水曜日, 1月 31, 2007

「底を掘れ!」


最近、仏教がマイブームで、ことの始まりは、


去年、養老さんの「無思想の発見」を読んで、


養老さんが独力で辿り着いた無我の考えが、仏教にすでに書かれていた!


というようなことが書いてあって、仏教とはなんぞやと思う。





その後、玄侑宗久さんが「現代語訳 般若心経」で、



脳科学の用語を使って仏教を説明しているのを読んで


仏教って哲学だったのか!ということを知る。





さらに年末に司馬遼太郎の「空海の風景」を読んで


密教ってすごい!!と思う。たとえばこんな感じ。



 おそらく人類がもった虚構のなかで、大日如来ほど思想的に完璧なものは他にないであろう。大日如来は無限なる宇宙のすべてであるとともに、宇宙に存在するすべてのものに内在していると説かれるのである。太陽にも内在し、昆虫にも内在し、舞いあがる塵のひとつひとつにも内在し、あらゆるものに内在しつつ、しかも同時に宇宙にあまねくみちている超越者であるとされる。






そして今日、養老さんと玄侑さんの対談本、


脳と魂」を読んだ。





脳と仏教を語るには頭が整理できてなくて


部分だけをピックアップすると


この部分がグッときた。






養老: その場その場で、それなりに満足してるっていうことですよ。まさに成就したんですかねえ。まあ、ダメならダメで「しょうがねえや、それで」って開き直れるんですよ。そういう生き方したほうが楽なのになあと思うんだけど、やっぱり多くの人は、「こうしたらああなる」「ああすればこうなる」で自分を窮屈にしてるんだ。だからね、どん底に落ちて八方塞がりになったら、「底を掘れ!」っていうのが大好きなんです。どん底に落ちたら、そこから先は上がる一方だなんて甘いこと言うんじゃねえ。「掘れ!」ってね。






なんだかよくわからないけれど、おおお!と思い、


これは「どん底のときに思い出したい名言ベスト3」に入る、と思ふ。





「底を掘れ!」というのは


「ヤケになれ!」と言っているのでは絶対なくて、


まわりにいた人にもこの部分しびれない?と(強引に)読ませ、


どんな意味だと思う?と聞いたところ、





タナベは


さらに掘れば水が出てきて外に出られるかもしれない


と言い、


セキネは


養老さんはロックしている


と言った。





それで「底を掘れ!」の意味を自分なりに考えていたら


「無記」という言葉を思い出した。





東工大名誉教授でロボコンの創始者でもある森政弘さんが


機械部品の幕の内弁当」という本で


「役に立たないものを役立てる」ためには「無記」という


考え方が役に立つと言っていて


「無記」というのも仏教の言葉で、


善でも悪でもないもの。善悪以前のもの


という意味らしい。





たとえば、あるモノを目の前にして、


ああ、これは役に立たないなーという思いがフッとわいたとき


そのマイナスの価値観は、実は自分が勝手に作り出している主観的なものであって、


客観的なモノそれ自体は「価値」をもっていない。


つまり、価値というのは心の産物で、


頭の切換えや心の持ち方の転換によって、


あるモノを見たときに引き起こされる


「役立たない」という価値観を「役立つ」という価値観に


180度転換することができる!





と森さんは言っていて、例えで、





ある人が「コピーの機械の開発」という問題を抱えていて、


容易にはよい案が浮かばず、困り抜いていたという。


そこで、ストレスを解消するために音楽を聞こうとレコードをかけた。


演奏が終わってプレーヤーからレコードを外し机の上に置いたら、


ほこりがふわふわっと大切なレコードに付いたという。


彼は「こん畜生!」と思ったのだけれど、


すぐにそのマイナスの価値を脱却して、「無記」の世界へ脱出して


カッカとした「レコードにほこりが付きやがった!」という思いは、


「ああ、プラスチックの円盤に粉末が付着したのだな」


という冷静な見方に転換したらしい。


そして、この視点の転換が静電気でトナーを付着させて印刷するという


コピー機の原理につながったらしい!!





「無記」の説明が長くなってしまったけれど、


玄侑さんも「一切唯心造」という言葉を言っていて、



不安だとか悩みだとか言っても、それはすべて、結局その人の心がつくり出すものだ



という意味らしい。





これらをまとめて適用すると


「どん底」というネガティブな価値は


結局その人が「こうしたらああなる」「ああすればこうなる」という自分縛りによって


主観的につくり出しているものであって、


「あとは上がる一方」という考えは


その価値を維持したまま・変更しないまま


つまり自分を変えないまま


周囲の状況が変化するのを待っているところが甘い(養老さん的には)。


「底を掘れ!」というのは、


意識的・能動的に「どん底」から「無記」の世界に脱出して


価値が180度転換するような


見方を見つけろ!(それが「掘れ!」に相当する?)


という意味で、


それによって「どん底」を180度ひっくり返せる


ことだってある!!





という意味なのではないか?なんか違うかも。。


いずれにしても仏教は深いぜ!と思ふ。


月曜日, 1月 15, 2007

「LOST」


先週から月火の深夜に「LOST」が放送されていて


1話と2話を見ておもしろい!!と思って


土日2日間をかけてレンタルDVDで


「LOST シーズン1」をすべて見てしまった。


全25話で1話が約43分。目が痛くなる。





飛行機が奇妙な島に墜落してしまって、


そこでサバイバルをする話。


1話ごとに1人の登場人物の過去の話とリンクして物語が展開する。


島は謎に満ちていて、オカルトの要素も入っている。





演出が怖い!!





