





時間があったのでまずダ・ヴィンチの「受胎告知」を見る。


混んでいたけれど、二列目の壁ぎわに生じたよどみにまぎれて


30分ぐらい居座ってずっと眺める。





初めて見たとき、まず素朴に「おおおー」と思う。


なにが「おおおー」なんだと考え始めると


まず天使カブリエルの服のシワシワの質感がすごいことに気づく。


真ん中に置いてある置物の装飾の質感もすごいことに気づく。





カップルで来ている人々は必ず二人で感想を言い合う傾向があって


「○○がすごいねー」と言って去っていく。


「天使の肌がきれー」とか、「服がすごいねー」という感想が多かった気がする。





耳を澄ましていると


「マリア様の表情って悲しんでいるのかなー、喜んでいるのかなー、


どちらかというと喜んでいるよね」


と言っているのを聞いてはじめて表情をまじまじと見る。


悲しいとか嬉しいとかではなくて、運命を受けいれた顔のように見えた。


(と同じことが後で美術館の外のテレビの解説を見たら言われていた)





さらに耳を澄ましていると、


「光がすごいねー」という感想が聞こえてきて


そこで初めて空間全体に存在している光の明暗の質感に気づく。





なにか新しい視点に気づくたびに、絵全体を見直して、


そのたびにいろいろな気づきがあって


見方がガラガラっと変わる感覚が面白いと思った。





天使の服のシワシワを見ながら、現実よりもリアルに見えるこの感じは


なんなのだろう?と考えていたら、ふと、


保坂さんの「書きあぐねている人のための小説入門」の以下の記述を思い出した。






保坂和志 「書きあぐねている人のための小説入門」より抜粋


 哲学は、社会的価値観や日常的思考様式を包括している。小説(広く「芸術」と言うべきだろうが、いまはあえて「小説」とします)も、社会や日常に対して哲学と同じ位置にあり、科学も同じ位置にある。つまり、哲学、科学、小説の3つによって包含されているのが社会・日常であって、その逆はない。


 だから小説は日常的思考様式そのままで書かれるものではないし、読まれるべきものでもない。日常が小説のいい悪いを決めるのではなく、小説が光源となって日常を照らし、ふだん使われている美意識や論理のあり方をつくり出していく。






芸術の役割とは、作品が光源となって日常を照らして


普段まったく気づいていなかったことに気づかせてくれることで


本当はありとあらゆるものはダ・ヴィンチの視覚を借りれば


天使の服のシワシワと同じぐらい活き活きとしたリアルな質感に満ちていて、


そのことをダ・ヴィンチの絵は教えてくれる・・・・





と思ったら外に出たときの桜の見え方が変わった気がした!


光の加減とか、その質感に注意が向くようになった。


(ウエダ君によるとそういう見方を学ぶことが、デッサンの目的らしい。。)





その後、ダ・ヴィンチの生涯の活動の展示を見る。


力学とは?遠近感とは?光とは?人体とは?調和とは?均衡とは?感情とは?・・


とダ・ヴィンチがもった様々な問題意識を分解して展示していて


おもしろかった!





養老さんが「考える」とは、


対象を「バラバラにしてつなげる」ことだと言っていて


ダ・ヴィンチはありとあらゆるものをバラバラにしたのだと思った。


光とはなにか?輪郭とはなにか?筋肉とはなにか?・・


「自然」と「人間」を徹底的にバラバラにして、


それぞれを科学者の思考によって突き詰めて


絵のなかで、それらを統合した。





そして養老さんによるとなぜかいったんバラバラにするというプロセスを経由して


統合したほうが、はじめから作品をつくるよりも、力強くなるらしい。






スマナサーラ 養老孟司 「希望のしくみ」より抜粋


 一つひとつの過程を「素の過程」と言います。素の過程は、数はたいしてないんです。だからきちんと分けて、それから合成してやることです。すると最初から混ぜるより、はるかに力が強くなります。なぜだが知らないけど、有効になるんです。たぶんそれは、訓練のいちばん基本だと思う。斜めにやるほうばっかり訓練しても、たかが知れているんですよ。まず、きちんと分けることが大切なんです。なにしろもともと斜めにできていないんだから。






