土曜日, 3月 31, 2007

受胎告知とお花見


お花見をしに上野公園へ。





時間があったのでまずダ・ヴィンチの「受胎告知」を見る。


混んでいたけれど、二列目の壁ぎわに生じたよどみにまぎれて


30分ぐらい居座ってずっと眺める。





初めて見たとき、まず素朴に「おおおー」と思う。


なにが「おおおー」なんだと考え始めると


まず天使カブリエルの服のシワシワの質感がすごいことに気づく。


真ん中に置いてある置物の装飾の質感もすごいことに気づく。





カップルで来ている人々は必ず二人で感想を言い合う傾向があって


「○○がすごいねー」と言って去っていく。


「天使の肌がきれー」とか、「服がすごいねー」という感想が多かった気がする。





耳を澄ましていると


「マリア様の表情って悲しんでいるのかなー、喜んでいるのかなー、


どちらかというと喜んでいるよね」


と言っているのを聞いてはじめて表情をまじまじと見る。


悲しいとか嬉しいとかではなくて、運命を受けいれた顔のように見えた。


(と同じことが後で美術館の外のテレビの解説を見たら言われていた)





さらに耳を澄ましていると、


「光がすごいねー」という感想が聞こえてきて


そこで初めて空間全体に存在している光の明暗の質感に気づく。





なにか新しい視点に気づくたびに、絵全体を見直して、


そのたびにいろいろな気づきがあって


見方がガラガラっと変わる感覚が面白いと思った。





天使の服のシワシワを見ながら、現実よりもリアルに見えるこの感じは


なんなのだろう?と考えていたら、ふと、


保坂さんの「書きあぐねている人のための小説入門」の以下の記述を思い出した。






保坂和志 「書きあぐねている人のための小説入門」より抜粋


 哲学は、社会的価値観や日常的思考様式を包括している。小説(広く「芸術」と言うべきだろうが、いまはあえて「小説」とします)も、社会や日常に対して哲学と同じ位置にあり、科学も同じ位置にある。つまり、哲学、科学、小説の3つによって包含されているのが社会・日常であって、その逆はない。


 だから小説は日常的思考様式そのままで書かれるものではないし、読まれるべきものでもない。日常が小説のいい悪いを決めるのではなく、小説が光源となって日常を照らし、ふだん使われている美意識や論理のあり方をつくり出していく。






芸術の役割とは、作品が光源となって日常を照らして


普段まったく気づいていなかったことに気づかせてくれることで


本当はありとあらゆるものはダ・ヴィンチの視覚を借りれば


天使の服のシワシワと同じぐらい活き活きとしたリアルな質感に満ちていて、


そのことをダ・ヴィンチの絵は教えてくれる・・・・





と思ったら外に出たときの桜の見え方が変わった気がした!


光の加減とか、その質感に注意が向くようになった。


(ウエダ君によるとそういう見方を学ぶことが、デッサンの目的らしい。。)





その後、ダ・ヴィンチの生涯の活動の展示を見る。


力学とは?遠近感とは?光とは?人体とは?調和とは?均衡とは?感情とは?・・


とダ・ヴィンチがもった様々な問題意識を分解して展示していて


おもしろかった!





養老さんが「考える」とは、


対象を「バラバラにしてつなげる」ことだと言っていて


ダ・ヴィンチはありとあらゆるものをバラバラにしたのだと思った。


光とはなにか?輪郭とはなにか?筋肉とはなにか?・・


「自然」と「人間」を徹底的にバラバラにして、


それぞれを科学者の思考によって突き詰めて


絵のなかで、それらを統合した。





そして養老さんによるとなぜかいったんバラバラにするというプロセスを経由して


統合したほうが、はじめから作品をつくるよりも、力強くなるらしい。






スマナサーラ 養老孟司 「希望のしくみ」より抜粋


 一つひとつの過程を「素の過程」と言います。素の過程は、数はたいしてないんです。だからきちんと分けて、それから合成してやることです。すると最初から混ぜるより、はるかに力が強くなります。なぜだが知らないけど、有効になるんです。たぶんそれは、訓練のいちばん基本だと思う。斜めにやるほうばっかり訓練しても、たかが知れているんですよ。まず、きちんと分けることが大切なんです。なにしろもともと斜めにできていないんだから。






ダ・ヴィンチの受胎告知をいつまでも見ていたいと思う気持ちの背後には


要素を徹底的に突き詰めたあとで統合することによってしか生まれない


圧倒的な多様性とか豊かさがあるのだと思った。





保坂さんの「書きあぐねている人のための小説入門」によると


保坂さんも、さまざまなことをバラバラにして、それらを突き詰めて


小説のなかでそれらを統合しているらしくて


これも「バラバラにしてつなげる」ってことなのではないか!?と思ふ。






保坂和志 「書きあぐねている人のための小説入門」より抜粋


 小説のインデックスに「テーマ」という欄があったとして、そこに何かもっともらしいキーワードを書き込むことはしなくても、日頃考えていること(たとえば「世界とは何か?」「生命とは何か?」ということ)は山ほどあるわけで、それらが全部、小説のなかに入ってくるというか、書きながらそれらの中からいろいろなものを選んでいけるので、選択肢を一挙に広げることができる。












その後、花見へ。


ウエダ君が朝の十時から場所取りをしていてくれたらしい。


とにかくすごい人の数で、桜並木の通りは、いつも渋滞していた。


でも桜が満開できれいなので、5,6回その通りを歩く。


時折、強い風が吹いて、大量の花びらが空から雪みたいに舞いながら降ってきて


その幻想的な眺めをずっと見ていたい、と思った。


日曜日, 3月 25, 2007

エンタメをサイエンスする


まとめて日記。





17日(土)&18日(日)


研究室旅行で湯河原へ。


おもしろい旅だった。


この面白さはなんなのかと考えてみると


なかなか言葉にするのは難しいのだけれど


三石海岸にいき江ノ島にもいき


場所がとてもよかったということもあるけれど、


それ以上にみんなとする会話がおもしろかった。


人々によって生み出される「場」が良いと思った。





ボスにウェブと脳科学をつなげる道筋を考えてみたらと


言われて、まじめに考え始める。











19(月)


機械学会のシンポジウムが東工大であって、


日立の小泉さんとボスの講演を聴きにいった。





ウェブと脳科学をつなげるには


ボスのいう「抽象的な報酬構造」というキーワードが


鍵な気がする。





そもそも


エンターテイメント業界において


クリエイターと呼ばれている人々は


ずっと「抽象的な報酬構造」を生み出す要素に


ついて考えてきたわけで


個々のクリエイターの脳内で、


恣意的かつ経験的に見いだされる要素たちと、


その要素たちが織りなす複雑なパターンが


「抽象的な報酬構造」であり、


エンターテイメントの面白さを生み出す。





また


エンターテイメントの生成プロセスには、


過去と未来の間には圧倒的な非対称性が内在していて


すでにできあがったものについては


いくらでも分析して、これが面白さの原因だと、


もっともらしい理由がつけられるけれど、


次になにがヒットするかはわからない。未来はいつも霧がかかっている。


要はつくってみないと面白いかどうかはわからなくて、


科学的に普遍的な法則があって、それによって


かならず未来を予測することができる、


というような性質のものではない。





でも


クリエイターの業界に8割バッターがいるということは


そのような人たちはより普遍的な報酬構造の要素を


見つけているかもしれないことを意味していて


つまり近似的であってもより多くの人の心の琴線を揺さぶる


ことができる強力な面白さの要素というものが存在している可能性があって


結局、それを見つけることができた人がクリエイターと呼ばれ


それが、個々のクリエイターの作品のアイデンティティとか個性というものを


構成する。





もし


それらを脳科学の文脈のなかで取りだせたとしたら


それは科学的にエンターテイメントを扱えたことになるのか?





