土曜日, 1月 05, 2008

勝間和代 お金は銀行に預けるな


正月に読んだ四冊の本の感想文。


まず一冊目。





勝間和代 お金は銀行に預けるな





われわれの世代は年金をもらえないらしい。





年金の給付開始が70歳まで延びる?


http://www.nikkeibp.co.jp/sj/2/column/o/110/index2.html


年金は新制度を立ち上げるしかない


http://www.nikkeibp.co.jp/sj/2/column/a/102/





この真偽はいろいろ議論があるのだと思うけれど


直感的にはおれももらえないと思う。


なので自衛しなくてはならない、


という問題意識があって読む。





いままで金融の本を数冊読んだけれど


この本は一番わかりやすい。そしてウェブ進化論を読んだときと


同じようななにか世界が開かれる感覚がある。





ここ数年、長時間労働が問題になっていて


グローバル化とはなんなのか?資本主義とはなんなのか?


お金とはなんなのか?という問題意識があったけれど


お金とは勝手に増えるもの、お金って小人だったんだ!


というのがこの本の一番のきづき。





おれなりの理解だとグローバル化とは


ひとりひとりが資本家・投資家になって


世界を見渡して成長している地域・分野・ものに


お金を投資するということだ。


日本という局所的な部分だけを見ていると


どんどんやせ細っていくようにみえるけれど


世界全体をみると、どんどん太っている場所があって


グローバル化は、その太っている部分に


だれでも投資しリターンを得ることを


可能にするシステムであるということだ。


だから国内がもう成長しないならば


世界を見渡して成長している地域に投資すればいい。





お金がすべてという価値観に染まってしまうのが市場主義の弊害で


働く側から見ればお金がすべてってどういうことよ?って思うけれど


逆に立場を変えて投資する側の視点に立てばリターンをよこせ!


ってことになって、そうしたストレスと欲望が複雑に絡み合いながら


世界中を覆いつくしているのがグローバル化で、


だからストレスだけでなく、投資に対するリターンというメリットを


享受してはじめてグローバル化の恩恵を受けることができる





勝間さんによると年間リターンで10%はものすごく高くて、


5%いけば上出来らしい。


この前に読んだ


大前研一 マネーハザード金言集


によると、週に半日ぐらいの時間を投資して


勉強すれば10%はいくという。


勉強するには時間がかかるけれど弱者が


資本主義のなかを生きていくうえでは必須の知識だと思う。





そして、これ。






高城剛 「ひきこもり国家」日本


p145


人間がお金を使う対象はサービスやモノの購入にあるが、増殖され続けるお金はやがてサービスやモノの絶対量を超えていく。そうすると、売買する対象に自然が加わることになり、環境を浸食していくようになるのだ。・・・極論を言えば、現在の資本主義と環境の保全はまったく矛盾している。






いまの金融資本主義というシステムでは


お金は増え続けるものなんだけれど


いずれ資源が枯渇するから修正を余儀なくされる。


成長は物質的豊かさをもたらし世界のどこかが成長しているから


リターンがあるわけだけれど、いまの環境問題の本質は、


成長自体が環境を破壊する原因になっているということ。


そしてエネルギーの供給がなくなれば成長は止まる。


だからおれが年金をもらうころ(30年後ぐらい?)には


世界の金融システムはたぶんいまとは異なる姿をしているはずで


そのとき金融資本主義によって年金システムが支えつづけていられるのかは


なんだかグレーゾーンだと直感的には思う。


われわれは、変化につぐ変化の忙しい時代を生きていかねばならないわけだ。





四冊分の感想文を書こうと思ったんだけれど


長くなってしまったのでつづきはまたこんど。


火曜日, 1月 01, 2008

flying rat


あけましておめでとうございます。

今年もよろしくお願いします。

年賀状、今年は浮遊感のあるネズミってやつを追求して

去年と同じく、ムダに下絵をたくさん描いた。

白い紙の上に、自分のイメージをかたちにしていくプロセスが

面白くて元旦をつぶす。

というわけでこれが完成形の"flying rat"。

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おまけで今年も進化の様子を大公開!

メイキングっておもしろい!と思う。

1/10.左上の絵が一番初めの絵

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2/10.迷走中

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3/10.ネズミの鼻まわりの形を理解する。

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4/10.上を向いている顔が徐々にできてくる。

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5/10.顔がアトラクターに落ち込む。

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6/10.胴体を探索する。

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7/10.胴体を探索する(その2)。

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8/10.揺らぎ。口を開けたくなる。胴体が完成。

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9/10.手足の探索。

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10/10.すべて完成。

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リンク:

2007年の年賀状

http://d.hatena.ne.jp/toooru/20070107

2006年の年賀状

http://i-mind.blogspot.com/2006/01/blog-post_02.html

月曜日, 12月 31, 2007

一年を振り返って。


今年は一年が過ぎるのがとても速かった。

ぞっとするほど速かった気がする。

書きたいことはいろいろあったきがするけれど

書きたい衝動があったときに書かないとだめなことばかりで

それでも今年一年間を振り返ってみると

思考という名のオーケストラのなかで

通奏低音のようにずっとなっていたのが「価値」の問題。


価値とは相対的なもの。

そして人は成長の過程で特定の価値観を

意識的・無意識的に取り込んで

その価値観によりそって生きていく。

それで、自分の脳はいま

3つの価値観に反応していると思う。


1社会的価値観

お金とか社会的地位によって測られる価値


2業界的価値観

研究者ならば論文の数(インパクトファクターが高ければなおよし)

によって測られる価値

3真理的価値観

生命とは何か、意識とは何か、世界と何か、人間とは何か・・

などなどのいわゆるハードプロブレムに対する

貢献度によって測られる価値


この3つの価値を共存させること

そうするにはどうすればいいのか?がいまの自分にとって最大の問いで

3→2→1の順番でことが進むのが

一番自然なvalue chainだと思い

あたまをずっとフル回転させているわけれだけれど

どうもずっと空回りしているっぽい。

一方では、ある敷居値を超えれば相転移のごとく

一気に何かが進展するような気もするのだけれど

日の目をみるときはくるんですかね。



というわけで

どん底のときに思い出したい3つの言葉を書いて

2007年をおわる。


1どん底に落ちて八方塞がりになったら「底を掘れ!」 by 養老孟司

養老孟司 玄侑宗久 脳と魂


養老 その場その場で、それなりに満足してるっていうことですよ。まさに成就したんですかねえ。まあ、ダメならダメで「しょうがねえや、それで」って開き直れるんですよ。そういう生き方したほうが楽なのになあと思うんだけど、やっぱり多くの人は、「こうしたらああなる」「ああすればこうなる」で自分を窮屈にしてるんだ。だからね、どん底に落ちて八方塞がりになったら、「底を掘れ!」っていうのが大好きなんです。どん底に落ちたら、そこから先は上がる一方だなんて甘いこと言うんじゃねえ。「掘れ!」ってね。


2「自分の心細さとか不安だけを信じる」 by 保坂和志  

http://122.200.201.84/interview/archives/no136.html


3「バラバラの点であっても将来それが何らかのかたちで必ず繋がっていくと信じなくてはならない」 by スティーブ・ジョブス

スティーブ・ジョブス氏のスタンフォード大学卒業祝賀スピーチ

http://sago.livedoor.biz/archives/50251034.html

 もちろん大学にいた頃の私には、まだそんな先々のことまで読んで点と点を繋げてみることなんてできませんでしたよ。だけど10年後振り返ってみると、これほどまたハッキリクッキリ見えることもないわけで、そこなんだよね。もう一度言います。未来に先回りして点と点を繋げて見ることはできない、君たちにできるのは過去を振り返って繋げることだけなんだ。だからこそバラバラの点であっても将来それが何らかのかたちで必ず繋がっていくと信じなくてはならない。自分の根性、運命、人生、カルマ…何でもいい、とにかく信じること。点と点が自分の歩んでいく道の途上のどこかで必ずひとつに繋がっていく、そう信じることで君たちは確信を持って己の心の赴くまま生きていくことができる。結果、人と違う道を行くことになってもそれは同じ。信じることで全てのことは、間違いなく変わるんです。