ダ・ヴィンチの受胎告知をいつまでも見ていたいと思う気持ちの背後には


要素を徹底的に突き詰めたあとで統合することによってしか生まれない


圧倒的な多様性とか豊かさがあるのだと思った。





保坂さんの「書きあぐねている人のための小説入門」によると


保坂さんも、さまざまなことをバラバラにして、それらを突き詰めて


小説のなかでそれらを統合しているらしくて


これも「バラバラにしてつなげる」ってことなのではないか!?と思ふ。






保坂和志 「書きあぐねている人のための小説入門」より抜粋


 小説のインデックスに「テーマ」という欄があったとして、そこに何かもっともらしいキーワードを書き込むことはしなくても、日頃考えていること(たとえば「世界とは何か?」「生命とは何か?」ということ)は山ほどあるわけで、それらが全部、小説のなかに入ってくるというか、書きながらそれらの中からいろいろなものを選んでいけるので、選択肢を一挙に広げることができる。












その後、花見へ。


ウエダ君が朝の十時から場所取りをしていてくれたらしい。


とにかくすごい人の数で、桜並木の通りは、いつも渋滞していた。


でも桜が満開できれいなので、5,6回その通りを歩く。


時折、強い風が吹いて、大量の花びらが空から雪みたいに舞いながら降ってきて


その幻想的な眺めをずっと見ていたい、と思った。


日曜日, 3月 25, 2007

エンタメをサイエンスする


まとめて日記。





17日(土)&18日(日)


研究室旅行で湯河原へ。


おもしろい旅だった。


この面白さはなんなのかと考えてみると


なかなか言葉にするのは難しいのだけれど


三石海岸にいき江ノ島にもいき


場所がとてもよかったということもあるけれど、


それ以上にみんなとする会話がおもしろかった。


人々によって生み出される「場」が良いと思った。





ボスにウェブと脳科学をつなげる道筋を考えてみたらと


言われて、まじめに考え始める。











19(月)


機械学会のシンポジウムが東工大であって、


日立の小泉さんとボスの講演を聴きにいった。





ウェブと脳科学をつなげるには


ボスのいう「抽象的な報酬構造」というキーワードが


鍵な気がする。





そもそも


エンターテイメント業界において


クリエイターと呼ばれている人々は


ずっと「抽象的な報酬構造」を生み出す要素に


ついて考えてきたわけで


個々のクリエイターの脳内で、


恣意的かつ経験的に見いだされる要素たちと、


その要素たちが織りなす複雑なパターンが


「抽象的な報酬構造」であり、


エンターテイメントの面白さを生み出す。





また


エンターテイメントの生成プロセスには、


過去と未来の間には圧倒的な非対称性が内在していて


すでにできあがったものについては


いくらでも分析して、これが面白さの原因だと、


もっともらしい理由がつけられるけれど、


次になにがヒットするかはわからない。未来はいつも霧がかかっている。


要はつくってみないと面白いかどうかはわからなくて、


科学的に普遍的な法則があって、それによって


かならず未来を予測することができる、


というような性質のものではない。





でも


クリエイターの業界に8割バッターがいるということは


そのような人たちはより普遍的な報酬構造の要素を


見つけているかもしれないことを意味していて


つまり近似的であってもより多くの人の心の琴線を揺さぶる


ことができる強力な面白さの要素というものが存在している可能性があって


結局、それを見つけることができた人がクリエイターと呼ばれ


それが、個々のクリエイターの作品のアイデンティティとか個性というものを


構成する。





もし


それらを脳科学の文脈のなかで取りだせたとしたら


それは科学的にエンターテイメントを扱えたことになるのか?