ジェフリー・ミラーの「恋人選びの心」にこんな記述があった。



 もしも私のような進化心理学者が、正確にどんな刺激パターンが人間の脳を最適に刺激するのかを予測できるならば、すぐにでもハリウッドに移住して、娯楽産業コンサルタントとして高い給料をもらうことができるに違いない。しかし、私たち進化心理学者も、普通の映画プロデューサー以上にうまく予測することはできない。なぜなら、祖先の時代に普通にあった出来事に対して、普通の人がどのように反応するかについて一般的な知識はあったとしても、ある新しい刺激に対して人間の脳が正確にどのように反応するかを予測することはできないからだ。現代の人間の文化は、このすべての可能な刺激空間を探索し、私たちの脳を快楽的にくすぐらせる方法を発見しようとしている、巨大な共同作業といってよいだろう。






エンタメをサイエンスするというのは、一見なんだか問いが


間違っているように見えるのだけれど


発想をひっくり返せば、逆にブレイクスルーすべき壁はまさにここにある!


と言えるのではないか??という気もする!











23日(金)


ゼミ。3月で卒業するオンゾウとオオクボの最終講義を聴く。


あまり実感が湧かないのだけれども二人は卒業していく。


寂しいことではあるけれど、


道を定めた二人の晴れ晴れとした姿をみると


悦ばしいことでもあるのだなぁと思った。











24日(土)


西口敏宏さんの「遠距離交際と近所づきあいー成功する組織ネットワーク戦略」


を読み始める。これはおもしろい本だ!!


金曜日, 3月 16, 2007

日常をバラバラにする


ガルシア=マルケスの「百年の孤独」を読み終わる。


一族のなかで自分の妄想に夢中になる人々が必ずいて、


それにあきれている周りの人がいて、


親からみると俺はこれに近いのではないかと思うと


なんだか憂鬱になったが、読み終わるとなんだか深い感慨につつまれた。


記憶の強度が絶えず要求される小説で、


登場人物がつぎつぎに生まれては死んでうつろっていく。


高3のとき世界史をとっていて


なんでドラゴンボールの歴史はすべてありありと思い出せるのに


世界史は記憶できないのだろうと疑問におもっていたのだけれど、


「百年の孤独」はいつも親や祖父の名前が子どもに受け継がれていって


こいつはだれだ!?と忘れかけた登場人物を思いだそうとするたびに


その人の物語が思い出されて、その過去の歴史を絶えず


頭のなかで確かめていく状態が高3のときドラゴンボールの


歴史をすべて思い出せた感触に似ていた。





そんな気分で朝を迎えるとボスから電話がきて


「おまえ、就職活動してる?」


「してないです」


「はてなとかどう?」


と聞かれて、あー、それもありかなと思う。





そう思った理由は、きっと火・水と早稲田の生物物理のシンポジウムに出て


生物物理の人々が全然生命の複雑さと向き合ってないという感覚をもって


結局、いまもっとも生命の複雑さとまともに向き合ってるのは


アートとウェブなのではないかと思ったからかもしれない。





ボスに自由というのは理想のように見えるけれど実は生産的でなく、


逆説的に見えるけれど自ら拘束を見つけることが実は重要なことなのだと


いわれて、(ようは就活しろということなのだけれど)


「百年の孤独」を読んで憂鬱になって、確かにそうかもと思ふ。





最終審査が終わってからの一ヶ月間、


なんの拘束もなくひたすら読みたい本を読んだ。





保坂和志 小島信夫 小説修行


(途)カフカ 審判


日高敏隆 帰ってきたファーブル


小川洋子 物語の役割


竹田青嗣 ニーチェ入門


保坂和志 カンバゼーションピース


(途)河合隼雄 対話集 こころの声を聴く


(途)保坂和志 この人の閾


保坂和志 <私>という演算


保坂和志 小説の自由


ガルシア=マルケス 百年の孤独





一年前に保坂さんの「小説の自由」を拾い読みしたのだけれど


カフカの「城」を読んでからもう一度じっくりよんだら


かつてない高揚感を得た!!


保坂さんの「小説の自由」のここがグッときた。






 そんなことではなくて、小説を書いていればそのあいだだけ開かれることがあるから書くのだ。「開かれる」「見える」「感じられる」……人によって言葉はそれぞれだろうが、小説を書いているときにだけ開かれるものがある。


 私が「ペリー・スミスがペリー・スミスとして生きる」と感じるとき、私は自分が小説を書いているときに開かれるものをイメージしている。こういう風に小説について小説でない文章を書いているときもそれが全然開かれないわけではないけれど、小説を書いているときの方がずっと開かれる。


 私は小説という表現形式を使って、その何かが開かれる感じを経験することに馴れすぎてしまっているのだけれど、小説から離れて、空を見ているときとか猫といるときとか夜布団に入って暗い空間を見ているときとか、いろいろなときに、それの弱いものは頭をよぎっていく。小説から離れているときのそれがまったくなかったら小説を書くことはできないだろう。


・・・・


 小説、音楽、絵画、彫刻、写真、芝居、映画‥‥‥これらすべての表現形態は、手段として、文字とか音とか色とか線とか具体的なものしか使えないのだけれど、それを作る側にも受けとめる側にも具体性をこえたものが開かれ、それが開かれなければ何も生まれない。


 その抽象性だけを強調してしまうと、安易な宗教性に陥ってしまうだろうし、作る側は作品にただ〝念をこめる″わけでは全然なくて、具体的な作業をつづけてひたすら具体的な物を作るわけだけれど、その具体物によって具体性をこえたものを開こうとしている。そこはやっばりどうしても言葉では伝わらないのだ。






この「開かれる」感覚が、竹田青嗣さんの「ニーチェ入門」の


「生命感情」と響き合って、あー、そうなのかと思う。






 ニーチェが言わんとするのはこういうことだ。一切の価値の源泉は「カヘの意志」だが、人間においてそれはとくに、「性欲、陶酔、残酷」という三つの言葉に象徴される。生はつねにこの言葉に象徴されるような「生命感情」をもとめる。それらは人間の生の起源であり、源泉であり、根拠なのであると。おそらくここに、「人間は何のために生きるのか」という問いに対するニーチェの最も深い答えが隠されている。


 たとえば、芸術や恋愛や性欲などにおける「陶酔や恍惚」は、それらがひとつの本質として繋がっていることを象徴的に教えるものだ。つまりニーチェは、「肉体」、「性の力」、「陶酔」、「恋愛」、「恍惚」、「支配欲」といった諸感情の中心を貫いているのは、「力への意志」という強靭な本質にほかならないと言っているのである。


 人間はたしかに、これらの諸感情の中で最も強い「生命感情」、生の充実感と生の肯定感を抱くような存在だといえるだろう。そしてニーチェは、生の「価値」の根本的な根拠はまさしくここにあって他のどんな場所にも存在しないと言うのだ。なぜなら、もともと「価値」とは「力ヘの意志」が世界に投げ与えたものであって、世界の隠された場所から人間に投げ与えられたものではないからである。






なんだか飛躍するけれど


結局、重ね合わせが重要なのだと思う。


保坂さんに最近やたらはまっているのは


脳科学・認知科学と芸術が高い次元で


融合していると感じるからだ。


それらを重ね合わせるための直感的かつ緻密な「思考のプロセス」そのものに


すごくリアリティと魅力を感じる。





保坂和志 「<私>という演算」より抜粋



いまや文学は人間の認識に働きかけたり人間の認識を描き出したり解析したりするものの一つでしかない。ぼくはそういう立場で小説を書きはじめたのだった。






養老さんとスマナサーラさんの対談本、「希望のしくみ」のなかで


養老さんが「思考」するとは対象を「バラバラ」にして「つなげる」ことだと


書いてあっていたく感動した。これも以下抜粋。






養老 甲野さんと昔から付き合っているのは、甲野さんの言っているからだの動かし方の話と、僕がものを考えるときとがまったく同じだからです。ものを考えるとき、皆さんはバラバラなものをつなぐと思っていないんです。だから僕が話をすると、昔はよく「先生、つながってません」と言われた(笑)。やっぱり、下がるのと、回るのを別にやってるからね。だけど、別々なのが本当なんですよ。