ジャングルを歩いていると、カサカサと音がなる。


周囲をぐるぐる見渡す。人影は見えない。


でも音はどんどん大きくなる。なにかが迫ってくる!!





という演出がとても効果的に使われる。





あと島の謎も怖い。





恐怖は「目に見えないもの」に宿る、ということを知る。





敵の正体が実は人でした、とかエイリアンでした、とか


具現化されてしまった時点できっと恐怖というのは消滅してしまう気がしていて


どこまでいっても正体がなんだかわからないということが


効果的に恐怖を生み出すのだと思った。





そういう意味では、映画「ブレア・ウィッチ・プロジェクト」に似ていると思う。


あの映画はみんな最後に消えてしまうけれど


最後まで森にすむウィッチの正体は謎のままだった。





「LOST」を見ていたら、電気のついてない部屋の暗闇が怖くなってきて、


ふと、文明以前のジャングルで暮らしていたヒトたちはこの感覚を


ずっと持ち続けていたのではないだろうかと思ふ。


昔のヒトが膨大な神話を生み出した理由の一つは、


「目に見えないもの」に対する恐怖を


克服するためにあったのでないか?





昔、簡単な記号の言語を操れるゴリラが、


森には怖いものがいる


という意味のことを記号で説明している映像をみた記憶が


あるのだけれど、あれはなんだったんだろう・・。


単にヒョウみたいな天敵のことを指していたのだろうか。





話はさらに飛ぶけれど、


ヒトの脳の特権が「目に見えないもの」を見ることができる


ことにあるのは間違いなくて、「目に見えないもの」という考えが今とてもアツい。





科学は、「目に見えないもの」を見ようとする営みだと思う。


おもしろい例が、暗黒物質で、


銀河系の星たちの分布を見ると、クラスターをつくっていて、


観測される星たちの質量から計算される重力だけでは、


そのクラスター性を説明できないらしい。


もしニュートンの重力の法則が正しいならば、宇宙空間を


目に見えない、未知の物質が満たしていなくてはならなくて、


いまの科学者はなにもない宇宙空間に「暗黒物質」を見ている。





宗教だって基本的には「目に見えないもの」を見る脳の働きから


出てくるもので、ヒトは「目に見えない」超越的ななにかを「神様」と名付けてきた。


時間がたって「目に見えないもの」を具現化しようとして


偶像崇拝に向かう宗教もあるけれど、


イスラム教みたいにどこまでも視覚化することを禁止する宗教もある。





あと、昔のロボットアニメは、たいてい初回から


人のカタチをした悪玉が登場するのだけれど、


つまり、敵の正体が目に見えてしまっているのだけれど、


最近のエヴァンゲリオンから始まったロボットアニメの潮流は


最初は敵の正体が分からない。


「敵の正体」とかそれを支えている枠組みとしての「世界」とかその起源が


「目に見えない」大きな謎として設定されていて、


それが徐々に明らかになっていくのが、おもしろさの要素の一つになっている。


だから、おもしろさは謎が極まる真ん中あたりがピークで


徐々に世界の謎とか起源が明らかになる段階になって、


古代人の超テクノロジーが残したなにか、みたいな


収拾がつかないというか破綻しているチープな設定が


前面に出てきて苦しくなってくる。。





そういう意味で「LOST」は、「目に見えないもの」が


まだまだ謎のままで物語を引っぱっていて、


シーズン2もきっと見てしまう気がする!


日曜日, 1月 07, 2007

年賀状づくり


遅ればせながら


あけましておめでとうございます。


今年もよろしくお願いします。





年末年始、ずっとバタバタしていて


ようやく落ち着いたので年賀状づくりをした。





正月・・それは年に一度だけ


キャラクターをデザインする時・・なり。


とはいっても「ぼのぼの」風の絵しか描けない・・(涙)。





今年は2日かけて「線」ってやつを探求してみた。


その制作過程を一挙公開!!


というか2日もかかったので


ここに苦労の制作記録を残しておこうと思い立つ。。





紙1枚目(1/7)。


イノシシを描こうとしたらカバになる。


イノシシをグーグル・イメージで調べて


はじめてイノシシの鼻のかたちを知る。


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紙2枚目(2/7)。


立たせてみたり、座らせてみたりしてみる。


顔の原型が定まる。


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紙3枚目(3/7)。


立たせることにこだわる。が、足がうまく描けない・・(涙)。


諦めて四足にしてみる。


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紙4枚目(4/7)。


立体四足を諦めて、線にする。


風船イノシシ。


これでいいかな~と一瞬おもう。


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紙5枚目(5/7)。


が、今年は線を追究するぜぃという自分縛りを思い出し


新たな探索に出る。


ぼのぼの風をやめてみる。うーむ。。


正面から描いてみる。うーむ。。


鼻まわりのパーツを探索してみる。鼻・口・牙の関係をつかむ。


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紙6枚目(6/7)。


翌日。朝起きて、ふっと楽器を吹かせようと思い立つ。


安直にラッパっぽい楽器を吹かせてみる。いいじゃん!と思う。


周りに踊るイノシシも欲しい!と思い、踊らせてみる。


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紙7枚目。


ラッパ・イノシシだけでいいやと思い、


もう一度描いてみる。が、再現できない・・(涙)。


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・・・という試行錯誤の末、


6枚目のラッパ・イノシシをスキャナーで取り込んで


年賀状に仕立てた。完成!!