月曜日, 12月 24, 2007

クリスマススペシャル覚え書き


先週の水曜日に研究室恒例のクリスマススペシャルがあって

今年のiPod touchは石川がさらっていった。

今年の石川の優勝作品はこれ。

Radical Qualia Fundamentalism

http://jp.youtube.com/watch?v=BKqWZXqrWAk


6年も参加してはっきりみえた法則は

同じことをしても勝てない

ということで、これは

マンネリ化すると飽きられるという

エンターテイメントの本質に由来することなのか

それとも毎年、若い人がそれまでになかったことに

挑戦するからなのかはわからないけれど

景品がいいから、モチベーションが喚起され

みなそれなりの脳力を投資してくるがゆえに

新陳代謝が生まれているという面はあると思う。


もうひとつわかっている法則は

投資した作業時間と作品のインパクトは比例しない

ということなんだけれど

これがなぜなのかはなかなか深い問題だと思う。

映画だってお金がかかっていても

おもいっきり駄作であることはよくあることで

エンターテイメント、おそるべし、だと思う。


ことしの作品はこれ。

interface


D

今までを振り返って思うことは、自分は

見ていて気持ちのいい動画とはどういうものなのか

ということに興味があって

これはもうアニメとかゲームの世界ではずっとずっと

追求されていることで

そして最近では、WiiとかiPhoneみたいに

より直感的な運動が織り込まれた

映像の気持ち良さというのが追求されている。


アニメは、かっこよくて思わず何度も見てしまう

シーンというのがあって

それは自分ではビジュアルドラッグだと思ってるんだけど

もしそのときの脳活動をはかることができれば

きっと、脳の報酬系が活動していると思われる。


そしてビジュアルドラッグたらしめている

理由というのを考えてみると

アニメは、中抜きという技術があって

実写ではありえないフレームとフレームのつながりが

アニメだと自由につくることができるから

映画だってフレームを切り張りすれば

現実にはありえない動きをつくれるのだろうけれど

アニメは脳内イメージをダイレクトに

絵にしていくというのが基本なので

(作画力さえあれば)どんな脳内イメージも

表現できるがゆえに、アニメは脳内にある

動きと脳内報酬を関係づける抽象的な

刺激-報酬のパラメーター空間を

なによりも自由に探索できる表現形態なのではないかと思う。

ゲームやパソコンのインターフェースは

そこに運動が加わってインタラクティブになるので

要素は増えているけれど、刺激-報酬の抽象的な

パラメーター空間を自由に探索できるという意味では

アニメと同じだと思う。


それで前置きが長くなったわけだけど

今年はいままでつくってきた動画たちをリミックスして

なんか見ていて楽しい、という映像を追求してみた。

個人的にパソコンのインターフェースは

思考における概念の運動に似てくるほど

脳は気持ちよく感じるという仮説があって

ようは夢みたいにほんらいつながりようのない

イベントがどんどんつながっていくというのが

究極のインターフェースになると思っていて

そんなようなものをイメージして

試行錯誤しながら動画を切り貼りしているうちに

いつのまにか上のような動画になったわけだ。

過去の作品の一覧:

2004: wherever window

http://i-mind.blogspot.com/2004_12_01_i-mind_archive.html#110380647167946948

http://jp.youtube.com/watch?v=OFF-pz-iHlY


2005: aha rat

http://i-mind.blogspot.com/2005_12_01_i-mind_archive.html#113501026848337663

http://jp.youtube.com/watch?v=AnKLmYWciVI


2006: 映像詩:海の一日

http://d.hatena.ne.jp/toooru/20061223

http://jp.youtube.com/watch?v=Xw54ofcNjQE:movie


水曜日, 12月 05, 2007

批評の脳活動


連続投稿のテスト


Di Dio C, Macaluso E, Rizzolatti G.

The golden beauty: brain response to classical and renaissance sculptures.

PLoS ONE. 2007 Nov 21;2(11):e1201.

をよむ。

著者たちは被験者に

もとは黄金比の彫刻のプロポーションをいろいろ変えた写真を

見てもらうことで客観的な美のパラメーターを、

実験条件で、美しいか醜いかを判断してもらう審美条件で

主観的な美のパラメーターをコントロールしている。

勝手な推測で、reverse enginering的な分析をすると

著者たちのいちばんのひらめきは

彫刻の黄金比を変えれば、客観的な美というものを

科学的に扱うことができるということに

気づいたことではないだろうか?

黄金比に着目することで、

単一のパラメーターで美をコントロールすることができる。

主な結果は

黄金比の彫刻とそうでない彫刻をみているときの脳活動の差が

客観的な美を感じているときの脳活動で

そのときは、さまざまな脳部位とともに右の島という脳部位が活動していた。

島は"feeling of emotion"、すなわち

感情を感じているときに活動することがいままでに知られている。

一方、審美的な判断をしているときは

ただ見ているときと比較すると、右の扁桃核が活動していて、

これはそれまでの経験によって形成された自分なりの価値を

計算していると考えられる。


もっとわかりやすい解説はここを参照のこと。

「美には生物学的な根拠」彫刻作品と脳の働きを実験

http://wiredvision.jp/news/200711/2007112623.html


個人的に面白いと思ったのは

ただ美術館に行ったつもりで"simply enjoy"な気分で見てもらうモードのときと

審美的な判断をしてもらうというモードでは

脳の活動のモードが異なるところ。

この結果は

作品をただ鑑賞するのと

批評を書くことを念頭において作品を鑑賞するのとでは

脳のモードが異なるという問題につながるのではないかと思った。

自分のことなんだけれど

自分がすきな作品は、自分のなかで理由なんか見つけなくても

好きだと確信できるけれどそれを他人にも共有してもらおうとして

その作品について批評しようとすると

途端に難しくなると最近感じている。

なにがいいのかを説明するのは結構難しい。

むかしゲームの雑誌でこんなインタビューが載っていた。


ー任天堂が任天堂であるところは「遊ぶ人はどう思うんだろう」って一歩突き進んで考えるところだと思うんです。

出石 できたものにケチつけることは誰でもできるんです。じゃあ、面白くするにはどうしたらいいって考えた時にちゃんと指示できる人は任天堂でも数えるほどしかいない。ユーザーさんは”クソゲー”って投げてもいいんですよ。でも僕らはこれでお給料貰っている訳ですから、商品に仕上げなければいけない。今まで自分が培ってきたもので、誰でも一本はソフト作れると思います。何人かにはウケるかも知れないけれど、ミリオン続けようとしたら、それは特別な人です。ダメだったらどうすればいいって言える人は少ないです。そのトップは宮本でしょう。あの人は理論家っていうか、何で面白いかを説明できるんですよね。いかなる理由で面白いのか、どうすれば面白くなるのかを。

ーそれは素質なんですか環境なんですか。

出石 環境もあるでしょうが、素質プラス努力かなぁ。センスとか感性とか鍛える事が難しいものも必要ですが、それに加えて、宮本はいつも一生懸命考えています。どういう風にして自分のもっているモノ、考えている事をみんなに伝えようかと。