 一つひとつの過程を「素の過程」と言います。素の過程は、数はたいしてないんです。だからきちんと分けて、それから合成してやることです。すると最初から混ぜるより、はるかに力が強くなります。なぜだが知らないけど、有効になるんです。たぶんそれは、訓練のいちばん基本だと思う。斜めにやるほうばっかり訓練しても、たかが知れているんですよ。まず、きちんと分けることが大切なんです。なにしろもともと斜めにできていないんだから。


スマナサーラ いまおっしゃったようなことは、たくさんありますね。まず緻密に分解するんです。バラバラにする。すべて、からだの感覚、思考まで、分解することが大切です。


養老 そのすべてが合理的に役に立つとは限らないんだけど、たぶん、われわれは自分自身をもっとバラバラにしなきゃいけないんです。だけどいまの社会は、ある意味でそれをバラバラにしないように、しないようにしている。


ーわれわれは、オートマティックになっているんですね。


養老 そうそう。それを僕は「丸める」って言ったんですよ。


スマナサーラ 「丸める」は、オートマティックということなんですね。それは誰でもやろうとしていることで、そこからほぐしていけばいいんです。だから、このヴィパッサナー瞑想で第一に何を悟るかというと、分解能力なんです。これがいちばん最初の段階で、まだ上に7つぐらいあります。


ー丸めるから「ああすれば、こうなる」になるんであって、バラバラに分解すると、その場その場で精いっぱいになる気がしますね。


 それが、生き生きと生きている、ということなんですか?


養老 バラバラにしたものを組んでいくことがね。あるとき、それができるようになっちゃうんだ。






思うに


いま一番おもしろい問題は「人間」や「日常」を「バラバラ」にして「つなげる」ことなのではないか?


そして、そのための脳科学のあり方が問われている(と勝手に思う)。


「日常」は平凡であるが、その平凡を支えている脳内過程は謎に満ちている。





保坂和志 「世界を肯定する哲学」より抜粋。



文学などでは、苦痛や危機や喜びといった特別な場面を材料に使って、「生きている」ことの自覚を促すけれど、それは「生きている」ことのいわば輪郭であって、その内側ではほとんど絶対的に漫然と生きている。






さいごに


保坂さんと小島信夫さんの往復書簡、「小説修行」にぐぐっとくる部分があった。






 私はそういう風にして「人間」とか「私」というものを、統合されたものではなく解体して考えることにしました。私のこの人間観をヒューマニズムにものすごく反する人間観と解釈する人がいっぱいいるだろうと思いますが、私は「人間」を肯定するためにこういう人間像を考えたのです。


 「私」とはこの世界に一定期間間借りしている現象なのです。私は何もしなくてもただ生きているだけで、この世界に流れた時間を集積していることになるのです。生物の歴史によって淘汰されたり洗練されたりした機能が人間の中で活動し、人間の歴史によって築かれた文化や技術や思考や感受性の集積が活動しているのが、まさに「私」なのです。






脳科学となにを掛け合わせるか?


それが問題だ。


火曜日, 3月 06, 2007

不在の知覚


五反田駅から研究所に歩いていく途中、


ふっと左手を見ると、サラ地があった。


ここに何かが建っていた感覚はあって


あるべきところに、あるべきものがない感じは


はっきりするのだけれど、あるべきものがなんだったのかは


まったく思い出せない経験をして、おもしろい!と思う。





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別の角度から。











それで、ふと「ウェブ進化論」に


グーグル・アースで家を調べて、数ヶ月前まではプールに色つきのシートが


かかっていたはずなんだけど、写真にはそれが写ってなかったことから


グーグル・アースの写真は数ヶ月ごとに最新の衛生写真に更新している


らしいことがわかったという話が書いてあったのを思い出して、


グーグル・アースで調べてみると、「あるべきもの」が映ってた!!





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一軒家だった(画面中央、ビルの隣り)。





これはおもしろいと思い、


オマケイ、セキネ、ヘライ、タナベにサラ地の写真を見せたけれど


だれも、そこに何があったのか思い出せなくて


そもそも、なくなっていたことに気づいていなくて


これは天然のchange blindnessかも!と思う。





change blindnessはいま認知科学業界でホットな話題で


間違い探しみたいに一部分だけ変化している二枚の写真


を交互に見せて、でもそのとき写真と写真の間に1秒間ぐらい黒い画面を挟むと


たとえ写真の中心部分が大きく変化していてもなかなか気がつかない、


という現象で





従来の仮説だと脳内には、外部世界を完全にコピーした表象が


保持されているのではないかと考えられていたけれど、


change blindnessの結果から、脳は外部世界の完全なコピーなど


保持しておらず、意識が注意を向けたときに部分部分の情報を


動的にup-dateするような、計算量とかメモリーを節約する戦略を


とっているのではないかと考えられはじめている、らしい。





change blindnessは、変化に気づくことがそもそも難しいわけだが、


今日のサラ地は、変化には気づいたが、その内容は思い出せないという点で


change blindnessとはちょっと違う気もする。





どちらかというと、旅行先で団体行動をしていて、


だれかがいない気がするのだけれど、だれがいないのか分からない・・


という感覚に似ている気がする。





高層ビルの写真を数秒間みせて何階建てかを当てるタスクをさせると


サヴァン症候群の人がもつような写真記憶がないと正解できない。


という意味で、普段我々は日常のなかで、風景の細かいディテールなど記憶していない。





毎日同じ道を歩いていると、脳がだんだん風景に注意を向けなくなるということは


脳が「この風景は知っている」と了解するポイントが存在することを意味していて、


その了解ポイントを支えているのは、どうも全体的なパターンの記憶のようで


しかし、脳は意識的にはその「全体的なパターン」の内容を


把握してはいないのではないか?


ただ、なにかが「ない」ときに、その変化を「全体的なパターン」をつかって


無意識的・直感的に検出することができる。





もしかしたら、ヒトの脳にとって、進化的には、


風景はディテールを把握するよりも、変化したものに注意を向けるほうが重要で、


だから全体的なパターンを把握するほうが都合がよかったのかもしれない。





とすると、他の動物はどうなんだろう?


ヒトの視覚記憶システムを例えばチンパンジーに当てはめることは可能なのか?


ジャングルを歩くチンパンジーは、ジャングルの風景を


サヴァン症候群の人のような写真記憶的に把握している可能性はないのか?


ヒトのように全体的なパターンで把握しているのか?


そもそもチンパンジーにchange blindnessは起こるのか?


etc...





と収拾がつかなくなったところでおしまい。。


木曜日, 2月 22, 2007

卒展


芸大の卒展を見に行く。


久しぶりの上野。上野公園は平日でも人が多い。





場所は東京都立美術館で、卒展に来るといつも


その展示されている作品の量に圧倒される。





二年前初めてその量を見たときは、並列コンピュータによる表象空間の


全探索というメタファーが湧いてきて、日記に



・・ヒトが感じることのできる表象空間の可能性を脳を並列に並べて一斉にサーチしている感じがして壮観だった。



と書いた。





ボスならば、サンゴの産卵とか、hopeful monsterと言うかもしれない。


今年もなにか面白いメタファーが見つからないかなぁと


考えていたけれど思いつかず。





そして、地下の彫刻科の展示でイウラさんの作品をみた。


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他にも阿修羅像をモチーフにした絵が2枚ぐらいあったけれど