ジェフリー・ミラーの「恋人選びの心」にこんな記述があった。



 もしも私のような進化心理学者が、正確にどんな刺激パターンが人間の脳を最適に刺激するのかを予測できるならば、すぐにでもハリウッドに移住して、娯楽産業コンサルタントとして高い給料をもらうことができるに違いない。しかし、私たち進化心理学者も、普通の映画プロデューサー以上にうまく予測することはできない。なぜなら、祖先の時代に普通にあった出来事に対して、普通の人がどのように反応するかについて一般的な知識はあったとしても、ある新しい刺激に対して人間の脳が正確にどのように反応するかを予測することはできないからだ。現代の人間の文化は、このすべての可能な刺激空間を探索し、私たちの脳を快楽的にくすぐらせる方法を発見しようとしている、巨大な共同作業といってよいだろう。






エンタメをサイエンスするというのは、一見なんだか問いが


間違っているように見えるのだけれど


発想をひっくり返せば、逆にブレイクスルーすべき壁はまさにここにある!


と言えるのではないか??という気もする!











23日(金)


ゼミ。3月で卒業するオンゾウとオオクボの最終講義を聴く。


あまり実感が湧かないのだけれども二人は卒業していく。


寂しいことではあるけれど、


道を定めた二人の晴れ晴れとした姿をみると


悦ばしいことでもあるのだなぁと思った。











24日(土)


西口敏宏さんの「遠距離交際と近所づきあいー成功する組織ネットワーク戦略」


を読み始める。これはおもしろい本だ!!


金曜日, 3月 16, 2007

日常をバラバラにする


ガルシア=マルケスの「百年の孤独」を読み終わる。


一族のなかで自分の妄想に夢中になる人々が必ずいて、


それにあきれている周りの人がいて、


親からみると俺はこれに近いのではないかと思うと


なんだか憂鬱になったが、読み終わるとなんだか深い感慨につつまれた。


記憶の強度が絶えず要求される小説で、


登場人物がつぎつぎに生まれては死んでうつろっていく。


高3のとき世界史をとっていて


なんでドラゴンボールの歴史はすべてありありと思い出せるのに


世界史は記憶できないのだろうと疑問におもっていたのだけれど、


「百年の孤独」はいつも親や祖父の名前が子どもに受け継がれていって


こいつはだれだ!?と忘れかけた登場人物を思いだそうとするたびに


その人の物語が思い出されて、その過去の歴史を絶えず


頭のなかで確かめていく状態が高3のときドラゴンボールの


歴史をすべて思い出せた感触に似ていた。





そんな気分で朝を迎えるとボスから電話がきて


「おまえ、就職活動してる?」


「してないです」


「はてなとかどう?」


と聞かれて、あー、それもありかなと思う。





そう思った理由は、きっと火・水と早稲田の生物物理のシンポジウムに出て


生物物理の人々が全然生命の複雑さと向き合ってないという感覚をもって


結局、いまもっとも生命の複雑さとまともに向き合ってるのは


アートとウェブなのではないかと思ったからかもしれない。





ボスに自由というのは理想のように見えるけれど実は生産的でなく、


逆説的に見えるけれど自ら拘束を見つけることが実は重要なことなのだと


いわれて、(ようは就活しろということなのだけれど)


「百年の孤独」を読んで憂鬱になって、確かにそうかもと思ふ。





最終審査が終わってからの一ヶ月間、


なんの拘束もなくひたすら読みたい本を読んだ。





保坂和志 小島信夫 小説修行


(途)カフカ 審判


日高敏隆 帰ってきたファーブル


小川洋子 物語の役割


竹田青嗣 ニーチェ入門


保坂和志 カンバゼーションピース


(途)河合隼雄 対話集 こころの声を聴く


(途)保坂和志 この人の閾


保坂和志 <私>という演算


保坂和志 小説の自由


ガルシア=マルケス 百年の孤独





一年前に保坂さんの「小説の自由」を拾い読みしたのだけれど


カフカの「城」を読んでからもう一度じっくりよんだら


かつてない高揚感を得た!!