「ダメだったらどうすればいいって言える人は少ない」

「何で面白いかを説明できるんですよね。」

「いかなる理由で面白いのか、どうすれば面白くなるのか」

というところがグッときて、

良いモノのどこがいいのか言えること、と

悪いモノのどこを直せば良くなるか言えること

は同じ能力なんだ!と思った。

そして良いところを言語化するというのは

自分が好きな異性のどこが好きなのか、その理由を説明することが

難しいのと同じくらいの難しい問題なのだと個人的に思っていて

たとえば小林秀雄がこんなことを書いている。


小林秀雄 考えるヒント

p200


そこから素直に発言してみると、批評とは人をほめる特殊な技術だ、と言えそうだ。


p201


 ある対象を批判するとは、それを正しく評価する事であり、正しく評価するとは、その在るがままの性質を、積極的に肯定する事であり、そのためには、対象の他のもとのとは違う性質を明瞭化しなければならず、また、そのためには、分析あるいは限定という手段は必至のものだ。カントの批判は、そういう働きをしている。


対象の良い性質を指し示す方法として

過去の記憶からそれと似たものを引き出し並置して

「○○に似ている」

というとか、比喩をつかって、

「まるで○○みたいな」

といって指し示したり、

または似ているけれど異なる性質を強調して、

「○○とはここが異なる」

という方法が挙げられる。

もっと分析的にここの曲線がいんだよ、とか

この構造が良さを生み出すんだ、とか

このメロディラインがいいとかと言う方法もある

けれど、そういうことができるのは

過去に接した類似した良いモノのサンプルの中から

その良さを生み出すための共通な法則を

すでに抽出できている場合に限られる気がする。

衝撃を受ける作品というのは

いままで出会ったことのないからこそ

その衝撃が生まれるわけで

そこには非線形なジャンプがある気がする。

そういうときに対象のいいところをどうすれば指し示す

ことができるのか?ということがいまの問題なんだど


でもそういう場合でもやっぱり

過去の記憶からなにかを引き出して並置させて

論じるしかないという気がする。

でもそうすると、比較できるものはないのだから

いくら似たものを挙げて並べていったとしても、

対象をとらえることはできないのではないか?

とここまで

審美判断のときの扁桃核の活動と

批評をしようとしているときの脳のモード

はなにか関係があると思って書いてきてのだけれど

この論文は美しい/醜いという審美的判断には言語は必要なくて

でも、批評の場合は、その審美的判断の根拠を

さらに言語化するプロセスが加わるから

じつは問題はもっと複雑で、脳が批評モードのときは

審美的な判断のプロセスと、それと似た体験の記憶を

高速かつ直感的にサーチしているプロセスと、さらに言語によって

そこにかたちを与えようとするプロセスが複雑にまざっているに違いない

と思った。


というわけで、審美的な判断と批評は、同じようで、異なるところがかなりあると

いうことに、ここまで書いてみて気がついた。

意味不明な結論ですいません。。

MRIの写真

fMRIのデータを解析しているオンゾウから

自分のMRIの写真をもらってプロフィールの写真を変更した。

イケてる

というよりかは

イッてる

感が否めないけれど

でもなんか一目で

脳に関するブログだとわかるところが

個人的にはいいと思う。


f:id:toooru:20071206002153j:image


オンゾウに解析したfMRIのデータをみせてもらう。

Sさんとは全然脳活動の傾向が異なるのだけれど

Tとおれの脳活動は同じ傾向が出ていて

こんなに似た部位が活動するものなんだぁと感心する。


火曜日, 12月 04, 2007

Firefox


ブラウザのなかで英語の辞書を使いたくて

ブラウザをIE6からfirefoxに変える。

FirefoxとIEとの違いって、タグで新しいページを

開けることだけだとずっと思っていたけれど

ユーザーが機能を自由に拡張できるアドインの便利さにびっくりする。

firefoxがリリースされて数年たっているのに

いままで一度もfirefoxを試そうと思わなかったのは

なぜなのだろう?と思う。


とりあえず辞書関係でいれたアドイン。

Mouseover Dictionary

http://www.forest.impress.co.jp/article/2006/10/26/mouseoverdictionary.html


英辞郎のデータがあれば、ウェブページ上にカーソルを当てるだけで

英和の訳が見られる。

Answers.com for Firefox (for Windows, Mac and Linux)

http://www.answers.com/main/firefox_plugins.jsp

Altキーを押しながら単語をクリックすると

英英辞書が開くアドイン。

ついでに

Greasemonkey+GoogleAutoPager

http://la.ma.la/blog/diary_200506231749.htm

グーグルの検索ページで下にスクロールしていくと

自動的に次ぎのページを継ぎ足してくれるアドイン


あと、はてなのブックマークをはじめた。

http://b.hatena.ne.jp/toooru/

面白いと思ったのは

*usersというところをクリックすると

自分がブックマークしたページに対する

他の人のコメントの一覧が見られるのだけれど

見てみるとポジティブなコメントだけでなく

つまんないなどのネガティブなコメントも結構多いこと。

つまんないならブックマークすんな!と思ったりもする。

RSS ReaderとしてGoogle Readerを使いはじめた。

いままではHeadline-Reader Liteという

RSS Readerをつかっていたのだけれど

Google Readerの良さに気づく。

海外に脳科学を専攻している人のブログが

たくさんあることに気がついて

論文の情報源になりそうなものは片っ端から登録している。

おすすめはこれ。

http://www.mindhacks.com/

このブログからたどっていくといろいろなサイトに出会える。

日本語でこういうブログ・サイトをつくれたら需要がありそう。

そして、いままでIE6をつかっていたことが腹立たしくなってきて

それが連鎖して

Outlook Expressのスパムメールに対する無力ぶりにあいそがつきて

徐々にだけどメール環境をすべてgmailに移行することを決意。

hotmailをgmailで読み込むことはできないようなので

hotmailに来るメールをどうやってgmailに移行するかが目下の課題。


あと携帯をauのinfobar2に買い換えようとしたら

携帯の値段が上がっている!

26000円は高いなー。さらに一年以内に換えると18000円のペナルティーつき。

来年もしiPhoneが出たら速攻でかえるつもりなので

それまで待つべきか。。

火曜日, 11月 27, 2007

無我の脳活動


Goldberg II, Harel M, Malach R.

When the brain loses its self: prefrontal inactivation during sensorimotor processing.

Neuron. 2006 Apr 20;50(2):329-39.