イウラさんの阿修羅像に一番、存在感(質感?)を感じた。





一つ一つの手が、思わず自分の手を合わせてみたくなるような


(そうすることを求めているような)なぜか惹きつられて


しまうオーラを発していて、そのような手が6本もあって、


かつ、それらがとっている舞いのポーズがまたよくて


恍惚モードの顔と合わさって、拝みたくなる雰囲気を発していた。





養老さんがなにかで「手は第2の顔である」といっていたのを思い出した。


ボディ・ランゲージにおけるジェスチャーの手は


表情以上に感情を語ることを知る。





彫刻の作品たちを見ていると、普段使っていない脳の回路が


活性化している感じがして空間が活気づくような高揚感が感じられてきて


普段、どれくらい人工的なオブジェクトしか目にしてないか


ということが自覚できて新鮮だった。





イウラさんからいろいろ彫刻の面白い話を聞く。





腐った人を表現した像があって


頭からにょきにょきなにかが生えていて


足からもなにかイモ虫のようなものがにょきっと顔を出している。





最終審査が終わった直後に、「ジョジョの奇妙な冒険」の


2,3,5部を一気読みして、5部の主人公のスタンドは


物に生命を与えることができて、物から突然草木が


にょきにょき生えたりするシーンがすごい!と思っていたのだけれど、


その像を見ていたら、それが突然思い出された。





それをいったら、イウラさん曰く、「ジョジョの奇妙な冒険」のファンは


結構いて、その奇想の数々は芸大生にも影響を与えているらしい。





最近、草木が繁茂するイメージが好きなんだけど、


彫刻で草木を表現しようとすると、草の葉っぱは薄いので大変らしい。





剣道をしている木像があった。


最近、武術研究家の甲野さんの本を読んでいて、昔の武術の達人は、


今では考えられない動きができたらしいのだけれど


ふとそのような達人を木像で表現することは可能なのかと思った。


昔の剣の達人同士が向かい合っているとき、その二人の間の空間には、


実は無数のイメージ上の剣の軌道が行き交っているらしいのだけれど


そのような緊張の空間が表現できたらすごいかも、とかと思った。





木彫(?)の巨大な幼虫がいた。ふと保坂さんの下の言葉を思い出して






保坂和志 小説の誕生より抜粋


「書いてみるしかない」「それがどういうものか、書いたものを読んでみないわからない」というのが小説であって、高さ10センチの大仏の置き物と高さ10メートルの大仏とでは見たときに受けるものが全然違う(この文章では「全然違う」という想像はついても、実際に見たときの気持ちがどういうものかということまではわからない)という、その違いを作り出しているものが、小説でも絵でも音楽でも、すべての表現の根底となる。






幼虫を大きくしたらなにか質的な変化が起こるかもしれない


と思って作ったのだけれど、なにも起きなかった作品に


俺には見えたのだけれど、イウラさんは、これはディテールが


甘いと言っていて、たしかにそう言われて見てると表面が粗くて


もっと幼虫のシワシワを彫り込めば、もっと気持ち悪いものに


なって印象が変わったのかも知れないと思った。





粗くいくか、写実的にディテールまでつくりこむか


というのは表現の在り方として独立にあって


そういえば、高村光太郎の「鯰」は粗いけれどいい味が出ていると思う。





イウラさんに伊藤若冲が描く生き物の生命感は


彫刻で表現することってできるの?と聞いたら


若冲の絵は、たとえば鶏の絵を見ると


実物を徹底的に観察することによってしか得られない


細部の表現と、デザイン・抽象化が


絶妙にバランスしているとのこと。なるほど・・。





あと、人体の彫刻はやり尽くした感があるらしい。


それで、話は飛ぶけれど、最近松岡正剛さんの


「形の冒険」と「ゾウの耳はなぜ大きい?」のレビューを読んでから


「形に対する思考」というのがとても面白いということを知って


養老さんの「形を読む」も読みかけていて


養老さんによると、形には


機械的意味、機能的意味、発生的意味、進化的意味


の四つの意味があるという。


NHKのプロフェッショナルでフェラーリをデザインした奥山さんが


機能を実現するデザインはたくさん候補があって


その中で美しいものを選んでくると言っていた。


デザインと美は両立するもので、デザインは機能で美しくなる、


デザインは機能によってどんどん美しくなる!!


と言っていたのがとても印象的だったのだけれど、


生き物を彫刻で表現するときに、


進化的に機能込みで進化してきた形に対して


脳がいい!と反応するならば、


彫刻で機能込みで形というものを考えていくと


どうなるのであろうか、とかと思った。





東京都立美術館の展示を全部見て、


そのあと芸大でユウナちゃんの油絵と


ウエダ君の未完のアニメとハッスーの作品をみた。





ウエダ君と中央棟の廊下でポテトチップを食べながら


セカンド・ライフの中でデザインの活動をしたら


おもしろいのではないかという話をした。





その後、くたくたの状態で研究所にいったら


セキネがいた。セキネとウダウダと話して帰宅した。


木曜日, 2月 15, 2007

空のなかにあるもの


昨日のバレンタインの出来事。


姪が家に来ていた。


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お義姉さんと姪からおチョコ様をもらった。


3歳の姪は、いまなんでも疑問に思うことを質問してくるモードで


お義姉さんはなんて答えたらいいのか考えるのが楽しいらしい。


それでお返しに保坂さんの「季節の記憶」をプレゼントした。





そういえばオンゾウからもおチョコ様をもらった。


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中身が詰まっているように見えて食べてみると中は空洞で、


空洞じゃん!と言ったら


オマケイが、そこにオンゾウの愛がつまってるんだよ


と言ったのを聞いて、ふわっと詩的な世界が広がった。





そして今日は博士最終審査の日。


審査員はホトケだった。


条件付きでパスできた!


とりあえず安堵。


天気がとてもよい一日で


気分もとてもpeacefulな一日で


オマケイ、オンゾウ、ノザワ、イシカワと


「てんてん」でてんぷらを食べた。


水曜日, 2月 14, 2007

twister


明日は博士審査の発表で、


現実逃避で昔mathematicaで作った


Penroseのtwisterを貼ってみる。


竹内薫さんの


「ペンローズのねじれた四次元」に


数式が載っている。





脳における<私>とか「自己」の問題について思ったことの覚え書き。





1.


竜巻とか台風の中心にはかならず無風の


領域があって、それを数学的には「不動点」という。


台風を構成する空気は絶えず入れ替わっているのに、台風の中心は存在しつづける。





<私>=「要素がたえず変化している脳というシステムの中でなぜか変わらないもの」


とするならば


<私>とは「脳というネットワークに生じる不動点のようなもの」なのか?





2.


<私>という「不動点」に摂動を与えたときの脳活動の変化を計測することは可能か?



養老孟司 玄侑宗久 「脳と魂」より抜粋


養老:変わると思いますよ。システムっていうのは、逆に言えば、肝心なところ突かれるとガラッと変わる性質を持ってますから。システムの構成要素はしょっちゅう入れ替わるわけですよね。だけど一応それが変わらないように見えるっていうのがシステムの安定性なんですよ。それがガラッと変わっても、システムは本来安定性を持ってますから、別の安定平衡点をとることも出来るんです。






3.


そういえばオートポイエーシス理論が定義している「自己」は脳に適用できるのか?



ウンベルト・マトゥラーナ&フランシスコ・ヴァレラ 『オートポイエーシス』


 第2に、オートポイエーシスが自己言及しているということは、実は、あえていうなら同義反復によってシステムを作動させているということなのである。ということは、産出プロセスのネットワークが構成素を産出し、構成要素が産出するのは産出プロセスのネットワークなのである。つまり自己が自己を生んでいる。まさに自己創出システムなのである。こういう見方は、自己があって組織化が進むシステム理論とは異なっている。オートポイエーシスの自己は作用主体ではなく、システムの作動そのものを自己としているシステムなのだ。






4.


そもそも脳というコネクションで見ればフラットなネットワークに


なぜ「主体」と「客体」という非対称性が生じるのか?


(→「ボスの脳内現象」をもう一度読むか・・)








Penroseの「Road to the reality」を買った。


1000ページある。


輪講しようそうしよう♪


水曜日, 1月 31, 2007

「底を掘れ!」


最近、仏教がマイブームで、ことの始まりは、


去年、養老さんの「無思想の発見」を読んで、


養老さんが独力で辿り着いた無我の考えが、仏教にすでに書かれていた!