保坂さんの「小説の自由」のここがグッときた。






 そんなことではなくて、小説を書いていればそのあいだだけ開かれることがあるから書くのだ。「開かれる」「見える」「感じられる」……人によって言葉はそれぞれだろうが、小説を書いているときにだけ開かれるものがある。


 私が「ペリー・スミスがペリー・スミスとして生きる」と感じるとき、私は自分が小説を書いているときに開かれるものをイメージしている。こういう風に小説について小説でない文章を書いているときもそれが全然開かれないわけではないけれど、小説を書いているときの方がずっと開かれる。


 私は小説という表現形式を使って、その何かが開かれる感じを経験することに馴れすぎてしまっているのだけれど、小説から離れて、空を見ているときとか猫といるときとか夜布団に入って暗い空間を見ているときとか、いろいろなときに、それの弱いものは頭をよぎっていく。小説から離れているときのそれがまったくなかったら小説を書くことはできないだろう。


・・・・


 小説、音楽、絵画、彫刻、写真、芝居、映画‥‥‥これらすべての表現形態は、手段として、文字とか音とか色とか線とか具体的なものしか使えないのだけれど、それを作る側にも受けとめる側にも具体性をこえたものが開かれ、それが開かれなければ何も生まれない。


 その抽象性だけを強調してしまうと、安易な宗教性に陥ってしまうだろうし、作る側は作品にただ〝念をこめる″わけでは全然なくて、具体的な作業をつづけてひたすら具体的な物を作るわけだけれど、その具体物によって具体性をこえたものを開こうとしている。そこはやっばりどうしても言葉では伝わらないのだ。






この「開かれる」感覚が、竹田青嗣さんの「ニーチェ入門」の


「生命感情」と響き合って、あー、そうなのかと思う。






 ニーチェが言わんとするのはこういうことだ。一切の価値の源泉は「カヘの意志」だが、人間においてそれはとくに、「性欲、陶酔、残酷」という三つの言葉に象徴される。生はつねにこの言葉に象徴されるような「生命感情」をもとめる。それらは人間の生の起源であり、源泉であり、根拠なのであると。おそらくここに、「人間は何のために生きるのか」という問いに対するニーチェの最も深い答えが隠されている。


 たとえば、芸術や恋愛や性欲などにおける「陶酔や恍惚」は、それらがひとつの本質として繋がっていることを象徴的に教えるものだ。つまりニーチェは、「肉体」、「性の力」、「陶酔」、「恋愛」、「恍惚」、「支配欲」といった諸感情の中心を貫いているのは、「力への意志」という強靭な本質にほかならないと言っているのである。


 人間はたしかに、これらの諸感情の中で最も強い「生命感情」、生の充実感と生の肯定感を抱くような存在だといえるだろう。そしてニーチェは、生の「価値」の根本的な根拠はまさしくここにあって他のどんな場所にも存在しないと言うのだ。なぜなら、もともと「価値」とは「力ヘの意志」が世界に投げ与えたものであって、世界の隠された場所から人間に投げ与えられたものではないからである。






なんだか飛躍するけれど


結局、重ね合わせが重要なのだと思う。


保坂さんに最近やたらはまっているのは


脳科学・認知科学と芸術が高い次元で


融合していると感じるからだ。


それらを重ね合わせるための直感的かつ緻密な「思考のプロセス」そのものに


すごくリアリティと魅力を感じる。





保坂和志 「<私>という演算」より抜粋



いまや文学は人間の認識に働きかけたり人間の認識を描き出したり解析したりするものの一つでしかない。ぼくはそういう立場で小説を書きはじめたのだった。






養老さんとスマナサーラさんの対談本、「希望のしくみ」のなかで


養老さんが「思考」するとは対象を「バラバラ」にして「つなげる」ことだと


書いてあっていたく感動した。これも以下抜粋。






養老 甲野さんと昔から付き合っているのは、甲野さんの言っているからだの動かし方の話と、僕がものを考えるときとがまったく同じだからです。ものを考えるとき、皆さんはバラバラなものをつなぐと思っていないんです。だから僕が話をすると、昔はよく「先生、つながってません」と言われた(笑)。やっぱり、下がるのと、回るのを別にやってるからね。だけど、別々なのが本当なんですよ。