我を忘れてなにかに没頭しているときの脳活動と

自分を意識しているときの脳活動の間に

違いが見つかった、という論文。

被験者にサッカーボールやヨットや象の写真を見てもらい

映っているものが

好き/嫌いか、どちらでもないかを判断してもらう内省タスクと

動物か、その他かを判断してもらう分類タスク

をしてもらう。

あるものが好きか嫌いかは自分の感情を内省しないと

判断できないためメタ認知が必要になるけれど

動物かそうでないかを分類する作業にはメタ認知はいらない。


その結果

分類タスクをしているときの脳活動は、

内省タスクをしているときの脳活動と比べて

有意に左脳のSFG(left superior frontal gyrus)の活動が低下する。

写真だけでなく音で同じタスクをさせても同様の結果が出た。

なにも考えずにできる作業をしているときは

前頭葉の活動(ここではleft SFG)が低下しているという結果は

脳トレで単純な計算をしているときのほうが難しい問題を

解いているときよりも前頭葉の活動が活性化するという

はなしとは逆の結果となっていて面白い。


ハイデガーが意識について

熟練した大工がかなづちで釘をトンカントンカンと

打っているときは無我の状態なんだけど、釘を打ち損なって

修正しなくてはいけなくなると我にかえる

という例をあげて

運動する→環境が変化する→感覚入力を受ける

また運動する→・・というループが

予測通りに進行しているときは、意識は環境と一体化していて

消えているのだけれど

そこにゆらぎやノイズがはいって予測と感覚入力の間にズレが生じると

そのズレを修正するために意識が立ち現れる

という議論をしている。

だからこの論文の結果は、

sensory-motor couplingのズレがないときは

前頭葉は活動しないのだけれど

sensory-motor couplingにズレが生じると前頭葉が活動して

メタ認知が立ち上がり

脳のリソースを再配分してそのズレを修正しようとする

と解釈することができる。

メタ認知というのは

ある計算プロセスが走っている

そのプロセスを外から眺めるというイメージがあって

ハンフリーが「内なる目」という本のなかで

こんなわかりやすい絵を描いている。

f:id:toooru:20071128031821j:image


機能主義的にいうと

前頭葉は不測の事態が生じたときに

自分の行動を修正するために進化した

と説明することができる。


しかし、そんなことを言いたくてこのエントリーを

ここまで書いてきたのではない気がしてきて

自分が一番不思議な感じがするのは

メタ認知が立ち上がっていなくても意識はある。

外の世界を感じクオリアも感じている。

そして、そういう状態から引き剥がされたカタチで

その状態をモニターするメタ認知が生じる。

それを外から俯瞰すると上の絵のようになるわけだけれど

それは実際にわれわれが日々感じている

メタ認知体験とは異なっている気がしていて

自分の日々の生活は、論文について考えなくてはいけない

(メタ認知が立ち上がっている状態)と思っていながら

いつのまにか妄想モードに没入していて(メタ認知消失状態)、

ふと我に返って(メタ認知が立ち上がって)といかんいかんと思って

また論文について考える・・

という無限ループなんだけれど

そのプロセスは

直線があって、その直線から引き剥がされたかたちで、

外からその直線を俯瞰する自分がいる

というようなイメージではないのではないか?

直線の先端にずっと自分というのは固定されていて

メタ認知が立ち上がってなにかから

引き剥がされたような感じがしても

やっぱり自分はずっとその先端にいつづけている・・

そういうプロセスがずっとずっと起こっている。

というか、なんというか、

ハンフリーの絵みたいな新たなループが生まれるのではなくて

メタ認知の消失状態も起動状態も

トポロジカルには同じなんじゃないか?

それはどういうカタチをしているんだと言われると困るんだけれど

死にかけている私、メタ認知が起動すると

幽体離脱をおこして、それを見ている幽体離脱の私が

立ち上がる、というイメージではない

新しいイメージがつくれるのではないかと思った。

と考えてみたけれどこれはなんか違うきがしてきた。

自分が不思議なのは、日常の生活のなかでは

メタ認知の起動と消失の境界というのはずっとあいまいで

いまいちいちどっちだろう?なんて考えることなしに

思考というものは両者があいまいに絡み合いながら進行している

そういうありようが面白いのだと思う。


しかしループが付け加わるという概念はどこまで有効なのだろうか?

たとえばさらにもうひとつループがつけ足されたとき

そこから脳に生まれるであろう新しい機能を演繹することは可能なのだろうか?

たとえば人間以外の霊長類が一階建ての脳をもっていて

人間だけが二階建ての脳をもっているとする。

二階の住人は一階で起きていることを観察して

行動に反映させることができる。

チンパンジーはどうなんだ?とかいろいろ疑問はわくけれど

問題を簡単にするためにそう仮定してみよう。

ではさらにヒトが進化して、脳が

三階建てになったらどうなるのだろう?

三階の住人は二階の住人を観察して行動に反映させることができる。

では三階の住人たちによってもたらされる新しい脳力はなにか?


すぐ思いつくのは

脳のなかにいくつもの人格を同時に走らせられるようになることだろう。

多重人格の人でも、同時に現れる人格は1人なんだけど

それが何人も頭のなかで現れている状態。

でも幻聴みたいにいつも別の人の声が頭のなかで

聞こえるという状態では困る。。


階層が一段あがればなにか質的な変化がおこるという

直感はするのだけれど

いまの階層=ループが増えることのメリットは

たんにパターンしか処理できなかったのが

パターンのパターンまで処理できるようになって

さらにパターンのパターンのパターンまで処理できるようになる

ということしか想像できなくて、そこからは質的な違いは出てこないのではないか?

だから、ホーキンスの階層モデルも階層を積み上げていって

パターンのパターンのパターンの・・とパターンの階層が上げられる

といってもそこから質的な変化が生まれるとは思えない。


そもそもいまアツいスモールワールドネットワークだって

新しいループが付け加わったとき、そこにどんな質的な変化が機能上生じるのか

そういうことを予想できる枠組みは備えてない。

ってよくわからなくなってきたのでここで考察おしまい。

日曜日, 11月 25, 2007

かってにベスト


初音ミクの進化を見るのが面白くて

ここ一ヶ月ぐらいずっとニコ中(ニコニコ動画中毒)である。

日々新しい曲が現れるということが

とてもエキサイティングなことで、ネット上で生まれる「祭り」って

このことなんだと感覚的に理解。

面白いことが起こってる場所に人は集まってくる。

せっかくネット時代に生きているんだから

一生に一度は1万アクセスのコンテンツを作ってみたいなーと思う。

きっと一度でも1万アクセスとかいくような体験をしたら

やめられなくなるのではないか?

そういう興奮を味わえる可能性がだれにでも開かれたところがネットのすごいところだと思う。

ニコニコ動画では「才能の無駄遣い」という言葉が

いちばんの誉め言葉になっているところがとても面白くて

そういうインセンティブを与えてくれるコミュニティの存在と

それに参加しようとする個人の在りようが

たぶんウェブ時代の創作の本質なのだと思った。

というわけでかってにベスト。

【動画】桜の季節 - Full.ver 【初音ミク】(オリジナル)


D


オリジナル:http://www.nicovideo.jp/watch/sm1427306





【初音ミク】オリジナル曲 「melody...」 (STEREO)(高画質)



D


オリジナル:http://www.nicovideo.jp/watch/sm1381337





初音ミク オリジナル曲 「saturation 」 高音質



D


オリジナル:http://www.nicovideo.jp/watch/sm1237688





初音ミク オリジナル曲 「近未来都市」



D


オリジナル:http://www.nicovideo.jp/watch/sm1422063





[PV]みっくみくにしてあげる/初音ミク Miku Hatsune(画質・音質修正)



D


オリジナル:http://www.nicovideo.jp/watch/sm1359820


土曜日, 11月 24, 2007

ウサビッチ


いまウサビッチがあつい。

これ。


D



公式ホームページに書いてある紹介文がまたおもしろい。
http://www.usavich.tv/about.html

ロシアの監獄に閉じ込められたウサギのキレネンコとプーチン。監獄生活といえば希望のない暗い毎日のはずなのに、なぜか彼らはのほほんお気楽な収監ライフを満喫中。

彼らにとっては看守たちとの日々のイザコザも退屈しのぎの楽しいレクリエーション。監獄に紛れ込んだ動物がいれば仲間に引き込み、やりたい放題好き放題のユルすぎる監獄ライフは絶好調!

かたや極悪死刑囚のキレネンコ、かたやちょっとしたサボタージュで懲役をくらってしまった善良市民のプーチン。性格も境遇も違いすぎる彼らの監獄ライフは一体どんな結末を迎えるのか……。 

リズミカルな展開の中にドタバタが満載! そしてトラブルはてんこ盛り! 企業用映像からテレビCM、そしてゲームなど、多岐にわたる活躍のフィールドを誇り、そのすべてにおいて独自のセンスと圧倒的なクオリティで高い評価を受けるカナバングラフィックスが制作を担当した良質のシチュエーションコメディ。