というようなことが書いてあって、仏教とはなんぞやと思う。





その後、玄侑宗久さんが「現代語訳 般若心経」で、



脳科学の用語を使って仏教を説明しているのを読んで


仏教って哲学だったのか!ということを知る。





さらに年末に司馬遼太郎の「空海の風景」を読んで


密教ってすごい!!と思う。たとえばこんな感じ。



 おそらく人類がもった虚構のなかで、大日如来ほど思想的に完璧なものは他にないであろう。大日如来は無限なる宇宙のすべてであるとともに、宇宙に存在するすべてのものに内在していると説かれるのである。太陽にも内在し、昆虫にも内在し、舞いあがる塵のひとつひとつにも内在し、あらゆるものに内在しつつ、しかも同時に宇宙にあまねくみちている超越者であるとされる。






そして今日、養老さんと玄侑さんの対談本、


「脳と魂」を読んだ。





脳と仏教を語るには頭が整理できてなくて


部分だけをピックアップすると


この部分がグッときた。






養老: その場その場で、それなりに満足してるっていうことですよ。まさに成就したんですかねえ。まあ、ダメならダメで「しょうがねえや、それで」って開き直れるんですよ。そういう生き方したほうが楽なのになあと思うんだけど、やっぱり多くの人は、「こうしたらああなる」「ああすればこうなる」で自分を窮屈にしてるんだ。だからね、どん底に落ちて八方塞がりになったら、「底を掘れ!」っていうのが大好きなんです。どん底に落ちたら、そこから先は上がる一方だなんて甘いこと言うんじゃねえ。「掘れ!」ってね。






なんだかよくわからないけれど、おおお!と思い、


これは「どん底のときに思い出したい名言ベスト3」に入る、と思ふ。





「底を掘れ!」というのは


「ヤケになれ!」と言っているのでは絶対なくて、


まわりにいた人にもこの部分しびれない?と(強引に)読ませ、


どんな意味だと思う?と聞いたところ、





タナベは


さらに掘れば水が出てきて外に出られるかもしれない


と言い、


セキネは


養老さんはロックしている


と言った。





それで「底を掘れ!」の意味を自分なりに考えていたら


「無記」という言葉を思い出した。





東工大名誉教授でロボコンの創始者でもある森政弘さんが


「機械部品の幕の内弁当」という本で


「役に立たないものを役立てる」ためには「無記」という


考え方が役に立つと言っていて


「無記」というのも仏教の言葉で、


善でも悪でもないもの。善悪以前のもの


という意味らしい。





たとえば、あるモノを目の前にして、


ああ、これは役に立たないなーという思いがフッとわいたとき


そのマイナスの価値観は、実は自分が勝手に作り出している主観的なものであって、


客観的なモノそれ自体は「価値」をもっていない。


つまり、価値というのは心の産物で、


頭の切換えや心の持ち方の転換によって、


あるモノを見たときに引き起こされる


「役立たない」という価値観を「役立つ」という価値観に


180度転換することができる!





と森さんは言っていて、例えで、





ある人が「コピーの機械の開発」という問題を抱えていて、


容易にはよい案が浮かばず、困り抜いていたという。


そこで、ストレスを解消するために音楽を聞こうとレコードをかけた。


演奏が終わってプレーヤーからレコードを外し机の上に置いたら、


ほこりがふわふわっと大切なレコードに付いたという。


彼は「こん畜生!」と思ったのだけれど、


すぐにそのマイナスの価値を脱却して、「無記」の世界へ脱出して


カッカとした「レコードにほこりが付きやがった!」という思いは、


「ああ、プラスチックの円盤に粉末が付着したのだな」


という冷静な見方に転換したらしい。


そして、この視点の転換が静電気でトナーを付着させて印刷するという


コピー機の原理につながったらしい!!





「無記」の説明が長くなってしまったけれど、


玄侑さんも「一切唯心造」という言葉を言っていて、



不安だとか悩みだとか言っても、それはすべて、結局その人の心がつくり出すものだ



という意味らしい。





これらをまとめて適用すると


「どん底」というネガティブな価値は


結局その人が「こうしたらああなる」「ああすればこうなる」という自分縛りによって


主観的につくり出しているものであって、


「あとは上がる一方」という考えは


その価値を維持したまま・変更しないまま


つまり自分を変えないまま


周囲の状況が変化するのを待っているところが甘い(養老さん的には)。


「底を掘れ!」というのは、


意識的・能動的に「どん底」から「無記」の世界に脱出して


価値が180度転換するような


見方を見つけろ!(それが「掘れ!」に相当する?)


という意味で、


それによって「どん底」を180度ひっくり返せる


ことだってある!!





という意味なのではないか?なんか違うかも。。


いずれにしても仏教は深いぜ!と思ふ。


月曜日, 1月 15, 2007

「LOST」


先週から月火の深夜に「LOST」が放送されていて


1話と2話を見ておもしろい!!と思って


土日2日間をかけてレンタルDVDで


「LOST シーズン1」をすべて見てしまった。


全25話で1話が約43分。目が痛くなる。





飛行機が奇妙な島に墜落してしまって、


そこでサバイバルをする話。


1話ごとに1人の登場人物の過去の話とリンクして物語が展開する。


島は謎に満ちていて、オカルトの要素も入っている。





演出が怖い!!





ジャングルを歩いていると、カサカサと音がなる。


周囲をぐるぐる見渡す。人影は見えない。


でも音はどんどん大きくなる。なにかが迫ってくる!!





という演出がとても効果的に使われる。





あと島の謎も怖い。





恐怖は「目に見えないもの」に宿る、ということを知る。





敵の正体が実は人でした、とかエイリアンでした、とか


具現化されてしまった時点できっと恐怖というのは消滅してしまう気がしていて


どこまでいっても正体がなんだかわからないということが


効果的に恐怖を生み出すのだと思った。





そういう意味では、映画「ブレア・ウィッチ・プロジェクト」に似ていると思う。


あの映画はみんな最後に消えてしまうけれど


最後まで森にすむウィッチの正体は謎のままだった。





「LOST」を見ていたら、電気のついてない部屋の暗闇が怖くなってきて、


ふと、文明以前のジャングルで暮らしていたヒトたちはこの感覚を


ずっと持ち続けていたのではないだろうかと思ふ。


昔のヒトが膨大な神話を生み出した理由の一つは、


「目に見えないもの」に対する恐怖を


克服するためにあったのでないか?





昔、簡単な記号の言語を操れるゴリラが、


森には怖いものがいる


という意味のことを記号で説明している映像をみた記憶が


あるのだけれど、あれはなんだったんだろう・・。


単にヒョウみたいな天敵のことを指していたのだろうか。





話はさらに飛ぶけれど、


ヒトの脳の特権が「目に見えないもの」を見ることができる


ことにあるのは間違いなくて、「目に見えないもの」という考えが今とてもアツい。





科学は、「目に見えないもの」を見ようとする営みだと思う。


おもしろい例が、暗黒物質で、


銀河系の星たちの分布を見ると、クラスターをつくっていて、


観測される星たちの質量から計算される重力だけでは、


そのクラスター性を説明できないらしい。


もしニュートンの重力の法則が正しいならば、宇宙空間を


目に見えない、未知の物質が満たしていなくてはならなくて、


いまの科学者はなにもない宇宙空間に「暗黒物質」を見ている。





宗教だって基本的には「目に見えないもの」を見る脳の働きから


出てくるもので、ヒトは「目に見えない」超越的ななにかを「神様」と名付けてきた。


時間がたって「目に見えないもの」を具現化しようとして


偶像崇拝に向かう宗教もあるけれど、


イスラム教みたいにどこまでも視覚化することを禁止する宗教もある。





あと、昔のロボットアニメは、たいてい初回から


人のカタチをした悪玉が登場するのだけれど、


つまり、敵の正体が目に見えてしまっているのだけれど、


最近のエヴァンゲリオンから始まったロボットアニメの潮流は


最初は敵の正体が分からない。


「敵の正体」とかそれを支えている枠組みとしての「世界」とかその起源が


「目に見えない」大きな謎として設定されていて、


それが徐々に明らかになっていくのが、おもしろさの要素の一つになっている。


だから、おもしろさは謎が極まる真ん中あたりがピークで


徐々に世界の謎とか起源が明らかになる段階になって、


古代人の超テクノロジーが残したなにか、みたいな


収拾がつかないというか破綻しているチープな設定が


前面に出てきて苦しくなってくる。。





そういう意味で「LOST」は、「目に見えないもの」が


まだまだ謎のままで物語を引っぱっていて、


シーズン2もきっと見てしまう気がする!