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土曜日, 12月 23, 2006

映像詩:海の一日


12月は研究室のゼミで


Xmasスペシャルというイベントがあって


なにかだしものをしなくてはならない。





このくそいそがしい時に・・


と思いながらも現実逃避で


いままで撮った映像を探しはじめたら


去年の夏に研究室旅行で


沖縄の渡嘉敷島にいったときに


撮ってお蔵入りしていた映像を発見する





おもしろい映像を撮りたくて


早朝の海岸を撮ってみたり、


防水したデジカメと


浮き輪とシュノーケルと魚肉ソーセージを装備して


熱帯魚を撮ってみたりしたのだが


今回、唯一つ掘り出し物だと思ったのが


気のすすまないオンゾウに


魚肉ソーセージをあげて


カメラの前を横切ってもらった


この10秒の映像。






D





脱力した感じが生み出すなんともいえない余韻が


波の音と重なって心地よい。











詩は人生を豊かにする(きっと)


そして詩とは映像である(たぶん)





古池や蛙飛び込む水の音





は言葉でありながら日常の


一瞬をとらえたすばらしい映像なのだ、と思う。





映像詩 里山 命めぐる水辺 [HD DVD]


昔、NHKスペシャルの「映像詩 里山 命めぐる水辺」という


すばらしいドキュメンタリー番組を見て


映像が詩になることを知る。





詩になる映像を「映像詩」とよぶ。


この「海の一日」は


さわやかな風がふわっと吹き抜ける一瞬を


とらえた映像詩なのだ!!





・・という苦しい説明を


作品をエンドレスで再生しながら


みんなのまえでしたら


優勝した!うれしいなり。





YouTube:


http://www.youtube.com/watch?v=Xw54ofcNjQE


土曜日, 11月 25, 2006

名探偵・メカ・奇想


ヤフー動画でアニメ「名探偵ホームズ」を見た。


http://streaming.yahoo.co.jp/p/t/00114/v00630/





面白くて、懐かしくて、3話すべてみてしまった。


小学生の頃、早朝に放送していて、朝早起きして見ていたのを思い出した。





記憶の中でエンディングテーマソングのサビの部分の


「24時間あたまのなかでなにかが」


という歌詞がリピート再生されるんだけれどその先がなくて


ずっと気になっていたところ





「24時間あたまのなかでなにかがダンスしている人なんだから」


という歌詞だったことが判明して頭がすっきりした。





「24時間あたまのなかでなにかがダンスしている人」


という言葉に親近感を感じてしまって、いい表現だ・・と思う。。











第三話の監督が宮崎駿だった。





登場するからくりメカを見ていると楽しい。





「想像力に満ちていて、見ているだけで喜びを与えてくれるメカ」


というものがあると思う。





ふと、天空の城ラピュタのキャッチフレーズを思い出した。



機械がまだ機械のたのしさを持っていた時代、科学が必ずしも人を不幸にすることは決まってないころ、そこはまだ世界の主人公は人間だった・・・。






ここでいっている「機械のたのしさ」というのは


きっと宮崎駿の「奇想なイメージをもったメカたち」が


もたらしてくれるもので、


それは名探偵ホームズのなかにも息づいていると思った。











「機械のたのしさ」をもっている作品を思い浮かべてみる。





ラピュタのロボット兵とか乗り物のメカたち


タイムボカンシリーズの毎週変わるロボットたち


ピタゴラスイッチのピタゴラ装置


映画のスチームボーイ


のっぽさんの「できるかな」(ちょっとちがうか・・)





これらは何かこの「機械のたのしさ」を持っている気がする。





あと最近、保坂和志の「小説の誕生」を読んで


レーモン・ルーセルの「ロクス・ソルス」


という小説の存在を知って即買いをしてしまった。


アマゾンの内容の紹介文がすばらしい。






ブルトンが熱讃し、レリスが愛し、フーコーがその謎に魅せられた、言葉の錬金術師レーモン・ルーセル。言語遊戯に基づく独自の創作方法が生み出す驚異のイメージ群は、ひとの想像を超える。―パリ郊外はモンモランシー、天才科学者カントレルの奇想の発明品が並ぶ広大なロクス・ソルス荘へ、いざ、―。





ブルトンが熱讃し、レリスが愛し、フーコーがその謎に魅せられた、言葉の錬金術師ルーセルの代表作。言葉と創造力だけで創られた瞠目の奇想イメージの数々は、ひとの想像を悠に超えてゆく。



早く読んでみたいけど時間がない。。





・・・といろいろ列挙してみて、


最近「奇想イメージ」がもたらす


楽しさとか気持ちよさの構造に興味あり、と思う。


木曜日, 11月 09, 2006

いつもの道を


五反田駅から研究所に向かって歩いていると、


男の人が後ろから小走りで追い抜いていった。





その男は日本代表の青いユニフォームをきていた。


日に焼けた顔、伸びた髪を後ろで結わえて、年齢は30前半ぐらい。


詰まったリュックを背負っていて、


その両脇からビニール袋がぶら下がっている。





小走りにあるきながら、並ぶ自販機の釣り銭口に


ひょいっひょいっと手を突っ込んで釣り銭をチェックしていく。


コンビニ前のゴミ箱の中身も丹念にのぞいていく。





一連の動作がかれの小走りの動作のなかに


なめらかに組み込まれていて


なんだかその道を極めた達人に見えてきて、


面白いと思った。





そうしていたらネットサーフィンで


養老さんと甲野さんの


古武術の発見―日本人にとって「身体」とは何か


という本を発見して、思わず購入。


月曜日, 11月 06, 2006

しあわせのくつ


「しあわせのくつ」という言葉に


20年ぶりぐらいに出会った。





漢字で書くと「幸せの靴」。


「しあわせのくつ」は、ゲーム・ドラクエⅢで出てくるアイテムで



装備すると1歩歩くごとに経験値が1上がる。レベルアップする経験値に達した場合は、次の戦闘に勝利したときにレベルアップする。(しあわせのくつとはより)