1-20話をすでに三周ぐらいみてしまっていて中毒度かなり高し。

プーチンのゆるさがたまらない。

無敵のキレネンコが最高。

いじめられるのが大好きなコマネチ(オカマヒヨコ)の顔がいい。

お約束で最後に流れるクラシック音楽(曲名忘れた)もいい。

キャラが立ったキャラクターたちの相互作用がとても

リズミカルで気持ちいい。とくに5話の音のセンスが秀逸。

とても厳しい環境なんだけど、そういうものを超越した

楽観的で陽気な雰囲気の感じが

昔見た映画「レニングラード・カウボーイズ・ゴー・アメリカ」に似ていると思った。

この全体に流れるゆるくて楽しい雰囲気・世界観は

ロシア人の国民性にもともとあって、

それを抽出してパロディ化することで生まれたものなのか

天才バカボンのようなギャグまんがやコメディというジャンルが発見した

笑いを生み出すためのお約束なのかはわからないけれど、

このウサビッチの雰囲気から感じられる手触り感はとてもいいと思う。

金曜日, 11月 23, 2007

Flickrの楽しさを知る


最近、WiredでFlickrが『Place』というサービスを始めたのを知って

初めてFlickrの楽しさを知る。

『Flickr』で世界旅行:写真や情報を一覧できる『Places』機能

http://wiredvision.jp/news/200711/2007112218.html


IcelandのReykjavik

http://www.flickr.com/places/Iceland/Reykjavik/Reykjavik


Flickr Places

http://www.flickr.com/places


上のページにアクセスして、どこでもいいから地図をクリックすると

たいてい一枚はおっ!と思えるすごいクオリティの風景写真があって

見ていてとても楽しい。飽きない。

どこか地図をクリックすればかならず一枚はいいと思える写真と

出会えるのってじつはとてもすごいことなんじゃないかと思う。

集合知のパワーを実感。


素晴らしい写真を見ているうちに沖縄のせいふぁうたきを思い出した。

せいふぁうたきは沖縄の宗教の聖地のようなところで

二年前に研究室旅行で沖縄にいったとき、かなり衝撃を受けた場所。

それで、せいふぁうたきの写真がないかとokinawa+seifa-utakiで

検索してみたところ、あった!

http://www.flickr.com/search/show/?q=okinawa+seifa-utaki

写真を見ていると、記憶のなかのせいふぁうたきが甦ってきて

多くの眼を集合させることでひとつの場所を記録するという

プロセスがとても面白いことだと思った。

でも

Flickrの写真を見ていると曇りの日の撮影が多いことに気がついて

二年前にいったときは晴れていて、蝶々が飛んでいたり、

岩のすき間から光が射し込んでいたりしていて

自然が生み出した聖地!!という感激があって

この場所は、いつもこんな感じなんだろうなーと漠然と思っていたのだけれど

もし曇りの日にいっていたら、いま抱いているような特別な場所という

感覚は生まれなかったのではないかとふと思う。

記憶のなかのせいふぁうたきはじつはとても運が良かったから

たまたま出会えただけなのかもしれない思ったら、

時間の稀少性について考えた。

9月に長野にいったとき丸山健二さんのお宅で見せてもらった花たちの写真は

すごく生命感が溢れていて、小林秀雄の

美しい「花」がある 「花」の美しさという様なものはない

という言葉の意味を実感したのだけれど

そういう花の形を撮るためには、

1年のある日のある時間帯という

すごく時間窓の小さいタイミングが

存在するのだというはなしにとても感動した。

それ以来、美というは永遠というよりは

一回性によって支えられていて

その一瞬を永遠なものにするのがきっと芸術家の役目なのだけれど

その一回性の背後には、

サンゴが満月の夜に一斉に産卵をするように、

自然界の生物たちが直面している、種を残すために交配相手といかに出会うか

タイミングをものにするか、という切実な問題があって

そのなかから、交配相手の気を引くために、自分の生命エネルギーのすべてを

あるタイミングに集中的に投入して、一瞬だけでいいから輝いてやろう、

という戦略をとる生物が現れたとき

そういう信号をちゃんとキャッチするために

美という感覚が進化してきたのではないかと考えるようになった。


ある場所の風景だって、そこにある花や木々や太陽光の組み合わせが

一番いいときというのは、一年の中できっとわずかなタイミングしかなくて

一人一人の眼と時間は有限で、そういうタイミングに出会える可能性

はとても低いのだけれど

みんなの眼と時間を持ち寄れば、

そこには無限とも思えるリソースが生まれることを意味していて

それが、Flikrに素晴らしい写真がたくさんあることの理由なのだと思った。


ヒトが1億人いて、みんなデジカメをもっていれば

だれでも一生に1枚は最高にイイ写真を撮るだろう。

その1枚がネットにアップされるだけで

1億枚からなる写真集が生まれる。

そんな消費しつくせない素晴らしいもので溢れる

時代に立ち会ってしまっているのかもしれないと

想像してみるとなんだかすごいことだなーと思った。


というわけで、おれも写真を投稿してみたyo。


Seifa-utaki 1





Seifa-utaki 2


おれのfavorite集

http://www.flickr.com/photos/21150146@N07/favorites/show/

水曜日, 11月 21, 2007

拡張現実感

こんなホームページを見つけた!


「攻殻機動隊」「電脳コイル」の世界を実現!

ARToolKitを使った拡張現実感プログラミング

http://www1.bbiq.jp/kougaku/ARToolKit.html


現実世界にあるマークをウェブカメラで映すと

あらかじめ登録してあるポリゴンデータを

映像に映っているマークの上に上書きしてくれる技術。



D






D


「拡張現実感」=「Augmented Reality(AR)」と呼ばれているらしい。

これはヤバい!!

これを使って何か認知実験ができたら面白くない?


金曜日, 11月 09, 2007

英語耳のススメ


英語のヒアリングがまったくもって上達しなくて


ずっと放置していたのだけれど


最近一念発起して再びチャレンジを始める。





小林秀雄の「考えるヒント」の「言葉」という文章でつぎのような感動的な考察があった。






生活するとは、人々がこの似せ難い動作を、知らず識らずのうちに、限りなく繰り返す事だ。似せ難い動作を、自ら似せ、人とも互いに似せ合おうとする努力を、知らず識らずのうちに幾度となく繰り返す事だ。その結果、そこから似せ易い意が派生するに至った。これは極めて考え易い道理だ。実際、子供はそういう経験から言語を得ている。言葉に習熟して了った大人が、この事実に迂闊になるだけだ。言葉は変わるが、子供によって繰返されている言葉の出来上がり方は変わりはしない。子供は意によって言葉を得やしない。真似によって言葉を得る。この法則に揺ぎはない。大人が外国語を学ぼうとして、なかなかこれを身につけることが出来ないのは、意から言葉に達しようとするからだ。言葉は先ず似せ易い意として映じているからだ。言うまでもなく、子供の方法は逆である。子供にとって、外国語とは、日本語と同じ意味を持った異なった記号ではない。英語とは見た事も聞いたこともない英国人の動作である。これに近附く為には、これに似せた動作を自ら行うより他はない。まさしく習熟する唯一つのやり方である。






さらに続いて






例えば、「お早う」という言葉を、大人風に定義して意味するのか、それとも、という具合で切りがあるまい。その意を求めれば切りがない言葉とは即ち一つの謎ではないか。即ち一つの絶対的な動作の姿ではないか。従って、「お早う」という言葉の意味を完全に理解したいと思うなら、(理解という言葉を、この場合も使いたいと思うなら)「お早う」に対し、「お早う」と応ずるより他に道はないと気附くだろう。子供の努力を忘れ、大人になっている事に気附くだろう。その点で、言葉にはすべて歴史の重みがかかっている。或る特殊な歴史生活が流した汗の目方がかかっている。昔の人は、言霊の説を信じていた。有効な実際行為と固くむずばれた言葉しか知らなかった人々には、これほど合理的な言語学はなかった筈である。私達は大人になったから、そんな説を信じなくなった。しかし、大人になったという言葉は拙いのである。何故かというと、大人になっても、やっぱりみんな子供である。大人と子供とは、人性の二面である、と言った方が、真相に近いとも思われるからだ。これに準じた言葉にも表と裏がある。ただ知的な理解を極めてよく応ずる明るい一面の裏には、感覚的な或は感情的な或は行動的な極めて複雑な態度を要求している暗い一面がある。