日曜日, 1月 07, 2007

年賀状づくり


遅ればせながら


あけましておめでとうございます。


今年もよろしくお願いします。





年末年始、ずっとバタバタしていて


ようやく落ち着いたので年賀状づくりをした。





正月・・それは年に一度だけ


キャラクターをデザインする時・・なり。


とはいっても「ぼのぼの」風の絵しか描けない・・(涙)。





今年は2日かけて「線」ってやつを探求してみた。


その制作過程を一挙公開!!


というか2日もかかったので


ここに苦労の制作記録を残しておこうと思い立つ。。





紙1枚目(1/7)。


イノシシを描こうとしたらカバになる。


イノシシをグーグル・イメージで調べて


はじめてイノシシの鼻のかたちを知る。


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紙2枚目(2/7)。


立たせてみたり、座らせてみたりしてみる。


顔の原型が定まる。


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紙3枚目(3/7)。


立たせることにこだわる。が、足がうまく描けない・・(涙)。


諦めて四足にしてみる。


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紙4枚目(4/7)。


立体四足を諦めて、線にする。


風船イノシシ。


これでいいかな~と一瞬おもう。


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紙5枚目(5/7)。


が、今年は線を追究するぜぃという自分縛りを思い出し


新たな探索に出る。


ぼのぼの風をやめてみる。うーむ。。


正面から描いてみる。うーむ。。


鼻まわりのパーツを探索してみる。鼻・口・牙の関係をつかむ。


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紙6枚目(6/7)。


翌日。朝起きて、ふっと楽器を吹かせようと思い立つ。


安直にラッパっぽい楽器を吹かせてみる。いいじゃん!と思う。


周りに踊るイノシシも欲しい!と思い、踊らせてみる。


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紙7枚目。


ラッパ・イノシシだけでいいやと思い、


もう一度描いてみる。が、再現できない・・(涙)。


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・・・という試行錯誤の末、


6枚目のラッパ・イノシシをスキャナーで取り込んで


年賀状に仕立てた。完成!!


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土曜日, 12月 23, 2006

映像詩:海の一日


12月は研究室のゼミで


Xmasスペシャルというイベントがあって


なにかだしものをしなくてはならない。





このくそいそがしい時に・・


と思いながらも現実逃避で


いままで撮った映像を探しはじめたら


去年の夏に研究室旅行で


沖縄の渡嘉敷島にいったときに


撮ってお蔵入りしていた映像を発見する





おもしろい映像を撮りたくて


早朝の海岸を撮ってみたり、


防水したデジカメと


浮き輪とシュノーケルと魚肉ソーセージを装備して


熱帯魚を撮ってみたりしたのだが


今回、唯一つ掘り出し物だと思ったのが


気のすすまないオンゾウに


魚肉ソーセージをあげて


カメラの前を横切ってもらった


この10秒の映像。






D





脱力した感じが生み出すなんともいえない余韻が


波の音と重なって心地よい。











詩は人生を豊かにする(きっと)


そして詩とは映像である(たぶん)





古池や蛙飛び込む水の音





は言葉でありながら日常の


一瞬をとらえたすばらしい映像なのだ、と思う。





映像詩 里山 命めぐる水辺 [HD DVD]


昔、NHKスペシャルの「映像詩 里山 命めぐる水辺」という


すばらしいドキュメンタリー番組を見て


映像が詩になることを知る。





詩になる映像を「映像詩」とよぶ。


この「海の一日」は


さわやかな風がふわっと吹き抜ける一瞬を


とらえた映像詩なのだ!!





・・という苦しい説明を


作品をエンドレスで再生しながら


みんなのまえでしたら


優勝した!うれしいなり。





YouTube:


http://www.youtube.com/watch?v=Xw54ofcNjQE


土曜日, 11月 25, 2006

名探偵・メカ・奇想


ヤフー動画でアニメ「名探偵ホームズ」を見た。


http://streaming.yahoo.co.jp/p/t/00114/v00630/





面白くて、懐かしくて、3話すべてみてしまった。


小学生の頃、早朝に放送していて、朝早起きして見ていたのを思い出した。





記憶の中でエンディングテーマソングのサビの部分の


「24時間あたまのなかでなにかが」


という歌詞がリピート再生されるんだけれどその先がなくて


ずっと気になっていたところ





「24時間あたまのなかでなにかがダンスしている人なんだから」


という歌詞だったことが判明して頭がすっきりした。





「24時間あたまのなかでなにかがダンスしている人」


という言葉に親近感を感じてしまって、いい表現だ・・と思う。。











第三話の監督が宮崎駿だった。





登場するからくりメカを見ていると楽しい。





「想像力に満ちていて、見ているだけで喜びを与えてくれるメカ」


というものがあると思う。





ふと、天空の城ラピュタのキャッチフレーズを思い出した。



機械がまだ機械のたのしさを持っていた時代、科学が必ずしも人を不幸にすることは決まってないころ、そこはまだ世界の主人公は人間だった・・・。






ここでいっている「機械のたのしさ」というのは


きっと宮崎駿の「奇想なイメージをもったメカたち」が


もたらしてくれるもので、


それは名探偵ホームズのなかにも息づいていると思った。











「機械のたのしさ」をもっている作品を思い浮かべてみる。





ラピュタのロボット兵とか乗り物のメカたち


タイムボカンシリーズの毎週変わるロボットたち


ピタゴラスイッチのピタゴラ装置


映画のスチームボーイ


のっぽさんの「できるかな」(ちょっとちがうか・・)





これらは何かこの「機械のたのしさ」を持っている気がする。





あと最近、保坂和志の「小説の誕生」を読んで


レーモン・ルーセルの「ロクス・ソルス」


という小説の存在を知って即買いをしてしまった。


アマゾンの内容の紹介文がすばらしい。






ブルトンが熱讃し、レリスが愛し、フーコーがその謎に魅せられた、言葉の錬金術師レーモン・ルーセル。言語遊戯に基づく独自の創作方法が生み出す驚異のイメージ群は、ひとの想像を超える。―パリ郊外はモンモランシー、天才科学者カントレルの奇想の発明品が並ぶ広大なロクス・ソルス荘へ、いざ、―。





ブルトンが熱讃し、レリスが愛し、フーコーがその謎に魅せられた、言葉の錬金術師ルーセルの代表作。言葉と創造力だけで創られた瞠目の奇想イメージの数々は、ひとの想像を悠に超えてゆく。



早く読んでみたいけど時間がない。。





・・・といろいろ列挙してみて、


最近「奇想イメージ」がもたらす


楽しさとか気持ちよさの構造に興味あり、と思う。


木曜日, 11月 09, 2006

いつもの道を


五反田駅から研究所に向かって歩いていると、


男の人が後ろから小走りで追い抜いていった。





その男は日本代表の青いユニフォームをきていた。


日に焼けた顔、伸びた髪を後ろで結わえて、年齢は30前半ぐらい。


詰まったリュックを背負っていて、


その両脇からビニール袋がぶら下がっている。





小走りにあるきながら、並ぶ自販機の釣り銭口に


ひょいっひょいっと手を突っ込んで釣り銭をチェックしていく。


コンビニ前のゴミ箱の中身も丹念にのぞいていく。





一連の動作がかれの小走りの動作のなかに


なめらかに組み込まれていて


なんだかその道を極めた達人に見えてきて、


面白いと思った。





そうしていたらネットサーフィンで


養老さんと甲野さんの


古武術の発見―日本人にとって「身体」とは何か


という本を発見して、思わず購入。


月曜日, 11月 06, 2006

しあわせのくつ


「しあわせのくつ」という言葉に


20年ぶりぐらいに出会った。





漢字で書くと「幸せの靴」。


「しあわせのくつ」は、ゲーム・ドラクエⅢで出てくるアイテムで



装備すると1歩歩くごとに経験値が1上がる。レベルアップする経験値に達した場合は、次の戦闘に勝利したときにレベルアップする。(しあわせのくつとはより)