たしかバラモンを倒して、アレフガルドに行って


ラスボス・ゾーマに挑戦しようとするぐらいの、


ゲーム終盤で手に入るアイテムだった記憶がある。





歩くだけで経験値がたまっていく様子を見ていると、


たしかになんだかとても幸せな気分になった記憶があって、


その感覚が20年ぶりにふっとよみがえって、


「しあわせのくつ」って


なんて絶妙な言葉の組合せだったんだ!と思う。





このまえの仏像展で見た、


円空の仏像の笑みがつくりだす


雰囲気というか空間についてずっと考えていて、


パンフレットの





「一木にこめられた祈り」





という言葉を見たら、


「祈り」という言葉の意味が、


円空仏の空間にふっとくっついた。





最近、宇多田ヒカルのcolorを聞いて


「黒い服は死者に祈るときだけ着るの」


という歌詞を聞いたときに、


「死者に祈る」という表現が格好いいと思ったんだけど


ふとそういえば意識して死者に祈りを捧げたことってない


ということに気がついて、


「祈る」という言葉の意味が未知化したんだけど、


それがなんかカタチを得た。





それと「恵み」という言葉。


ボスの「科学の恵み」という題の講演を聞いて以来、


「恵み」という言葉にはまっていて、


ネットの恵み、脳科学の恵み、妄想の恵み


とかいろいろ試してみるのだけれど、





あの空間を指し示すのに


「仏教の恵み」という言葉が


なんだとてもしっくりくると思った。





円空仏の笑みは、


仏教の恵みを感じさせてくれる


祈りの空間を生み出している


と思う。





「恵み」という言葉は、なんだか、


暖かな雨が無条件にふりそそぐというイメージがあって、


それによって、生命がぐんぐん成長するというイメージもある。





この


恵みの雨が無条件にふりそそぐ、という感覚は、


じつは


「しあわせのくつ」をはいて


1歩歩くごとに経験値が1上がるときに


味わう感覚と同じものなのではないか


ということにふと気がついて、





「しあわせのくつ」という言葉が与えてくれる


なんだかとてもしあわせな感じは、


じつは


円空仏の笑みがもたらす「恵み」と「祈り」の空間と


同質のものなのかもしれない、と思う。


月曜日, 10月 30, 2006

のど飴


先週の水曜日から風邪を引いて、


今回の風邪は喉にきて、咳が止まらないので


ずっとのど飴をなめてました。


ここ6日間、1日中、ずっと。





気がつくと


コンビニとキオスクに並ぶすべてののど飴を制覇してました。





いつのまにか


お腹のおニクがひとつまみ分、増えたきがします。





そして


左の下の歯が虫歯になりました。





ふと、ぺこちゃんのことが頭をよぎりました。


飴ばかりなめているぺこちゃんの歯は


無事なのか?





・・・・・・・・





工大祭にいきました。


屋台で不思議なマレーシア料理に出会いました。


名をロティジャラというクレープのような料理。


カレー粉をつけてたべます。


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どこか魅惑的な、この色カタチ。





・・・・・・・・





東京国立博物館に仏像を見に行きました。





家に持ち帰って毎日拝みたいと思うような


仏像がたくさんありました。





仏像の笑顔がよかった!





仏教の恵み。





色即是空。空即是色。





仏教のこの徹底した<無>の世界観を受けいれた先に


むかしのひとはこの笑顔にたどりついたのだろうか


と思いました。


月曜日, 10月 23, 2006

夢と妄想と空想のはざまで


ディテールは思い出せないんだけど


強盗系の犯罪をして、場所を転々としながら


逃走する夢をみた。


なんだか夢全体がとても息苦しい感情に支配されていて、


そうしたら、朝起きたら気分がとてもブルーだった。


しかし、しばらくして、


逃走犯になったならば抱くであろう感情を


virtual realityの中で


生まれてはじめて体験したことに気が付いて、


なんだかとても新鮮な気分になる。








ここ一週間ぐらい、ずっと


頭が自動発散モードで、妄想が止まらない・・。


いままではこの状態を楽しんでいたんだけれど、


最近、これは病的だなと思いはじめてきて、


ふと、このような発散した事態を収束させることが


できる人こそ真のプロフェッショナルなのではないか?


ということに気がつく。








それはそうとして、


今日は、post mixiのアイディアを思いついた。。





CNETで江島健太郎さんが、ウェブの展望を語っていて






Web 2.0の挑戦者:超軽快なウェブチャットLingr


 ウェブは実世界に近いものになってきています。これは文字通りの意味です。


 われわれは、ウェブがリアルタイムなものに変わっていくという展望を持っています。実世界と同じように、仮想空間の中を動き回ると、そこでは生放送のブログや絵を描くライブパフォーマンス、ジャムセッションなどが見られ、拍手のような観衆からの反応もリアルタイムに伝わる--そんなことが未来には可能になるだろうというのが、われわれの夢です。






と書いてあるのを読んで、


自分もこの方向は正しいと(今日)思った!