これを読んで


ミラーシステムについて言及している!とか、


レイコフの身体性に基づいた言語学よりずっと前に同じことをいっていたのか?とか


小林秀雄はこの言語観をどうやって得たのだろうか?とか、


本居宣長がすでにそういう言語観に達していたのか?とか


ってか、哲学的な思考ができる人ならふつうに気づくことなのか?とか


たくさん考えたいことはあるのだけれど、


なによりもここから





「言語とは運動である」





という深い確信が芽生えて


もう一度ヒアリングにチャレンジすることにする。











教材として選んだのは松澤喜好さんの「英語耳ドリル」で


松澤さんは一つの歌を300回聴くというメソッドを


提唱していて、


最初の100回は耳慣らしでただ聴くだけ。


次の100回は発音記号つきの歌詞を見ながら聴いて


発音記号と発音を対応させるべし。


最後の100回は、自分で声に出して歌う。


というシンプルな内容で


簡単な運動を繰り返し練習するというプロセスが


スポーツにおける運動の獲得方法とまったく同じだと思い


これをすることにする。





先週とりあえず100回聴いて


つぎの100回をやろうとしたら


発音記号をマスターしてないことに気がついて


先週末は「英語耳」で43個の子音と母音の


発音方法を辛抱強く勉強したのだけれど


これがめちゃくちゃ面白い!





一つ一つの発音記号には、


正しく発音する方法があって


舌の位置と動かし方、息の出し方を


一から勉強すると


いままでまったく未知の


舌と息が連動したダイナミクスが


英語を発する口のなかでは繰り広げられていることに


はっきりと気がついた。





この感覚はやってみないと共有できないと思うのだけれど、


例えばテニスで練習して正しいフォームをみにつけることで


いつもボールをミートできるようになったときの快感と同じように


正しい舌と息の運動によって正しい発音ができたときの


快感というものがある!





一音一音正しい舌の動きをしようとすると


ひとつの単語を発音するだけでもすごい労力がかかって


舌をつりそうになるんだけれど


そうやって発音してみると確かにネイティブっぽい発音になっていて


初めて逆上がりができたときの喜びみたいなものがあった。





そして、この労力と注意深さでもって、


すべての単語というのは発音しなくてはいけないものなのか、と思うと、


それは、意味だけではなく、新しい運動のイメージを


一つ一つの単語に新しく貼りつける必要があることを意味していて


いままで既知だと思っていた土地が


突然広大な未知の大陸に変わるような感覚がして面白いと思った。





まだ現在進行形だけれど


英語が苦手な人にはおすすめ。


同志モトム。











そんな一日の夜、スペクタルな夢を見た。


都市の上空(たぶん高度500mぐらい)を電車が走っていて


電車のなかは普通に通勤電車の風景なんだけど


窓から眼下には、高層ビルから見えるような


東京の街並みが広がっていて、


そのなかに一本だけ高い塔が立っている。





おれのミッションはなぜか走っている電車から


その塔に向かって火の玉を投げて、塔にてっぺんから出ている


導火線に火をつけなくてはいけないということになっていて


塔が真下に見えたときオレは電車の窓から塔にむかって火の玉を投げた。


玉は落下していくのだけれど、慣性の法則を考慮せずに投げたためか


玉は塔から右に外れていく、、失敗した!と思った瞬間、


火の玉が破裂して、花火みたいに広がった火の粉が


塔の導火線に火をつけて(なんて都合のいい展開!)


そうしたら塔から空中に向かって花火が打ち上げられて


電車のなかから、球状に広がる大きな花火を見た。





夢の中なんだけどミッションコンプリート!みたいな


高揚した気分になって目が覚める。





ふだんはこんなスペクタルな夢をまったく見ないので


これは脳が英語耳体験の興奮を


別の物語を通して解釈した結果なのかもしれない


と思った次第。





おしまい。


火曜日, 10月 09, 2007

fMRIでハンサム脳


先週金曜日に認知実験のバイト生まれて初めてfMRIに入った。


ズギュン、ズギュン、ズギュン、という1Hzぐらいの機械音が


絶えず鳴り響く狭い空間のなかで頭を固定されて


一時間じっとしながら鏡に写ったモニター画面をみつつ


ときおりボタンをおすという実験をした。


なにか脳に負荷がかかっているという感覚があって


ああ、いま頭のなかをスキャンされているんだ、


という解釈がたちあがって、


なんだかとても不思議な体験だった。


この感覚をなにかSFのネタにできないだろうかと


いろいろ思案してみる。





実験がCMに関する実験で、それでCMについて


いろいろ考えさせられた。


CMを認知科学的にみるとまさに文脈問題そのもので


自分がいままさに興味をもっているものに関するCMは


感情が動くのだけれど、自分が興味のないものに関する


CMはノイズとみなされる。


だからウェブのターゲット広告は検索したキーワードに関する


広告をだすのですごく効率がよいことが


わかるのだけれど、いまのリアルな世界のCMは


そもそも見ているときに興味のあるCMが流れるかどうかわからないし


商品を目の前にしたときのそのCMを思い出すかどうかわからない


などなどで、CMと商品の購買までの間に


無数の偶然の要素が入り込んでいて、CMの効果がいまいちわからない。


だから、リアルでかつもっとジャストインタイムな


CMの提示の仕組みをつくれたら、きっとすごいビジネスチャンスが


あるのだろうと思った。





自分の脳を初めてみた。片半球がなかったらどうしよう、とか


前頭葉が一部欠けていたらどうしようとか、計るまえは


いろいろと不安がよぎったのだけれど


おれの脳は、スイカみたいに真ん丸くてかつ左右が対称で、


fMRIのスタッフのひとからハンサム脳だと褒められた。


普通の男性の脳はもっと楕円で、左右も非対称なのだという。


自然界では孔雀の羽のように、左右が対称かどうかということが


もてるかどうかの有力な分かれ目になることがあって、だから


脳が左右対称であることが、なにか御利益になることは


ないのだろうかといろいろ妄想する。





f:id:toooru:20071005134842j:image





脳を研究していると言っても、ただ行動だけを計測していたり、


神経細胞のモデルのシミュレーションだけをしていたり、または


心の理論という、ぐにゃぐにゃした概念的なものだけを


相手にしていたりすると


自分は本当に脳のことを研究しているのだろうか?


と不安になることがあって、


だから脳そのものが(映像だけど)目の前に提示されると、


そのリアリティに圧倒された!


しかもそれが自分の脳であるということが興味をそそって


言語野を探したり、視床を探したり、海馬を探したり、


利き腕の運動野のほうが大きいのを確認したり、


脳梁がたしかに女性の脳と比べて小さいのを確認したりして


それがすごく楽しいことに気がついた。





「脳コンサルティング」の着想を得る。





脳についての知識はもっているけれど、実物の脳は見たことがない状態で


意識について考えていると、自分はよく不安になる。


だからfMRIで研究している人たちは、脳そのものから


リアリティを感じられていいですよね、というようなことを


ボスにいうと、だからいまの脳科学はだめなんだ、


というような意味のコメントをされて、理論家魂を垣間見た気がした。


理論とかコンセプトに対してリアリティを感じることができるか?