たしかバラモンを倒して、アレフガルドに行って


ラスボス・ゾーマに挑戦しようとするぐらいの、


ゲーム終盤で手に入るアイテムだった記憶がある。





歩くだけで経験値がたまっていく様子を見ていると、


たしかになんだかとても幸せな気分になった記憶があって、


その感覚が20年ぶりにふっとよみがえって、


「しあわせのくつ」って


なんて絶妙な言葉の組合せだったんだ!と思う。





このまえの仏像展で見た、


円空の仏像の笑みがつくりだす


雰囲気というか空間についてずっと考えていて、


パンフレットの





「一木にこめられた祈り」





という言葉を見たら、


「祈り」という言葉の意味が、


円空仏の空間にふっとくっついた。





最近、宇多田ヒカルのcolorを聞いて


「黒い服は死者に祈るときだけ着るの」


という歌詞を聞いたときに、


「死者に祈る」という表現が格好いいと思ったんだけど


ふとそういえば意識して死者に祈りを捧げたことってない


ということに気がついて、


「祈る」という言葉の意味が未知化したんだけど、


それがなんかカタチを得た。





それと「恵み」という言葉。


ボスの「科学の恵み」という題の講演を聞いて以来、


「恵み」という言葉にはまっていて、


ネットの恵み、脳科学の恵み、妄想の恵み


とかいろいろ試してみるのだけれど、





あの空間を指し示すのに


「仏教の恵み」という言葉が


なんだとてもしっくりくると思った。





円空仏の笑みは、


仏教の恵みを感じさせてくれる


祈りの空間を生み出している


と思う。





「恵み」という言葉は、なんだか、


暖かな雨が無条件にふりそそぐというイメージがあって、


それによって、生命がぐんぐん成長するというイメージもある。





この


恵みの雨が無条件にふりそそぐ、という感覚は、


じつは


「しあわせのくつ」をはいて


1歩歩くごとに経験値が1上がるときに


味わう感覚と同じものなのではないか


ということにふと気がついて、





「しあわせのくつ」という言葉が与えてくれる


なんだかとてもしあわせな感じは、


じつは


円空仏の笑みがもたらす「恵み」と「祈り」の空間と


同質のものなのかもしれない、と思う。


月曜日, 10月 30, 2006

のど飴


先週の水曜日から風邪を引いて、


今回の風邪は喉にきて、咳が止まらないので


ずっとのど飴をなめてました。


ここ6日間、1日中、ずっと。





気がつくと


コンビニとキオスクに並ぶすべてののど飴を制覇してました。





いつのまにか


お腹のおニクがひとつまみ分、増えたきがします。





そして


左の下の歯が虫歯になりました。





ふと、ぺこちゃんのことが頭をよぎりました。


飴ばかりなめているぺこちゃんの歯は


無事なのか?





・・・・・・・・





工大祭にいきました。


屋台で不思議なマレーシア料理に出会いました。


名をロティジャラというクレープのような料理。


カレー粉をつけてたべます。


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どこか魅惑的な、この色カタチ。





・・・・・・・・





東京国立博物館に仏像を見に行きました。





家に持ち帰って毎日拝みたいと思うような


仏像がたくさんありました。





仏像の笑顔がよかった!





仏教の恵み。





色即是空。空即是色。





仏教のこの徹底した<無>の世界観を受けいれた先に


むかしのひとはこの笑顔にたどりついたのだろうか


と思いました。


月曜日, 10月 23, 2006

夢と妄想と空想のはざまで


ディテールは思い出せないんだけど


強盗系の犯罪をして、場所を転々としながら


逃走する夢をみた。


なんだか夢全体がとても息苦しい感情に支配されていて、


そうしたら、朝起きたら気分がとてもブルーだった。


しかし、しばらくして、


逃走犯になったならば抱くであろう感情を


virtual realityの中で


生まれてはじめて体験したことに気が付いて、


なんだかとても新鮮な気分になる。








ここ一週間ぐらい、ずっと


頭が自動発散モードで、妄想が止まらない・・。


いままではこの状態を楽しんでいたんだけれど、


最近、これは病的だなと思いはじめてきて、


ふと、このような発散した事態を収束させることが


できる人こそ真のプロフェッショナルなのではないか?


ということに気がつく。








それはそうとして、


今日は、post mixiのアイディアを思いついた。。





CNETで江島健太郎さんが、ウェブの展望を語っていて






Web 2.0の挑戦者:超軽快なウェブチャットLingr


 ウェブは実世界に近いものになってきています。これは文字通りの意味です。


 われわれは、ウェブがリアルタイムなものに変わっていくという展望を持っています。実世界と同じように、仮想空間の中を動き回ると、そこでは生放送のブログや絵を描くライブパフォーマンス、ジャムセッションなどが見られ、拍手のような観衆からの反応もリアルタイムに伝わる--そんなことが未来には可能になるだろうというのが、われわれの夢です。






と書いてあるのを読んで、


自分もこの方向は正しいと(今日)思った!





数年前、Nintendo64用に開発されていた


Mother3というゲームは、


プレーヤーのアクションによって


物語を自在に分岐させていくという野心的な計画


をもっていたんだけど、


作り込まなくてはならない物語の数が爆発的に


増えてしまって開発中止になった。





閉じたシステムのなかで、


無限に展開していく物語をつくるのは、


クリエーターが物語を作り込まなくてはいけなくて、


工程数の爆発が起きてしまいとても難しい。





でも、ゲームという視点からみると、


mixiは、実は、


クリエーターが作りこむことなしに、


ネットという開いたシステムの性質を利用して


自然に人と人の出会いやコミュニケーションが


生成されつづける、初めての


「終わりのないゲーム」とみなせるのではないか?





仮想空間で閉じていたゲームが、いつのまにか


現実のエンドレスな世界に接続してしまっている。





開いたシステムであるウェブが


どんどんリアル・現実に近づくということ





問題はその先になにがあるのか?ということで、





その先を





脳科学×コミュニケーション×物語×遊び





の視点で眺めると、なんだかたくさんの


おもしろい切り口があるきがする!!


金曜日, 10月 20, 2006

チンパンジーのはなし


よくあることなんだけれど、


オマケイと電車のなかで


ヒトの道徳の起源について


性善説 vs 性悪説の議論になって、


気になって今年の1月に読んだ


フランス・ドゥ・ヴァールの「あなたのなかのサル」


を読みなおしてみた。





霊長類研究者の間では、「今夜はボノボするぜ」である意味が通じるらしい





というような、どうしょうもない記憶しか思い出せなかったんだけれど、


読み直してみたら、いろいろ再発見があっておもしろかった。





去年、


奥田英朗という作家のインタビューが新聞に載っていて、





あふれる寸前のコップの水に一滴垂らしたとたん、どっと水がこぼれるような瞬間を描きたい





という言葉が妙に印象的で、心のなかに残っていたんだけれど、


それに相当するような話を見つけた!(気がする。)





クロムというメスのチンパンジーが


ローシュという赤ちゃんを産んだんだけれど、


クロムは耳が聞こえないので、


メスのチンパンジーのカイフに代わりに育ててもらうことにした、


という話で、長いけど以下抜粋。



・・・カイフは養母の条件にぴったりだった。彼女は自分の子どもを母乳不足で死なせた経験があるし、当面ローシェと競合する実の子もいない。それにカイフは、赤ん坊に並々ならぬ興味を持っていた。クロムが赤ん坊の叫び声に気づかないとき、カイフもいっしょに声を出した場面を私たちは何度か目撃している。