 一つひとつの過程を「素の過程」と言います。素の過程は、数はたいしてないんです。だからきちんと分けて、それから合成してやることです。すると最初から混ぜるより、はるかに力が強くなります。なぜだが知らないけど、有効になるんです。たぶんそれは、訓練のいちばん基本だと思う。斜めにやるほうばっかり訓練しても、たかが知れているんですよ。まず、きちんと分けることが大切なんです。なにしろもともと斜めにできていないんだから。


スマナサーラ いまおっしゃったようなことは、たくさんありますね。まず緻密に分解するんです。バラバラにする。すべて、からだの感覚、思考まで、分解することが大切です。


養老 そのすべてが合理的に役に立つとは限らないんだけど、たぶん、われわれは自分自身をもっとバラバラにしなきゃいけないんです。だけどいまの社会は、ある意味でそれをバラバラにしないように、しないようにしている。


ーわれわれは、オートマティックになっているんですね。


養老 そうそう。それを僕は「丸める」って言ったんですよ。


スマナサーラ 「丸める」は、オートマティックということなんですね。それは誰でもやろうとしていることで、そこからほぐしていけばいいんです。だから、このヴィパッサナー瞑想で第一に何を悟るかというと、分解能力なんです。これがいちばん最初の段階で、まだ上に7つぐらいあります。


ー丸めるから「ああすれば、こうなる」になるんであって、バラバラに分解すると、その場その場で精いっぱいになる気がしますね。


 それが、生き生きと生きている、ということなんですか?


養老 バラバラにしたものを組んでいくことがね。あるとき、それができるようになっちゃうんだ。






思うに


いま一番おもしろい問題は「人間」や「日常」を「バラバラ」にして「つなげる」ことなのではないか?


そして、そのための脳科学のあり方が問われている(と勝手に思う)。


「日常」は平凡であるが、その平凡を支えている脳内過程は謎に満ちている。





保坂和志 「世界を肯定する哲学」より抜粋。



文学などでは、苦痛や危機や喜びといった特別な場面を材料に使って、「生きている」ことの自覚を促すけれど、それは「生きている」ことのいわば輪郭であって、その内側ではほとんど絶対的に漫然と生きている。






さいごに


保坂さんと小島信夫さんの往復書簡、「小説修行」にぐぐっとくる部分があった。






 私はそういう風にして「人間」とか「私」というものを、統合されたものではなく解体して考えることにしました。私のこの人間観をヒューマニズムにものすごく反する人間観と解釈する人がいっぱいいるだろうと思いますが、私は「人間」を肯定するためにこういう人間像を考えたのです。


 「私」とはこの世界に一定期間間借りしている現象なのです。私は何もしなくてもただ生きているだけで、この世界に流れた時間を集積していることになるのです。生物の歴史によって淘汰されたり洗練されたりした機能が人間の中で活動し、人間の歴史によって築かれた文化や技術や思考や感受性の集積が活動しているのが、まさに「私」なのです。






脳科学となにを掛け合わせるか?


それが問題だ。


火曜日, 3月 06, 2007

不在の知覚


五反田駅から研究所に歩いていく途中、


ふっと左手を見ると、サラ地があった。


ここに何かが建っていた感覚はあって


あるべきところに、あるべきものがない感じは


はっきりするのだけれど、あるべきものがなんだったのかは


まったく思い出せない経験をして、おもしろい!と思う。





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別の角度から。











それで、ふと「ウェブ進化論」に


グーグル・アースで家を調べて、数ヶ月前まではプールに色つきのシートが


かかっていたはずなんだけど、写真にはそれが写ってなかったことから


グーグル・アースの写真は数ヶ月ごとに最新の衛生写真に更新している


らしいことがわかったという話が書いてあったのを思い出して、


グーグル・アースで調べてみると、「あるべきもの」が映ってた!!