それが大きな分かれ目だ。





どうでもいいけれど「人生Bダッシュ」という名言を思いついた。


が、ぐぐると15件もひっかかった。うむむ。


水曜日, 10月 03, 2007

いつのまにか10月。


毎日あわのようにぼこぼこと頭に浮かんでくるなにかを


メモして、そこから考えて、忘れて


また浮かんできて、メモして、考えて、忘れて


という無限ループを繰り返しているうちに


なんとなく一日が過ぎている、という生活が続いている。





日記があまり書けなくなったのは


ふつう頭のなかでぐるぐる回っているなまの思考というのは、


背景を説明したり、直感の飛躍を論理で埋めたり、うまい言葉を見つけたりして


かたちを整えないと、そのままでは他人とは共有不能な性質をもっていて


そのかたちを整えることがどうも億劫になってしまって、





しかし書きづらいと思うことを書こうとしない限り、


書くということのレベルアップは望めないわけで、


だから、なにか書こうと思ったら


こんな文章になった。うーむ。


他人にも理解してもらえる文章を書くことを日課にしたいと思ふ今日この頃。


水曜日, 9月 12, 2007

旅の記録:長野


9月9日


キャンプをしにレンタカーで長野県へ。





長野市にある善光寺には、


真っ暗闇の廊下を歩いていき途中で「極楽の錠前」を触る


というアトラクションがあった。


似たようなものが京都の清水寺にもあった気がする。


この手のアトラクションの建造が


お寺の間で流行っているのだろうか。


どうでもいいけど「快楽の錠前」でぐぐったら一件もヒットしなかった。





キャンプ場で


ほしの発案のイタリア料理・アフリカ料理・トルコ料理


http://eco.goo.ne.jp/nature/outdoor/woc/


の料理バトルをするために


長野市内で買い出し。


100円ショップで料理器具がほとんど


そろってしまうことに感動。


イカ墨がない!とかクスクスはどこだ?とか


レシピの材料を揃えるのがとても楽しかった。





キャンプ場の青木湖に向かうために山道をドライブ。


レンタカーはiPodをつなげることができるようになっていて


対向車がまったくこないような深い森の山道のドライブに


おんぞうチョイスのビョークが驚くほどマッチしていた。


ビョークは出身のアイスランドの深い森から


創作のインスピレーションを受けたのだろうか。


f:id:toooru:20070913013915j:image





日がどっぷり暮れた頃、青木湖に到着。


料理バトル開始。


くじで決めたおれ・ほしの・おんぞう・たかがわ班は


イタ飯でイカ墨のリゾット、野菜とシーフードのホイル焼、


パイナップルとチーズの一口ピザをつくった。


といってもおんぞうとたかがわが


ほとんど全部つくってくれたのだけれど


他班のトルコ料理とアフリカ料理も無事完成し


大急ぎでつくったわりには食べられるものができたことに感動。





9月10日


翌日の朝、青木湖をみる。


まるでミステリーものの殺人事件の


舞台になりそうな青く澄みきった静かな湖で


晴れると湖面にはまるで鏡みたいに風景や空が映り込んでいた。


f:id:toooru:20070913013628j:image:w250


桟橋の先端に立ってもらって湖をみながら振り返って


「そう、わたしが犯人だ」


と言う映像をビデオカメラで撮ろうと試みる。


犯人プレイは案外むずかしい。





ボスの発案で丸山健二さんのお宅へ伺う。


丸山さんは有名な作家で、長野に住んでいる。


車三台で引率の丸山さんの車を追うのだけれど


最後尾を運転していたおれはちぎられて道に迷った。


丸山さんはミニマム80キロが基本らしく、


40キロ道路を80キロでがんがん飛ばしていた。


こっちの地域の人々はなんで峠バトルモードがデフォルトなんだ?





おそばやさんで天ぷらそばをご馳走になったあと、


丸山さんの家に伺い、庭を見せていただく。


秋なので花は全然咲いてなかったのだけれど


庭に咲いた花を撮った写真を見せてもらう。


セミの羽化の一連の各プロセスが


夏のある一日のある晩にしか起こらない一瞬のイベントであるように


花も満開になって咲いているのは一日ぐらいしかなく


しかも太陽の光は一日のなかで時々刻々と変化しているので、


ある花の生命力が一番溢れている瞬間を写真に撮ろうとすると


シャッターチャンスは一年のなかのある一日のある一瞬しかないという。


その一瞬を捉えた写真を2百枚ぐらい見た。


見たことのない花ばかりで、


それら花たちが一瞬みせる生命力の発露みたいなのが


写真に焼き付けられていて、すごかった。


こんど花の本を出すらしい。





おはなしも面白かった。


文学は19世紀がピークなのだという。。


どんな作品があるのか聞いておけばよかった!


その他、びっくりヒーリングばなしなどなど。


丸山さんは人生をロックしていた。


人生についていろいろ考えさせられた。


新刊の「生きるなんて」を学生全員にくれた。





一日はやく帰宅するボス・おんぞう・としまさんと別れたあと


BBQの買い出し、白馬の温泉にはいって、


キャンプ場でカレーライス+BBQをした。





9月11日


白馬のスキー場のゴンドラにのって


栂池高原へいった。


自然植物園はハイキングと山登りが


同時に楽しめておもしろい場所だった。


f:id:toooru:20070911123908j:image


f:id:toooru:20070913013746j:image:w250





そのあと、熊が出没する山奥の秘湯へゆく。


どうでもいいけど一句。


熊出没の秘湯に入った9.11





帰路。帰りの高速道路。


夜道、大雨、霧で道路が全然見えない中


時速100キロで走行。


まじで死ぬかと思った。


生物としての反射神経をもっと


鍛えないといけないのではないだろうかと思ふ。





研究室のみなさま、お疲れさまでした。


楽しい旅でした。


火曜日, 9月 04, 2007

エヴァンゲリオン


一ヶ月ぶりに日記を書いてみて


自分が感じたこと考えたことの半分も書けないことに


がくぜんとする。


なんで文末は「思う」・「思った」ばかりなんだ?


風景描写と人物描写がないからだろうか。





というわけでしばらく文章修行モード。





今日、映画のエヴァンゲリオンを見た。


おもしろかった!


テレビ版よりも心理描写が緻密になっていて


なんといっても使徒の動きがいい!


一見の価値あり。





エヴァンゲリオンのひとつの大きな功績は


綾波レイというヒロインを生み出したことだろうと思う。


そのあとのたくさんの模倣作品をみればいかに


大きなインパクトを与えたかということがわかるのだけれど、


宮崎駿はナウシカというすばらしいヒロインを生み出したけれど


きっと綾波レイは生み出せなかったのではないだろうか


とかと考えると


男の作者が、ヒロインを生み出すプロセスというのは


いったいどういうことなのだろうか、と思う。


理想の投影?





そういえばマンガにナウシカ第1巻の巻末によると


ナウシカというのはギリシャの叙事詩オデュッセイアに


登場するパイアキアの王女の名前で、感受性がとても豊かな


魅力的な女性として描かれていて、それと、今昔物語に登場する


虫愛(め)ずる姫君という野原を飛び歩き芋虫が蝶に変身する


姿に感動したりする姫君がいつのまにか同一人物になっていて生まれたらしい。





あとエヴァンゲリオンの世界観を支える


ひとつの要素として


機械がヒトの精神とシンクロする


ヒトの精神に呼応する


ということが挙げられると思う。





現代の科学技術は


バイオフィードバックとかは昔があって


脳波のα波を脳にフィードバックすると


α波を意識的に出せるようになる


という技術はあるけれど


ヒトの精神の一番よくわからないところを


検出し増幅してくれる機械をつくることは


いまだできない





先の戦争では日本の根性・気合いの精神論は、アメリカの物量の前に


破れてしまったわけだけど、


もしもそのような


気合いを増幅する機械


があったら世界はどうなるのか?