 カイフはわが子が死ぬたびに、激しくふさぎこんだ。食べ物を受けつけず、悲痛な声をあげる。身体をずっと揺らしたり、自分の身体を強くつかむといった行動も見られた。哺乳瓶を使う練習をはじめたとき、カイフは赤ん坊を抱きたくてしかたなかったが、私たちはけっして彼女とローシュを接触させなかった。練習中、カイフは不満だらけだったはずだ。哺乳瓶から自分が飲むことは許されず、私たちが抱いたローシュに、ケージの向こうからミルクを飲ませなくてはならないからだ。それでも数週間の訓練で、カイフは哺乳瓶扱いがとても上手になった。私たちは次の段階に進み、カイフの夜用ケージに敷いたわらの上に、手足をばたばたさせるローシュを寝かせてみた。最初のうち、カイフはローシュの顔をのぞきこむだけで、手を触れようとしない。赤ん坊は私たちのものだという認識なのだ。チンパンジーにとって、ほかの誰かの赤ん坊に許可なくさわるのは、好ましくない行いだ。飼育係と私はケージのすぐ外で、座って様子を見守っていた。こちらに近づいてきたカイフは、ケージ越しに私たちにキスをし、ローシュと私たちを交互に見た。まるで許しを求めているようだ。私たちは「ほら、赤ん坊を抱いてごらん!」と言いながら、手を振ってローシュのほうを示した。ようやくカイフは赤ん坊を抱きあげた。その瞬間から、カイフは子どもを守り、いつくしむ理想的な母親になり、こちらの期待したとおりにローシュの子育てをしてくれた。


・・・ローシェを養子に迎えてから、カイフと私の関係に変化が起こった。私に感謝の念が向けられるようになったのだ。それまでカイフと私はつかずはなれずの付きあいだったのに、ローシュの一件以来、カイフは私の顔を見るたびに、ありったけの愛情を浴びせるようになった。それは、30年近くたったいまもまったく変わらない。カイフは、久しく会わなかった家族を迎えるように私の両手を掘りしめ、私がその場を去ろうとすると、泣きそうな声をあげる。こんな風に接してくるチンパンジーは、この世でカイフだけだ。カイフは哺乳瓶を使う訓練を受けたおかげで、ローシュだけでなく、実の子どもたちも無事に育てることができた。何年たっても、彼女はそのことをけっして忘れない。



本では、動物は感謝をするのか?という話題の中での


エピソードなんだけれど、


帰りの電車のなかでここを読んでいたら、


「その瞬間から、カイフは子どもを守り、いつくしむ理想的な母親になり・・・」


というくだりが、なんだか奥田英朗さんの


「どっと水がこぼれるような瞬間」に感じられて、


最近涙もろいのか、目頭が熱くなった。


チンパンジーなのに泣かせてくれるぜ、と思ふ。


月曜日, 9月 18, 2006

未来思考


ある日、


ヒトを幸せにする脳科学をやりたい


とオマケイにいったら、


「お~い、(現実世界に)戻ってこ~い」


と言われた。





オンゾウに同じことをいったら、


「まずあなたが幸せになりなさい」


と言われる。うっ。





最近、脳の計測技術が、いうなれば、


fMRI1.0がfMRI2.0になりつつあって、


サイボーグ技術とか、ウソ発見機とか、想起している記憶を当てるとか、


さまざまな「心を読む(マインド・リーディング)」研究が


立ち上がりつつある。





脳がなにを表象しているかをリアルタイムで当てることが


できるということは、科学の視点でみると、


とてもエキサイティングなんだけれど、





「マインド・リーディング」の技術がもたらすであろう、


社会への影響についても、倫理の視点から議論が始まっていて、


それらが描いている未来は、心を読めてしまうと、


プライバシーがなくなるとかなんとかで、とても暗い・・。





「マインド・リーディング」の社会的応用で


すぐ思いつくのは「ニューロ・マーケッティッグ」で、


資本主義→商品を買ってほしい→広告を見て欲しい→商品を見て脳がどう感じるか知りたい


というニーズによって、お金には困らない研究領域になると期待される。





でも、おもいっきりお金のサイクルに取り込まれてしまっていて、


なんだか違うんだよなーという思いがあって、


最近よく、ヒトを幸せにする脳科学について考える。


脳科学がうみだす「幸せ2.0」の可能性の問題。


他者を幸せにすることによってこそ、自分も幸せになれるのではないか?


の問題でもある。





そんなことを考えていたら、


ゲームクリエイターの水口さんがブログで、


ゲームを肯定的に語っているのを読んで、


おおお!と思う。



水口哲也の地球万華鏡:紅茶の国からコネクト 英国


 ゲームの面白さとは、人間が持っている本能や潜在欲求をどう再デザインするかということだ。面白いゲームは世界中の人とつながれる。面白いゲームは世界中の共通体験となる。(中略)何か事件が起こると、よくビデオゲームが攻撃される。(中略)だけどちょっと待て。もしその人間の欲求や本能のポジティブな部分を使ってデザインすれば、ゲームはポジティブな力を持ち得るのではないか?というのが、僕の制作者としての信念だ。もし、パレスチナ人の子供と、イスラエル人のおじいちゃんがゲームで対戦したとする。面白さにハマっているときの表情は、たぶん2人とも同じように無邪気なはずだ。面白いゲームは、人を無防備の状態にする「力」がある。このゲームの「力」をポジティブな方向に使えないだろうか。文化や思想や、先入観や人種的偏見を超えて、つながる本能。面白さの中で、ハイブリッドのように溶け合っていく意識。ゲームで人に力を与えることができないものか。そんなことを夢見て僕はいまだゲーム制作の仕事をやめられない。






ゲームの「面白さ」を言語化していて、かつ社会的な視点からみて、


ゲームがヒトを幸せにする可能性について言及されていて、


ゲームを肯定しているところが、なんだかとてもグッときて、


これだ!!と思う。





脳科学の「面白さ」を言語化し、肯定する道筋を見つけよう、


と想う。


木曜日, 9月 07, 2006

心理テスト


オマケイにおもしろい心理テストを教えてもらった。





みなさま、紙と鉛筆を用意して、下の図を注目してくださいませ。(所要時間、約5分)





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Step1


形容詞を思いつくままに10コ列挙する。


Step2


形容詞を上から2コずつ見て、そこから連想される名詞を書く。


Step3


名詞を上から2コずつ見て、そこから連想される名詞を書く。最後の1コは残しておく。


Step4


2コの名詞を見て、連想される名詞を書く。


Step5


最後に、Step4の名詞と、Step3の余りの名詞から連想される名詞を書いたら終了~。






































みなさま、できましたか?























最後の名詞が意味するところは。。。














































































































ありがちだけれど。。。
















































































































































































あなたが心のなかでほっしているもの!!です。

















自分でやってみたところ、こうなった。





きれいな    女性   恋人    シンデレラ   グリム童話!!


美しい


すばらしい   男性


優れた


きたない    こじき  魔法使い  


みずぼらしい


青い      カエル


温かい


明るい     小人


小さい








最近、脳と物語についていろいろ考えていたので、「おおお!」と思う。


なんだか当たってるかも・・。


というか、人間の連想力ってすごい!





研究室の人々の結果も面白かった。





オマケイ  大人のオ○チャ


オンゾウ  宇宙


セキネ   紅茶


ノザワ   塩素





オマケイは、いかにもオマケイのアタマの中にありそうなぶつで、


オンゾウは、期待を裏切らず、異次元に飛んでしまっていて、


セキネは、その平凡さが、いかにもいかにも、という感じで、


ノザワは、意味不明なところがいい味をだしていて、





深層心理が出てるっぽい!!と思う。


それにしても、一体どうやれば宇宙にたどりつくんだ・・(笑)


金曜日, 9月 01, 2006

Back to Blogger

Bloggerが、Blogger betaにversion-upして、
高頻度でパーマリンク(1日ごとの日記のページ)の生成に失敗する、
という、気になるバグが改善されていたので、
「はてな」から戻ってみる。
From:
http://d.hatena.ne.jp/toooru/

試しに「はてな」の4月から8月分の日記を移植。
たった13日分しかなかった。。