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一軒家だった(画面中央、ビルの隣り)。





これはおもしろいと思い、


オマケイ、セキネ、ヘライ、タナベにサラ地の写真を見せたけれど


だれも、そこに何があったのか思い出せなくて


そもそも、なくなっていたことに気づいていなくて


これは天然のchange blindnessかも!と思う。





change blindnessはいま認知科学業界でホットな話題で


間違い探しみたいに一部分だけ変化している二枚の写真


を交互に見せて、でもそのとき写真と写真の間に1秒間ぐらい黒い画面を挟むと


たとえ写真の中心部分が大きく変化していてもなかなか気がつかない、


という現象で





従来の仮説だと脳内には、外部世界を完全にコピーした表象が


保持されているのではないかと考えられていたけれど、


change blindnessの結果から、脳は外部世界の完全なコピーなど


保持しておらず、意識が注意を向けたときに部分部分の情報を


動的にup-dateするような、計算量とかメモリーを節約する戦略を


とっているのではないかと考えられはじめている、らしい。





change blindnessは、変化に気づくことがそもそも難しいわけだが、


今日のサラ地は、変化には気づいたが、その内容は思い出せないという点で


change blindnessとはちょっと違う気もする。





どちらかというと、旅行先で団体行動をしていて、


だれかがいない気がするのだけれど、だれがいないのか分からない・・


という感覚に似ている気がする。





高層ビルの写真を数秒間みせて何階建てかを当てるタスクをさせると


サヴァン症候群の人がもつような写真記憶がないと正解できない。


という意味で、普段我々は日常のなかで、風景の細かいディテールなど記憶していない。





毎日同じ道を歩いていると、脳がだんだん風景に注意を向けなくなるということは


脳が「この風景は知っている」と了解するポイントが存在することを意味していて、


その了解ポイントを支えているのは、どうも全体的なパターンの記憶のようで


しかし、脳は意識的にはその「全体的なパターン」の内容を


把握してはいないのではないか?


ただ、なにかが「ない」ときに、その変化を「全体的なパターン」をつかって


無意識的・直感的に検出することができる。





もしかしたら、ヒトの脳にとって、進化的には、


風景はディテールを把握するよりも、変化したものに注意を向けるほうが重要で、


だから全体的なパターンを把握するほうが都合がよかったのかもしれない。





とすると、他の動物はどうなんだろう?


ヒトの視覚記憶システムを例えばチンパンジーに当てはめることは可能なのか?


ジャングルを歩くチンパンジーは、ジャングルの風景を


サヴァン症候群の人のような写真記憶的に把握している可能性はないのか?


ヒトのように全体的なパターンで把握しているのか?


そもそもチンパンジーにchange blindnessは起こるのか?


etc...





と収拾がつかなくなったところでおしまい。。


木曜日, 2月 22, 2007

卒展


芸大の卒展を見に行く。


久しぶりの上野。上野公園は平日でも人が多い。





場所は東京都立美術館で、卒展に来るといつも


その展示されている作品の量に圧倒される。





二年前初めてその量を見たときは、並列コンピュータによる表象空間の


全探索というメタファーが湧いてきて、日記



・・ヒトが感じることのできる表象空間の可能性を脳を並列に並べて一斉にサーチしている感じがして壮観だった。



と書いた。





ボスならば、サンゴの産卵とか、hopeful monsterと言うかもしれない。


今年もなにか面白いメタファーが見つからないかなぁと


考えていたけれど思いつかず。





そして、地下の彫刻科の展示でイウラさんの作品をみた。


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他にも阿修羅像をモチーフにした絵が2枚ぐらいあったけれど