数年前、Nintendo64用に開発されていた


Mother3というゲームは、


プレーヤーのアクションによって


物語を自在に分岐させていくという野心的な計画


をもっていたんだけど、


作り込まなくてはならない物語の数が爆発的に


増えてしまって開発中止になった。





閉じたシステムのなかで、


無限に展開していく物語をつくるのは、


クリエーターが物語を作り込まなくてはいけなくて、


工程数の爆発が起きてしまいとても難しい。





でも、ゲームという視点からみると、


mixiは、実は、


クリエーターが作りこむことなしに、


ネットという開いたシステムの性質を利用して


自然に人と人の出会いやコミュニケーションが


生成されつづける、初めての


「終わりのないゲーム」とみなせるのではないか?





仮想空間で閉じていたゲームが、いつのまにか


現実のエンドレスな世界に接続してしまっている。





開いたシステムであるウェブが


どんどんリアル・現実に近づくということ





問題はその先になにがあるのか?ということで、





その先を





脳科学×コミュニケーション×物語×遊び





の視点で眺めると、なんだかたくさんの


おもしろい切り口があるきがする!!


金曜日, 10月 20, 2006

チンパンジーのはなし


よくあることなんだけれど、


オマケイと電車のなかで


ヒトの道徳の起源について


性善説 vs 性悪説の議論になって、


気になって今年の1月に読んだ


フランス・ドゥ・ヴァールの「あなたのなかのサル


を読みなおしてみた。





霊長類研究者の間では、「今夜はボノボするぜ」である意味が通じるらしい





というような、どうしょうもない記憶しか思い出せなかったんだけれど、


読み直してみたら、いろいろ再発見があっておもしろかった。





去年、


奥田英朗という作家のインタビューが新聞に載っていて、





あふれる寸前のコップの水に一滴垂らしたとたん、どっと水がこぼれるような瞬間を描きたい





という言葉が妙に印象的で、心のなかに残っていたんだけれど、


それに相当するような話を見つけた!(気がする。)





クロムというメスのチンパンジーが


ローシュという赤ちゃんを産んだんだけれど、


クロムは耳が聞こえないので、


メスのチンパンジーのカイフに代わりに育ててもらうことにした、


という話で、長いけど以下抜粋。



・・・カイフは養母の条件にぴったりだった。彼女は自分の子どもを母乳不足で死なせた経験があるし、当面ローシェと競合する実の子もいない。それにカイフは、赤ん坊に並々ならぬ興味を持っていた。クロムが赤ん坊の叫び声に気づかないとき、カイフもいっしょに声を出した場面を私たちは何度か目撃している。


 カイフはわが子が死ぬたびに、激しくふさぎこんだ。食べ物を受けつけず、悲痛な声をあげる。身体をずっと揺らしたり、自分の身体を強くつかむといった行動も見られた。哺乳瓶を使う練習をはじめたとき、カイフは赤ん坊を抱きたくてしかたなかったが、私たちはけっして彼女とローシュを接触させなかった。練習中、カイフは不満だらけだったはずだ。哺乳瓶から自分が飲むことは許されず、私たちが抱いたローシュに、ケージの向こうからミルクを飲ませなくてはならないからだ。それでも数週間の訓練で、カイフは哺乳瓶扱いがとても上手になった。私たちは次の段階に進み、カイフの夜用ケージに敷いたわらの上に、手足をばたばたさせるローシュを寝かせてみた。最初のうち、カイフはローシュの顔をのぞきこむだけで、手を触れようとしない。赤ん坊は私たちのものだという認識なのだ。チンパンジーにとって、ほかの誰かの赤ん坊に許可なくさわるのは、好ましくない行いだ。飼育係と私はケージのすぐ外で、座って様子を見守っていた。こちらに近づいてきたカイフは、ケージ越しに私たちにキスをし、ローシュと私たちを交互に見た。まるで許しを求めているようだ。私たちは「ほら、赤ん坊を抱いてごらん!」と言いながら、手を振ってローシュのほうを示した。ようやくカイフは赤ん坊を抱きあげた。その瞬間から、カイフは子どもを守り、いつくしむ理想的な母親になり、こちらの期待したとおりにローシュの子育てをしてくれた。


・・・ローシェを養子に迎えてから、カイフと私の関係に変化が起こった。私に感謝の念が向けられるようになったのだ。それまでカイフと私はつかずはなれずの付きあいだったのに、ローシュの一件以来、カイフは私の顔を見るたびに、ありったけの愛情を浴びせるようになった。それは、30年近くたったいまもまったく変わらない。カイフは、久しく会わなかった家族を迎えるように私の両手を掘りしめ、私がその場を去ろうとすると、泣きそうな声をあげる。こんな風に接してくるチンパンジーは、この世でカイフだけだ。カイフは哺乳瓶を使う訓練を受けたおかげで、ローシュだけでなく、実の子どもたちも無事に育てることができた。何年たっても、彼女はそのことをけっして忘れない。