その仮想シミュレーションをしているのが


日本のロボットアニメなのかもしれないと思った。





情報科学では


A.I.(Artifical Intelligence)と並んで


I.A.(Intelligence Amplifier)という概念があって


ようは、コマンド入力の時代と比べれば


ウィンドウズのようなGUIは


人々の作業効率を著しく上げていて


人々の知性を増幅したと見なせる。


コンピューターは人の知性を増幅した。





そこで、もっと精神とシンクロするような


機械はつくれないのか?と考えてみる。


なづけて


S.A.(Spirit Amplifier)





人生の壁ってやつを乗り越えることを


助けてくれる機械はつくれないものか。





"memory+"の応用範囲は


案外ここにあるのではないかと思ったりする。


月曜日, 9月 03, 2007

進化の学会


いつのまにか9月。


進化学会でボスの代打ではなすことになり


8月は進化学会の準備で潰れた。





意識における進化の収斂というテーマのもと


水無脳症の赤ちゃんは皮質がなくても意識があるようにみえる


鳥はvisual awarenessをもっているのか


タコは賢いけど意識があるのか


これらに共通の意識が生まれる神経機構はあるのか


について考えてはなしてきた。





複雑系コミュニティのひとたちは


意識を時間の側面から捉えていると思う。


一方、脳科学者は、意識があるときは


ココとココが活動した、みたいな脳計測の図をいつもみているので


気づかないうちに意識を空間的イメージで


考えてしまっているのではないか?と思った。


ということは逆に、


複雑系の研究者は力学系のモデルを研究しているから


時間的な性質に引きずられていると言えるのか?





それと


複雑系の人たちにとって意識とはなにか?という問題は


生命とはなにか?という問題と同義で


ヒトの意識もハエの意識も粘菌も同列のものとして捉えていて


脳の構造にはあまり興味がないように見えた。





養老さんが唯脳論で


空間(=構造=視覚)と時間(=機能=聴覚)は相容れないもので


たいてい、ひとりの脳の思考は、どちらかに偏る傾向にある


ということを論じているのだけれど


それってまさにこの問題ではないかと思った。





今回は意識を思いっ切り構造=空間的なものとして考えて


いたことに気がついて、もっと時間的なものについて


考えよう、と思ったのが今回の学会の一番の気づき。


その他にもいくつかの重要なインスピレーションを得る。


断らずに引き受けてよかった。











帰りに智積院にいった。


等伯の「楓図」がよかった。


f:id:toooru:20070904040946j:image


http://www.chisan.or.jp/sohonzan/keidai/syuzoko.html





等伯の息子が25歳のときにかいた「桜図」もあったのだけれど


その息子は26歳のときに他界してしまって


この世の無常を思った等伯が、


全身全霊を込めて描いたのが「楓図」であるらしい。


現物のふすま絵は色が薄くなっていて、


写真のような色鮮やかさは、感じられなくて


なんでこれが国宝なんだろうと思いながら、でも国宝なんだから


きっとどこかすごいところがあるに違いないと思って


しつこく見ていたらだんだんと「楓図」がすばらしいものに見えてきた!





なにがいいのだろう?と考えていたら、


それは若冲の絵と同じで「生命力」が感じられる


というところに惹かれていて


絵のなかに植物の「生命力」というものをどう描き表すか?


という問題に等伯は立ち向かったんだなーと考えていたら


進化学会で、郡司さんの生命をいかに記述するか?


生命をどんなイメージで捉えるか?という問題意識や


ベルクソンが純粋持続ということばで捉えようとした


脳のなかの生命現象のイメージとか


そういったものたちがあたまのなかでぐるぐる回りはじめて





それらの仕事たちは、


生命をどう記述するか?どうやったら自分には


ありありと感じられている「生命」を、


そのまま失われることなく他人にも感じさせることができるか?


という共通の精神をもった、


異なるチャレンジの成果なのかもしれない、と思った。


月曜日, 7月 30, 2007

カユカユ地獄


三連休の頃、蚊に食われたと思って


足の太股ふきんの赤い発しんを掻いていたら


枯草の野原で野火が一気に燃え広がるように


赤い発しんがまたたくまに身体中に広がって


皮膚科にいったら、多形滲出性紅斑という病気に


かかっていることを知る。





とにかく痒くて、一番ひどいときは


起きているときは我慢できても


夜寝ると無意識に掻いてしまって


2時間置きに目覚めてはかゆみ止めを塗る


という行為を繰り返す。


それで、しょうがないので、ベルトで両手首を縛ってみても


なぜかほどいて掻いている状態で目を覚ます。





痒いところを掻くとなぜかとても気持ちがよくて


掻き始めると、止められなくなって掻いていると


だんだん皮膚が破けて血が出てきて


爪が血みどろになりながらもまだ気持ちよくて掻きつづけると


皮膚の表面が燃えるように痛くなって


ようやく掻くのをやめる、


というカユカユ地獄におちる。





苦しい・・と思っていたら束芋さんの新作の作品の記事が日経新聞に載っていた。






 その束芋が満を持して出典した新作が、三階建てのドールハウスを舞台にした「dollfullhouse(ドールフルハウス)」(六分三一秒)だ。


 大画面に巨大な手が現れ、ドールハウス内部にデーブルやイス、ピアノやベッドを置いていく。巨大な手は途中、我慢できずに手をかきむしる。家具は配置を終えたと思えた瞬間、手でなぎ倒された。


 ドールハウスは「世界を縮小したもの」に見立てられている。家具を「ここ」と思う場所に置いているはずなのに、出来上がるにつれ理想の配置とズレていく感覚。そして、「破壊」。


 創作の源は個人的な出来事にある。アトピー性皮膚炎だ。かゆい感覚を我慢できずにかきむしる行為(破壊)。かいた瞬間の快楽と痛み。薬を塗ると皮膚は再生(構築)する。「痛みを伴うと分かっていて、かいてしまうといったことは世間にままある。かきむしる行為を必ず表現できると思っていた」と言う。






このカユカユ地獄も、文脈を変えるとアートになってしまう


この世界の奥深さを想ふ・・。





ここ一週間で、ぼつぼつあった発しんが平たくつながって


日焼けし過ぎて赤くなった皮膚みたいになって


ここ数日で、皮がむけ始めた。





しかし、痒い皮膚を掻くと快感を感じるのなぜだろう?


その脳内メカニズムはなんなんだろうとおもってぐぐると


皮膚には痒み受容器と痛み受容器があって


痒み受容器がアクティブになっていて脳が痒いと感じているときに


掻く=痛みの受容器を刺激すると


脳内で”痒い”と”痛い”が相互作用して快感になるらしい。


本当なのか!?


痛みと快感の脳内部位は分かっているけど、


痒みの脳内部位は分かっているのだろうか?





クオリア空間では、


痒み+痛み→快感


という”化学反応式”が成り立つところがなんだか面白いと思った。


月曜日, 7月 09, 2007

カクヘンモード


オンゾウがオーストラリアからかえってきた。


ワイルドになってかえってきた。


ゼミでもせっきょくてきに発言するようになっていて


めをみはる。


感動が人生の分岐を生む・・というイメージを得る。





高城剛さんの「「ひきこもり国家」日本」を読む。


そのまえにオマケイに勧められて


「ヤバいぜっ!デジタル日本」も読んだ。





ずっと


資本主義とはなにか?お金とは?


格差社会の本質とは?ネットワーク化社会の本質とは?


ということに興味を持っていたのだけれど


「ひきこもり国家」日本を読んだら


ひとつの俯瞰したイメージを得ることができた。





世界はカクヘン(確率変動)モードにはいっていて


パチンコのそれと同じように、成功する確率が高い状態になっているという。


それに気付いた国・個人は当たりを引き


それに気付けぬ国・個人は下流に落ちていく。


そんなマカ不思議な世界に日本はすでに呑み込まれてしまっているという。





そういうはなしは時代の空気からなんとなく感じていて


だからこそ、これからのみのふりかたを真剣に考えるのだけれど





怖ろしいのは、ロジカルに考えてみるとどうも確実に


自分が生きている間に(おそらく20年以内に)


石油が枯渇するというイベントと


国が1000兆円の借金に徳政令を出すというイベント


に立ち会うことになりそうで


おそらくわれわれの世代(70年代生まれ以降)がジョーカーを引く。


「混乱」の時代に必ず遭遇することが約束されている


という事実はどんなホラーよりも怖ろしいことだと思った。





そしてそれにサバイバルするための最高のリスクヘッジがじつは


カクヘンモードに挑戦するということになって


みのふりかたをどうする?の問題に戻ってくる。。