イウラさんの阿修羅像に一番、存在感(質感?)を感じた。





一つ一つの手が、思わず自分の手を合わせてみたくなるような


(そうすることを求めているような)なぜか惹きつられて


しまうオーラを発していて、そのような手が6本もあって、


かつ、それらがとっている舞いのポーズがまたよくて


恍惚モードの顔と合わさって、拝みたくなる雰囲気を発していた。





養老さんがなにかで「手は第2の顔である」といっていたのを思い出した。


ボディ・ランゲージにおけるジェスチャーの手は


表情以上に感情を語ることを知る。





彫刻の作品たちを見ていると、普段使っていない脳の回路が


活性化している感じがして空間が活気づくような高揚感が感じられてきて


普段、どれくらい人工的なオブジェクトしか目にしてないか


ということが自覚できて新鮮だった。





イウラさんからいろいろ彫刻の面白い話を聞く。





腐った人を表現した像があって


頭からにょきにょきなにかが生えていて


足からもなにかイモ虫のようなものがにょきっと顔を出している。





最終審査が終わった直後に、「ジョジョの奇妙な冒険」の


2,3,5部を一気読みして、5部の主人公のスタンドは


物に生命を与えることができて、物から突然草木が


にょきにょき生えたりするシーンがすごい!と思っていたのだけれど、


その像を見ていたら、それが突然思い出された。





それをいったら、イウラさん曰く、「ジョジョの奇妙な冒険」のファンは


結構いて、その奇想の数々は芸大生にも影響を与えているらしい。





最近、草木が繁茂するイメージが好きなんだけど、


彫刻で草木を表現しようとすると、草の葉っぱは薄いので大変らしい。





剣道をしている木像があった。


最近、武術研究家の甲野さんの本を読んでいて、昔の武術の達人は、


今では考えられない動きができたらしいのだけれど


ふとそのような達人を木像で表現することは可能なのかと思った。


昔の剣の達人同士が向かい合っているとき、その二人の間の空間には、


実は無数のイメージ上の剣の軌道が行き交っているらしいのだけれど


そのような緊張の空間が表現できたらすごいかも、とかと思った。





木彫(?)の巨大な幼虫がいた。ふと保坂さんの下の言葉を思い出して






保坂和志 小説の誕生より抜粋


「書いてみるしかない」「それがどういうものか、書いたものを読んでみないわからない」というのが小説であって、高さ10センチの大仏の置き物と高さ10メートルの大仏とでは見たときに受けるものが全然違う(この文章では「全然違う」という想像はついても、実際に見たときの気持ちがどういうものかということまではわからない)という、その違いを作り出しているものが、小説でも絵でも音楽でも、すべての表現の根底となる。






幼虫を大きくしたらなにか質的な変化が起こるかもしれない


と思って作ったのだけれど、なにも起きなかった作品に


俺には見えたのだけれど、イウラさんは、これはディテールが


甘いと言っていて、たしかにそう言われて見てると表面が粗くて


もっと幼虫のシワシワを彫り込めば、もっと気持ち悪いものに


なって印象が変わったのかも知れないと思った。





粗くいくか、写実的にディテールまでつくりこむか


というのは表現の在り方として独立にあって


そういえば、高村光太郎の「鯰」は粗いけれどいい味が出ていると思う。





イウラさんに伊藤若冲が描く生き物の生命感は


彫刻で表現することってできるの?と聞いたら


若冲の絵は、たとえば鶏の絵を見ると


実物を徹底的に観察することによってしか得られない


細部の表現と、デザイン・抽象化が


絶妙にバランスしているとのこと。なるほど・・。





あと、人体の彫刻はやり尽くした感があるらしい。


それで、話は飛ぶけれど、最近松岡正剛さんの


形の冒険」と「ゾウの耳はなぜ大きい?」のレビューを読んでから


「形に対する思考」というのがとても面白いということを知って


養老さんの「形を読む」も読みかけていて


養老さんによると、形には


機械的意味、機能的意味、発生的意味、進化的意味


の四つの意味があるという。


NHKのプロフェッショナルでフェラーリをデザインした奥山さんが


機能を実現するデザインはたくさん候補があって


その中で美しいものを選んでくると言っていた。


デザインと美は両立するもので、デザインは機能で美しくなる、


デザインは機能によってどんどん美しくなる!!