本では、動物は感謝をするのか?という話題の中での


エピソードなんだけれど、


帰りの電車のなかでここを読んでいたら、


「その瞬間から、カイフは子どもを守り、いつくしむ理想的な母親になり・・・」


というくだりが、なんだか奥田英朗さんの


「どっと水がこぼれるような瞬間」に感じられて、


最近涙もろいのか、目頭が熱くなった。


チンパンジーなのに泣かせてくれるぜ、と思ふ。


月曜日, 9月 18, 2006

未来思考


ある日、


ヒトを幸せにする脳科学をやりたい


とオマケイにいったら、


「お~い、(現実世界に)戻ってこ~い」


と言われた。





オンゾウに同じことをいったら、


「まずあなたが幸せになりなさい」


と言われる。うっ。





最近、脳の計測技術が、いうなれば、


fMRI1.0がfMRI2.0になりつつあって、


サイボーグ技術とか、ウソ発見機とか、想起している記憶を当てるとか、


さまざまな「心を読む(マインド・リーディング)」研究が


立ち上がりつつある。





脳がなにを表象しているかをリアルタイムで当てることが


できるということは、科学の視点でみると、


とてもエキサイティングなんだけれど、





「マインド・リーディング」の技術がもたらすであろう、


社会への影響についても、倫理の視点から議論が始まっていて、


それらが描いている未来は、心を読めてしまうと、


プライバシーがなくなるとかなんとかで、とても暗い・・。





「マインド・リーディング」の社会的応用で


すぐ思いつくのは「ニューロ・マーケッティッグ」で、


資本主義→商品を買ってほしい→広告を見て欲しい→商品を見て脳がどう感じるか知りたい


というニーズによって、お金には困らない研究領域になると期待される。





でも、おもいっきりお金のサイクルに取り込まれてしまっていて、


なんだか違うんだよなーという思いがあって、


最近よく、ヒトを幸せにする脳科学について考える。


脳科学がうみだす「幸せ2.0」の可能性の問題。


他者を幸せにすることによってこそ、自分も幸せになれるのではないか?


の問題でもある。





そんなことを考えていたら、


ゲームクリエイターの水口さんがブログで、


ゲームを肯定的に語っているのを読んで、


おおお!と思う。



水口哲也の地球万華鏡:紅茶の国からコネクト 英国


 ゲームの面白さとは、人間が持っている本能や潜在欲求をどう再デザインするかということだ。面白いゲームは世界中の人とつながれる。面白いゲームは世界中の共通体験となる。(中略)何か事件が起こると、よくビデオゲームが攻撃される。(中略)だけどちょっと待て。もしその人間の欲求や本能のポジティブな部分を使ってデザインすれば、ゲームはポジティブな力を持ち得るのではないか?というのが、僕の制作者としての信念だ。もし、パレスチナ人の子供と、イスラエル人のおじいちゃんがゲームで対戦したとする。面白さにハマっているときの表情は、たぶん2人とも同じように無邪気なはずだ。面白いゲームは、人を無防備の状態にする「力」がある。このゲームの「力」をポジティブな方向に使えないだろうか。文化や思想や、先入観や人種的偏見を超えて、つながる本能。面白さの中で、ハイブリッドのように溶け合っていく意識。ゲームで人に力を与えることができないものか。そんなことを夢見て僕はいまだゲーム制作の仕事をやめられない。






ゲームの「面白さ」を言語化していて、かつ社会的な視点からみて、


ゲームがヒトを幸せにする可能性について言及されていて、


ゲームを肯定しているところが、なんだかとてもグッときて、


これだ!!と思う。





脳科学の「面白さ」を言語化し、肯定する道筋を見つけよう、


と想う。


木曜日, 9月 07, 2006

心理テスト


オマケイにおもしろい心理テストを教えてもらった。





みなさま、紙と鉛筆を用意して、下の図を注目してくださいませ。(所要時間、約5分)





f:id:toooru:20060908002044j:image:w350





Step1


形容詞を思いつくままに10コ列挙する。


Step2


形容詞を上から2コずつ見て、そこから連想される名詞を書く。


Step3


名詞を上から2コずつ見て、そこから連想される名詞を書く。最後の1コは残しておく。


Step4


2コの名詞を見て、連想される名詞を書く。


Step5


最後に、Step4の名詞と、Step3の余りの名詞から連想される名詞を書いたら終了~。






































みなさま、できましたか?























最後の名詞が意味するところは。。。














































































































ありがちだけれど。。。
















































































































































































あなたが心のなかでほっしているもの!!です。

















自分でやってみたところ、こうなった。





きれいな    女性   恋人    シンデレラ   グリム童話!!


美しい


すばらしい   男性


優れた


きたない    こじき  魔法使い  


みずぼらしい


青い      カエル


温かい


明るい     小人


小さい








最近、脳と物語についていろいろ考えていたので、「おおお!」と思う。


なんだか当たってるかも・・。


というか、人間の連想力ってすごい!





研究室の人々の結果も面白かった。





オマケイ  大人のオ○チャ


オンゾウ  宇宙


セキネ   紅茶


ノザワ   塩素





オマケイは、いかにもオマケイのアタマの中にありそうなぶつで、


オンゾウは、期待を裏切らず、異次元に飛んでしまっていて、


セキネは、その平凡さが、いかにもいかにも、という感じで、


ノザワは、意味不明なところがいい味をだしていて、





深層心理が出てるっぽい!!と思う。


それにしても、一体どうやれば宇宙にたどりつくんだ・・(笑)


金曜日, 9月 01, 2006

Back to Blogger

Bloggerが、Blogger betaにversion-upして、
高頻度でパーマリンク(1日ごとの日記のページ)の生成に失敗する、
という、気になるバグが改善されていたので、
「はてな」から戻ってみる。
From:
http://d.hatena.ne.jp/toooru/

試しに「はてな」の4月から8月分の日記を移植。
たった13日分しかなかった。。

水曜日, 8月 30, 2006

明日の神話


汐留に、岡本太郎の「明日の神話」を見に行った。

月曜日, 8月 28, 2006

ネコとバッタ


部屋の窓を開けたら、屋根の上に猫が座ってた。
二十年以上住んでるけれど、生まれて初めて見る風景。
ブロック塀からハイ・ジャンプして、
屋根に飛び登ろうと思いついた、この猫はえらいと思う。


小田急線。窓の外側にバッタがいた。
電車に乗り始めて二十年はたってると思うけれど、
これも生まれて初めて見る風景。
電車と電車のすれ違いざまに生じる衝撃波にもびくともせずに、
はりついている。
だんだんバッタが、映画『ミッション:インポッシブル』のラスト、
フランス新幹線TGVの上にはりついているトムクルーズに見えてきて、
バッタ、すごい!と思う。

火曜日, 8月 22, 2006

スーパーにわとり

若冲展をみに上野へいく。
平日だけど、とても混でた。

「鳥獣花木図屏風」を3年ぶりぐらいにみる。
いつみてもポップな感じがする。

家に昔ハピネス展で買った「鳥獣花木図屏風」の
巨大ポスターが貼ってあって、
毎日見ているせいか、
今回はニワトリたちに目がいく。

若冲の描く生き物は、生命の「存在」に触れている、とよくいうけれど、
若冲のニワトリが、
小学校の飼育委員で毎朝世話してたニワトリよりも、
「ニワトリ」に見えるこの感じはなんなんだろう?

ラマチャンドランが「脳のなかの幽霊、ふたたび」で、
セグロカモメのヒナは、
親鳥の黄色のくちばしの先についている赤い斑点に反応して、
餌くれとつつくんだけれど、
全然くちばしに似てない、
赤色の線を3本引いた黄色の棒をヒナに見せたところ、
本物のくちばし以上にヒナはそれをつっついた!!
という話を紹介していて、
それを、くちばしを超えたくちばしという意味で、
「スーパーくちばし」と呼んでいた。

セグロカモメのヒナにとっては、赤色の3本線つきの黄色の棒が、
「スーパーくちばし」
であったように、
ヒトの脳にとって、若冲の描いたニワトリは、
「スーパーにわとり」
なのだろうか?

「紅白梅図屏風」に意図せずに足がとまった。



ありえない数の白色の梅の花が、屏風一面に咲き乱れていて、
それらが、あさ日から夕日までをイメージした1日の光の変化に
合わせて、いろいろな表情をみせる。

説明文には、作者不詳で、春の歓びをあらわしている、とかいてあった。

思考とは関係なしに、目が喜んでいる、という感じがして面白かった。
見ていると心が動かされて、それでずっと見入ってしまう感じ。

ふと、この感覚を絵なしで言葉だけで伝えることはできるのだろうか?
と思う。

屏風一杯に咲き乱れるように分布する白い梅の花のパターンが
脳に入力されると、 圧倒的な並列性をもった視覚システムは、
「花」という認識を成立させるほかに、 屏風のグローバルな
パターンから、 ある未知の抽象的なパターンも抽出している。
その未知の抽象的なパターンは、快感を引き起こす情動システムに
直結していて、 その結果、脳はそれを見ているだけで
「嬉しい」という感覚を引き起こす・・・

と脳科学的に表現してみても、きっとなにも伝わっていなくて、

問題は、
絵の「パターン」をどうすれば視覚的に描写できるのか?
それによって、読む人の脳にも、
その「未知の抽象的なパターン」なるものを引き起こすことはできるのか?
がポイントで、

これを、「目の喜びを言葉で伝える問題」と名付けよう。

木曜日, 8月 10, 2006

EEG

研究所にEEGがきた。脳波を測る装置。

今日が誕生日のヘライの頭に、みんなでよってたかって、
電極がついたネットをかぶせる練習をする。


このネット、これだけで40万する品で、
腫れ物を触るようで、練習する手が震えた。

一瞬、ヘライがジダンに見えて、
一瞬、タナベが竹○結子に見えて、
一瞬、セキネの落書きミッキーマウスがゾウシに見えた。

暑さのせいでfusiform gyrus(脳の顔認識をしている領野)
が過剰活動している可能性アリ。

なにはともあれ、これでなにができるかなーと
考えるだけで胸がワクワクする!!

日曜日, 7月 16, 2006

夢の思考

夢をみた。
中学時代の部活のハンドボールの練習の夢。
中学校のグランドでひとが全然いないから、
きっと日曜練習のワンシーンで、
メニューは3対3の試合形式。
おれのポジションはキーパーで
部長ふゆかわ君が速攻、6mラインからジャンプシュートをうってくる。
キーパー反応して、左に横っ飛び~~左足でセーブ!!
したところで目が覚める。

とっくの昔に忘れていた感覚が鮮やかによみがえって、
目が覚めたらなんだかとても心地よかった。

夢は情報を整理する働きがあるというけれど、
なんで、夢をよく見る人と見ない人がいるのか?
という疑問をずっともっていて、
論文を書いていて、行き詰まって、気紛れに
河合隼雄さんの「人の心はどこまでわかるか」をめくっていたら
偶然、それについての記述があった!!(以下抜粋)

 外向的に忙しく働いている人は、夢を見ないのではなく、あまり夢を覚えてないということです。それは、夢をすべて覚えたりしていたのでは、ほかのことができなくなってしまうからです。外でバリバリやっている人の夢には、その人の盲点とか裏側が出てきますから、それをいちいち覚えていて、あれこれ考えていたら日常生活ができなくなります。そこで心のはたらきとして、そういうのをほとんど忘れてしまうわけです。だから、これはむしろ当たり前と言っていいでしょう。