と言っていたのがとても印象的だったのだけれど、


生き物を彫刻で表現するときに、


進化的に機能込みで進化してきた形に対して


脳がいい!と反応するならば、


彫刻で機能込みで形というものを考えていくと


どうなるのであろうか、とかと思った。





東京都立美術館の展示を全部見て、


そのあと芸大でユウナちゃんの油絵と


ウエダ君の未完のアニメとハッスーの作品をみた。





ウエダ君と中央棟の廊下でポテトチップを食べながら


セカンド・ライフの中でデザインの活動をしたら


おもしろいのではないかという話をした。





その後、くたくたの状態で研究所にいったら


セキネがいた。セキネとウダウダと話して帰宅した。


木曜日, 2月 15, 2007

空のなかにあるもの


昨日のバレンタインの出来事。


姪が家に来ていた。


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お義姉さんと姪からおチョコ様をもらった。


3歳の姪は、いまなんでも疑問に思うことを質問してくるモードで


お義姉さんはなんて答えたらいいのか考えるのが楽しいらしい。


それでお返しに保坂さんの「季節の記憶」をプレゼントした。





そういえばオンゾウからもおチョコ様をもらった。


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中身が詰まっているように見えて食べてみると中は空洞で、


空洞じゃん!と言ったら


オマケイが、そこにオンゾウの愛がつまってるんだよ


と言ったのを聞いて、ふわっと詩的な世界が広がった。





そして今日は博士最終審査の日。


審査員はホトケだった。


条件付きでパスできた!


とりあえず安堵。


天気がとてもよい一日で


気分もとてもpeacefulな一日で


オマケイ、オンゾウ、ノザワ、イシカワと


「てんてん」でてんぷらを食べた。


水曜日, 2月 14, 2007

twister


明日は博士審査の発表で、


現実逃避で昔mathematicaで作った


Penroseのtwisterを貼ってみる。


竹内薫さんの


ペンローズのねじれた四次元」に


数式が載っている。





脳における<私>とか「自己」の問題について思ったことの覚え書き。





1.


竜巻とか台風の中心にはかならず無風の


領域があって、それを数学的には「不動点」という。


台風を構成する空気は絶えず入れ替わっているのに、台風の中心は存在しつづける。





<私>=「要素がたえず変化している脳というシステムの中でなぜか変わらないもの」


とするならば


<私>とは「脳というネットワークに生じる不動点のようなもの」なのか?





2.


<私>という「不動点」に摂動を与えたときの脳活動の変化を計測することは可能か?



養老孟司 玄侑宗久 「脳と魂」より抜粋


養老:変わると思いますよ。システムっていうのは、逆に言えば、肝心なところ突かれるとガラッと変わる性質を持ってますから。システムの構成要素はしょっちゅう入れ替わるわけですよね。だけど一応それが変わらないように見えるっていうのがシステムの安定性なんですよ。それがガラッと変わっても、システムは本来安定性を持ってますから、別の安定平衡点をとることも出来るんです。






3.


そういえばオートポイエーシス理論が定義している「自己」は脳に適用できるのか?



ウンベルト・マトゥラーナ&フランシスコ・ヴァレラ 『オートポイエーシス』


 第2に、オートポイエーシスが自己言及しているということは、実は、あえていうなら同義反復によってシステムを作動させているということなのである。ということは、産出プロセスのネットワークが構成素を産出し、構成要素が産出するのは産出プロセスのネットワークなのである。つまり自己が自己を生んでいる。まさに自己創出システムなのである。こういう見方は、自己があって組織化が進むシステム理論とは異なっている。オートポイエーシスの自己は作用主体ではなく、システムの作動そのものを自己としているシステムなのだ。






4.


そもそも脳というコネクションで見ればフラットなネットワークに


なぜ「主体」と「客体」という非対称性が生じるのか?


(→「ボスの脳内現象」をもう一度読むか・・)








Penroseの「Road to the reality」を買った。


1000ページある。


輪講しようそうしよう♪