 それから、このごろ私はよく考えるのですが、どうも人間には内側を見るほうが好きな人と、外を見るのが好きな人とがいるような気がします。自分の内側を見る傾向がある人は夢で考えるし、自分の視点が外の世界に向いている人は、現実の中で考えるということではないでしょうか。したがって、夢を見るかどうかということを、それほど深く考える必要はないのではないかという気がします。

夢で考える、という表現がいいと思う。夢の思考。

羽生さんは、夢をあまり見ないらしい。
将棋も夢には出てこないらしい。
ボスの説では、起きているときに情報の整理を一生懸命しているから、
夢のなかで整理する必要がないのではないか、と言っていたけれど、
たしかにそうなのかしれない。
羽生さんにとって将棋は「外側」にある、ものであって、
その整理に「夢の思考」は必要ない、
ということなのかもしれない。

最近、夢をよく見るようになった。
それは、脳に「夢の思考」が必要になっている、
ということなのだろうか?
何でなのか考えよう。

月曜日, 7月 03, 2006

aha addiction

ひさしぶりの日記。気がついたら1ヶ月以上たっている。

土曜日のブラジルvsフランス戦をみたら、
睡眠サイクルがずれてしまって昼間が眠い。
論文のリバイスがきて、あと二週間以内に修正する必要あり。
6月のあたまに、脳の創造性に関するひらめきがあって、
ここ半年間考えていたことがすべてつながるではないか!
ということに気がついて、
頭が躁状態になる。

この脳の状態は、

創造性について考えている脳は果たして創造的といえるのか?
という自己矛盾な問題をかかえているけれど、
そういうことは気にせずに、
とにかく、日々さまざまなアイデア(というか妄想)が湧いてきて、
ある日、はっと思いついたことを道ばたで携帯にメモしていたら、
オンゾーに目撃されて、向こうの世界にいってしまった人、とか、
思想を打ち込んでる危ない人とか散々な言われようで、
これに近い症状についていくつか心当たりがある・・と思う。

側頭葉人格とか、過剰書字とか、なんとか依存症。

たぶん、過剰書字にちかい気がする。
つらい現実から身を守るために、
脳が生みだす過剰な生成の働き。

ひらめきはaddictionの効果があると思う。
ひらめきが連続してうまれる状態は、
例えるなら、ぷよぷよ連鎖がずっと続くようなイメージで、
その間、持続的に脳内報酬がでる。

それがとまらない状態を、
勝手に「aha addiction」と名付けよう。

月曜日, 5月 29, 2006

田舎

ばあちゃんが亡くなって仙台にいった。
正月頃から腰が痛いといっていて、骨粗鬆症かと思って
治療しても、直らなくて、5月になって、実はガンだとわかって、
気がついたときには、すでに骨髄に転移してしまっていて、
あっという間に亡くなった。

小学生の頃、夏休みは仙台に帰るのが楽しみで楽しみで
しょうがなかった。家が農家をしていて、
おじいちゃんが生きていた頃は、朝早く起きて、
トオモロコシを巨大ミキサー機械で切り刻んで、それに黄粉と砂糖を
まぶしたエサを牛にあげたり、トラクターの荷台にのっかって、
草を刈ってつむのを手伝ったり、夜になると、
田んぼに蛍を捕まえに行って、
長ネギのなかに閉じこめて寝るときに眺めていた。

葬儀で、ばあちゃんの弟さんとおじいちゃんの弟さんが
弔辞をはなしていて、おじいちゃんは、東大を出ているのだけれど、
戦争から帰ってきてから、ホワイトカラーにはならず、
仙台の荒れ地を開墾しはじめた。かなりの頑固者だったらしく、
周りの人は一年でやめるだろう、二年でやめるだろう、
と思っていたけれど、
じいちゃんは、やり続けて、
広大な土地を切り開いて、そこで農業を一生つづけた。

ばあちゃんのお兄さんが、おじいちゃんと友人で、
戦争から帰ってきたら、妹を嫁にもらってけろ、
という約束をしていたらしく、ばあちゃんは、
お嬢様育ちだったらしいのだけれど、開墾中のじいちゃんの
ほったて小屋に嫁いできたらしい。
「大草原の小さな家」なみの苦労の連続だったはずなんだけれど、
そんな環境でも、娘4人を立派に育てたのだから偉いと思う。

葬儀が終わって、お骨もって、
久しぶりに田舎の家にいった。
古びた家と広大な畑、
自然に囲まれた田舎が生みだす特有の匂い、
そして思い出が構成する、
独特な「田舎クオリア」というものがあって、
思い出を確かめるように、家や畑を歩き回る。

高校生の頃、おじいちゃんが亡くなって、
家族で帰郷することもなくなって、
1人で、ばあちゃんの家に泊まりに帰るということも
まったくせず、でも、田舎はずっと存在していると
感じていたんだけれど、

歩き回るうちに、ふと、
この何とも言えない、懐かしくて愛着に満ちた空間は、
実は、この土地と、そこにおばあちゃんが生きている
ということによって、支えられていて、
それは、有限な時間においてのみ存在する有限な空間であって、
おばあちゃんが亡くなれば、消えていってしまうものであることに
気がついた。

なんで、おばあちゃんが生きているときに、もっと
この空間を味わいに来なかったんだろう!!と
思ったら、なんだか急にとても悲しくなった。

孝行したい時には親はなし、とはこのことなんだなぁと思ふ。